第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う①

   一


 げんそう皇帝の第十二皇子の下で今日の仕事を終え、大好きな熱々のお茶を一口すすろうとした時、同僚の仲満ちゆうまんが大慌てで部屋に飛び込んできた。

ぎよくらん!」

 こくの生まれでありながらこことうへ渡り、科挙を経て官職についたという、異色の経歴を持つこの同僚が、こんなにも慌てている所を見たのは初めてで、僕はうっかり茶碗を落としかけてしまった。

「どうしたんですか? 仲満」

「た、大変だ! 外にこうりき 様がいらっしゃっている! お前に会いに来たそうだ、今、門の所にいらっしゃる!!」

「ああ……」

「ああって、玉蘭、お前、高力士様だぞ!? 高力士様なんだぞ!?」

 彼が驚くのも無理はない。高力士様は皇帝の近侍の宦官かんがんなのだ。

 玄宗皇帝は、この唐を混乱に陥れた女禍・そくてん公から国を取り戻した英雄王。

 麻の如く乱れた国に平穏をもたらし、現在の大唐を作り上げられた方だ。

 そんな皇帝のお傍でこの国を支えた、もう一人の立役者ともいえるのが他でもない高力士様だ。

 元は女禍・武則天公に寵愛ちようあいされた宦官で、その後曲折きよくせつあって玄宗皇帝にお仕えし、皇帝が強国大唐を作り上げるその傍らで、皇帝の身の回りの世話だけでなく、直接政治に関わってきた。

 皇帝自身が『我が半身』と呼び、高力士様を通してからでなければ、何事も耳を傾けられないし、さいな事は全て高力士様が対処する。この大唐にあって、陛下の代わりに国をまつりごち、宰相達ですら機嫌を伺う宦官が、高力士様なのだ。

 そしてそのような人が、どうして僕を訪ねてきたかと言えば理由は簡単で、彼は僕の叔父なのであった。

 とはいえ実際に、血のつながりはない。

 武則天公の怒りを買い、一度後宮を追い出された彼を養子に迎え、新しい名でまた皇宮に戻した人物が、僕の祖父にあたる人物だというだけだ。

 とはいえ高力士様は祖父に、そして我が高一族に深い恩義を抱いてくださっているし、父と高力士様は、兄弟の杯を交わしている。

 僕も幼い頃から肉親同様に慕わせてらっているし、叔父上も僕を特別買ってくださっているのだ。

 宦官は子をせない。故に富める宦官は、養子を迎え入れるのが慣習になっている。

 科挙も受けていない僕が、こうして皇子にお仕えできるのは、周囲が僕を高力士様の養子候補だと考えているからだろう。

 もっとも、実際の所はわからない。

 何故なら僕は高家の庶子で、僕の上に嫡子の息子が二人いる――どちらも科挙に落ち、父のすねをかじり尽くすように、賭博とばくおぼれ、問題ばかり起こしているのだが。

 熱いお茶を仲満に譲って門に向かうと、馬車が待っていた。

 馬車の周りに従僕はなく、御者が一人。

 すぐに、それがどういうことなのか、僕は理解した。

「乗りなさい」

 馬車の扉をたたくと、叔父上の声がした。

 中をのぞくと、そこにいるのは彼だけだ。周囲を気にしながら乗り込むと、馬車は静かに走り出す。

「息災そうでなによりだ」

「それよりも……人払いとは何かあったのですか?」

 走り出して数分経っただろうか。やっと叔父上がそう言ったので、僕は少し身を乗り出し、声を潜めた。

 その問いに、彼は苦々しく息を吐いた。また二人の兄のどちらかが問題を起こしたか……もしくはその両方か――僕は高力士様の表情に、身体をこわばらせる。

「……玉蘭、お前は自分の出生をよく知っているね?」

「え? あ、はい……それは、叔父上――高力士様のお陰です」

「そうか?」

勿論ちろんです。日々感謝しております」

 僕はそう言ってこうべを垂れた。この言葉に噓はない。

「だが今聞きたいのは、そういう事ではないのだ。お前がどうやって生まれてきたか」

「それは……父上が心より愛した奥様が亡くなって、悲嘆に暮れているのを心配した高力士様が、せめてと奥様によく似た妓女ぎじよを、父上と引き合わせたから……ですか?」

 僕の父は、女性を何人も囲う事を好まない人で、唯一の妻であった女性を大変大事にしていた。

 けれど兄二人とあねすいれいの母であるその人は、翠麗が幼いうちに、流行はやり病であっけなくってしまったのだ。

 それからというもの父はすっかりふさぎ込んでしまって、その失意は床から起き上がれないほどだった。それを案じた高力士様が、せめて彼女によく似た女性を……と探してきたのが、彼女にうり二つの妓女で――つまりその人が、僕の母だ。

 そうして僕の母もまた、産後の肥立ちが悪く、僕が赤子のうちに逝き、以後、父は新しい女性を迎えずに、子供達に随分と甘い父親として生きている。

 そんな父に、いまだに甘えて脛をかじっているのは兄達で、二人とも何度問題を起こしたかわからない。

 その度に文官である父に恥をかかせ、高力士様の手を煩わせ、翠麗を心配させる兄には、僕もいつも神経をすり減らされているのだが……。

「…………」

「あの、それがどうかされましたか?」

 そっと頭を上げて高力士様を見たが、彼は僕の答えをあまり気に入っていなかったか――もしくは考え事をしているようだった。

「叔父上様?」

「ああ……すまない。もっとよく顔を見せてくれ、

 小翠麗――幼い頃の渾名あだなは、今の僕には少しこそばゆいが、僕は言われるまま高力士様をまっすぐに見た。

「幾つになった?」

「春で十六に」

「ふむ、ひげもまだか。声もまだ小鳥のように高いままだ」

「それは……まもなく、だと思いますが……でも背は伸びたんですよ。やっとねえさんに追いついたんです」

 声も高く、髭も揃わぬ子供だと言われているようで、僕は少し悄気しよげそうになった。こればかりは自分ではどうしようもないことだし。

「確かに背は伸びたな。翠麗と同じ五尺二寸――だが、お前の方が肩幅もあるし、手足も少し長いだろうか」

「そうですか?」

 まあ確かに、言われてみればそうかもしれないと、僕は自分の肩に触れた。

「ふむ」

 と、高力士様がまたうなった。

「……な、なんでしょうか」

 妙な空気だ。なんだか段々、嫌な予感がしてきた。

 今でこそ、陛下に親愛を込めて『将軍』と呼ばれているが、陛下は高力士様に、彼の為に作った位を与えたのだ。

 本来は宦官。つまりは後宮や陛下の身の回りのお世話をする、内方の役割だ。

 とても、内側の――。

「……もしかして、どなたか高貴な方が、僕を傍にとお考えなのですか?」

 僕が慌てて言うと、高力士様はためいきらした。

 陛下ではないだろう。彼は充分に傍に宦官達がいるし、後宮には望めば侍らせられる女性達が三千人もいる。

 そうなると、『男のまま』では仕えられない――なるほど。だから髭か!

 宦官は完全に大人になってしまってからよりも、まだ幼いうちに陽物を取り払う方が良いと聞いた事がある。そちらの方がやわじしになって良いのだと。

 幸か不幸か――いや、この場合は確実に不幸なことに、僕はまだ髭もなく、面差しも翠麗によく似た女顔だ。

 つまり、高力士様は、僕を、僕を、僕を――。

「い、嫌です!」

「玉蘭?」

「お、お、叔父上様の事は大変尊敬しておりますし、かんがん達の事を悪しく思っている訳ではけっしてありません! で、ですが嫌です! どうか何卒なにとぞ、宦官にだけは――」

「ははははは!」

 慌ててひれ伏してゆるしをう僕を見て、高力士様が笑った。

「え?」

「何を言う。そなたを宦官になどするものか」

「あ……ほ、本当ですか?」

「勿論だ。その予定であれば、赤子のうちに に託しただろう。それは私もそなたの父も望まなかった。そなたは男として、名を揚げさせたいと思っているよ」

 高力士様が言いながら笑いをかみ殺した。

 宝抜きばばとは、赤子のうちに子供を宦官にしてしまう処置をする乳母で、そうすると高力士様のように、陽物を切り落とさずに宦官になることが出来るのだ。

「じゃ、じゃあ……いったい?」

「うむ……宦官になって貰う訳ではないが、高貴な方に仕えるというのは誤りではない」

 そう言うと、高力士様は僕を手招いた。香のい香りがする。

 高力士様は近寄った僕を更に手招きし、そして耳元でひっそり囁ささやいた。


『翠麗が後宮から姿を消した』


「え!? 翠……」

 翠麗が? と大きく声を上げそうになって、けれどすぐに高力士様の険しい表情を見て、口をつぐむ。

 翠麗は僕の腹違いのあねだ。母親同士がよく似ているためか、僕と翠麗は昔からそっくりだと言われてきた。

『玉や真珠や月の影、この世でえと美しく輝くものを、すべて混ぜ合わせてこね上げたら、きっと華妃かひ様になるだろう』――と、詩人の気がある仲満がそんな風にたたえる人と似ているのは、くすぐったいような、誇らしいような気にもなる。

 が、僕にとって翠麗はやはり姐だ。僕の事を『小翠麗』と呼んで、可愛がってくれた人だ。そして今は皇帝の妃――しかも、後宮において三番目に高い地位を得ている。

 幼い頃から大変優秀で、父や高力士様が、「翠麗が男であったなら、高家は安泰だったのになあ」と何度もボヤくのを聞いた。

 けれども女性である彼女は家を継ぎ、父のような文官や宰相になることはできない。

 その代わり、彼女は皇帝の妃として召されたのだ。

 姐さんは大変美しく、賢く、なんでも巧みにこなす人だったが、本当は昔から随分とお転婆で、詩を読むより快活に歌い、品良く舞うより木登りが好きだった。

 晴れ空より雷雨や嵐を好み、恋の話よりも歴史を好み、静かに微笑むより声を上げて笑い、おしゃべりな小鳥のように歌う可愛い人――そんな人が、本当に後宮でやっていけるのか? と、心配してはいたのだが……。

「だからってまさか……逃げ出すなんて、いくらなんでもそんなはずありませんよ!」

「私もそう思いたいが、事実なのだ」

 そう言って高力士様が胸から文を出した。


『危険はありません、どうか捜さないで。ごめんなさい、必ず戻ります』


 そこにはよく見慣れた、翠麗の文字でそうつづられていた。

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