第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う①
一
「
「どうしたんですか? 仲満」
「た、大変だ! 外に
「ああ……」
「ああって、玉蘭、お前、高力士様だぞ!?
彼が驚くのも無理はない。高力士様は皇帝の近侍の
玄宗皇帝は、この唐を混乱に陥れた女禍・
麻の如く乱れた国に平穏を
そんな皇帝のお傍でこの国を支えた、もう一人の立役者ともいえるのが他でもない高力士様だ。
元は女禍・武則天公に
皇帝自身が『我が半身』と呼び、高力士様を通してからでなければ、何事も耳を傾けられないし、
そしてそのような人が、どうして僕を訪ねてきたかと言えば理由は簡単で、彼は僕の叔父なのであった。
とはいえ実際に、血のつながりはない。
武則天公の怒りを買い、一度後宮を追い出された彼を養子に迎え、新しい名でまた皇宮に戻した人物が、僕の祖父にあたる人物だというだけだ。
とはいえ高力士様は祖父に、そして我が高一族に深い恩義を抱いてくださっているし、父と高力士様は、兄弟の杯を交わしている。
僕も幼い頃から肉親同様に慕わせて
宦官は子を
科挙も受けていない僕が、こうして皇子にお仕えできるのは、周囲が僕を高力士様の養子候補だと考えているからだろう。
もっとも、実際の所はわからない。
何故なら僕は高家の庶子で、僕の上に嫡子の息子が二人いる――どちらも科挙に落ち、父の
熱いお茶を仲満に譲って門に向かうと、馬車が待っていた。
馬車の周りに従僕はなく、御者が一人。
すぐに、それがどういうことなのか、僕は理解した。
「乗りなさい」
馬車の扉を
中を
「息災そうでなによりだ」
「それよりも……人払いとは何かあったのですか?」
走り出して数分経っただろうか。やっと叔父上がそう言ったので、僕は少し身を乗り出し、声を潜めた。
その問いに、彼は苦々しく息を吐いた。また二人の兄のどちらかが問題を起こしたか……もしくはその両方か――僕は高力士様の表情に、身体を
「……玉蘭、お前は自分の出生をよく知っているね?」
「え? あ、はい……それは、叔父上――高力士様のお陰です」
「そうか?」
「
僕はそう言って
「だが今聞きたいのは、そういう事ではないのだ。お前がどうやって生まれてきたか」
「それは……父上が心より愛した奥様が亡くなって、悲嘆に暮れているのを心配した高力士様が、せめてと奥様によく似た
僕の父は、女性を何人も囲う事を好まない人で、唯一の妻であった女性を大変大事にしていた。
けれど兄二人と
それからというもの父はすっかり
そうして僕の母もまた、産後の肥立ちが悪く、僕が赤子のうちに逝き、以後、父は新しい女性を迎えずに、子供達に随分と甘い父親として生きている。
そんな父に、いまだに甘えて脛をかじっているのは兄達で、二人とも何度問題を起こしたかわからない。
その度に文官である父に恥をかかせ、高力士様の手を煩わせ、翠麗を心配させる兄には、僕もいつも神経をすり減らされているのだが……。
「…………」
「あの、それがどうかされましたか?」
そっと頭を上げて高力士様を見たが、彼は僕の答えをあまり気に入っていなかったか――もしくは考え事をしているようだった。
「叔父上様?」
「ああ……すまない。もっとよく顔を見せてくれ、
小翠麗――幼い頃の
「幾つになった?」
「春で十六に」
「ふむ、
「それは……まもなく、だと思いますが……でも背は伸びたんですよ。やっと
声も高く、髭も揃わぬ子供だと言われているようで、僕は少し
「確かに背は伸びたな。翠麗と同じ五尺二寸――だが、お前の方が肩幅もあるし、手足も少し長いだろうか」
「そうですか?」
まあ確かに、言われてみればそうかもしれないと、僕は自分の肩に触れた。
「ふむ」
と、高力士様がまた
「……な、なんでしょうか」
妙な空気だ。なんだか段々、嫌な予感がしてきた。
今でこそ、陛下に親愛を込めて『将軍』と呼ばれているが、陛下は高力士様に、彼の為に作った位を与えたのだ。
本来は宦官。つまりは後宮や陛下の身の回りのお世話をする、内方の役割だ。
とても、内側の――。
「……もしかして、どなたか高貴な方が、僕を傍にとお考えなのですか?」
僕が慌てて言うと、高力士様は
陛下ではないだろう。彼は充分に傍に宦官達がいるし、後宮には望めば侍らせられる女性達が三千人もいる。
そうなると、『男のまま』では仕えられない――なるほど。だから髭か!
宦官は完全に大人になってしまってからよりも、まだ幼いうちに陽物を取り払う方が良いと聞いた事がある。そちらの方が
幸か不幸か――いや、この場合は確実に不幸なことに、僕はまだ髭もなく、面差しも翠麗によく似た女顔だ。
つまり、高力士様は、僕を、僕を、僕を――。
「い、嫌です!」
「玉蘭?」
「お、お、叔父上様の事は大変尊敬しておりますし、
「ははははは!」
慌ててひれ伏して
「え?」
「何を言う。そなたを宦官になどするものか」
「あ……ほ、本当ですか?」
「勿論だ。その予定であれば、赤子のうちに
高力士様が言いながら笑いをかみ殺した。
宝抜き
「じゃ、じゃあ……いったい?」
「うむ……宦官になって貰う訳ではないが、高貴な方に仕えるというのは誤りではない」
そう言うと、高力士様は僕を手招いた。香の
高力士様は近寄った僕を更に手招きし、そして耳元でひっそり囁ささやいた。
『翠麗が後宮から姿を消した』
「え!? 翠……」
翠麗が? と大きく声を上げそうになって、けれどすぐに高力士様の険しい表情を見て、口を
翠麗は僕の腹違いの
『玉や真珠や月の影、この世で
が、僕にとって翠麗はやはり姐だ。僕の事を『小翠麗』と呼んで、可愛がってくれた人だ。そして今は皇帝の妃――しかも、後宮において三番目に高い地位を得ている。
幼い頃から大変優秀で、父や高力士様が、「翠麗が男であったなら、高家は安泰だったのになあ」と何度もボヤくのを聞いた。
けれども女性である彼女は家を継ぎ、父のような文官や宰相になることはできない。
その代わり、彼女は皇帝の妃として召されたのだ。
姐さんは大変美しく、賢く、なんでも巧みにこなす人だったが、本当は昔から随分とお転婆で、詩を読むより快活に歌い、品良く舞うより木登りが好きだった。
晴れ空より雷雨や嵐を好み、恋の話よりも歴史を好み、静かに微笑むより声を上げて笑い、おしゃべりな小鳥のように歌う可愛い人――そんな人が、本当に後宮でやっていけるのか? と、心配してはいたのだが……。
「だからってまさか……逃げ出すなんて、いくらなんでもそんな
「私もそう思いたいが、事実なのだ」
そう言って高力士様が胸から文を出した。
『危険はありません、どうか捜さないで。ごめんなさい、必ず戻ります』
そこにはよく見慣れた、翠麗の文字でそう
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