第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う㉒


 結局夕べは明け方まで話し込んでしまって、僕は翌日はまたとろとろと、ほとんど眠って過ごしてしまった。

 よほど眠かったせいか、朝方ぜつが足に薬を塗り直し、ついでに僕の額を心配そうに調べた後、しばらく冷たい布で冷やしてくれたのを、眠ったまま受け入れた。

 別に熱はないはずなので、病人の世話をしてくれているふりなのかと思ったけれど、後から気がついたそこには、青春痘にきびが出来ていた。

 もしかして、蜂に刺されたのでは? と勘違いされたのかもしれない。

 そんな事を思いながらまた眠りに落ち、誰かの気配にまた目が覚めて、「蜂じゃないわ」と寝ぼけ眼で答えると、軽やかな笑い声が返ってきた。

「あら! こう華妃様、夢を見ていらっしゃるんですね。うふふふ、お可愛らしい」

「ここに蜂は入ってこないから大丈夫ですよ。もし入って来ても、私達が全部追い出しますから、安心してお休みくださいまし」

 そう優しく言ってくれたのはあんあんしゆうめいで、僕は改めて、自分が──いやすいれいが、女官達に本当に大切にされているのだと思った。

 翠麗は誰からも愛される人だったし、僕も愛している。

 でもそれは、ねえさんが人を愛する人だからだと思う。彼女は女官達にだって、いつも優しくしていた。

 兄さん達だってそうだ。父上も、高りき様だって、みな翠麗のことを競うように可愛がっていた。

 そうせずにはいられないのが翠麗なのだ──ああ、姐さんに会いたい。

 まだ戻って来られないとしても、貴女あなたがそうしろというなら、僕はいくらでも貴女の身代わりになるだろう。

 無事であるならそれでいい。恨み言も言いたいけれど、でもそれ以上に、ただ愛する貴女の声が聞きたい。

 毎日いでいる月下美人香──姐さんの抜け殻の香りが寂しい。だのに、こんな時に限って、夢の中ですら会えないなんて。


「…………」

 気がつけば、眠りながら泣いていたみたいで、僕は目を覚まし、むくりと起き上がって、そしてベトベトにれた頰を手でいた。

「お目覚めですか?」

 優しく声を掛けてくれたのはおうせつだった。

「ごめんなさい、眠ってばっかりで……」

「大丈夫です。もう少しお休みになられますか?」

「いいえ、もう起きます。このままでは日が沈んでしまいそうです」

 大きく伸びをした後、手足や顔を洗ったり、支度を整える。手伝ってくれる絶牙が、僕のおでこを心配そうに指でかき分けた。

「……青春痘ですよ?」

「…………」

 険しい表情が返ってきた。

「青春痘ですよねぇ?」

 近くにいた桜雪にも聞いたが、彼女も「青春痘ですね」と言ったのに、彼はその後も納得しきれない様子で、化粧をするギリギリまで、僕のおでこを冷やしていた。

 今日もういは大事をとって休みなので、こうりん達が、僕をれいに飾ってくれる。

 額を染める額黄は、僕の額が心配でしょうがない絶牙によって、今日は塗らないことになってしまったが。

 沢山寝たせいか、色々な事があったせいか、今日はなんだか不思議な気分だ。僕は僕なのに、僕の中に翠麗を感じる気がする。今日はいつもより、女官達と話すのも苦じゃなかった。

 そんな風に遅い一日が始まり、けだるい時間が過ぎてゆく。

 夕方僕に最後のお茶をれに来た杏々と、少しだけおしゃべりを楽しんだ後、僕は杏々に、巧鈴を呼んでくれるように頼んだ。彼女はすぐに来てくれた。

「やはり茴香がいないと不便なの。貴女が迷惑でないのなら、今夜はもう少し遅くまで残ってもらえないかしら?」

 僕がそうお願いすると、彼女はむしろ喜ぶように頰を染め、「もちろんです!」と快諾してくれた。

「ありがとう。今日は一日気分が優れないから、夜も早く休みたいの。皆がいなくなって部屋が静かになったら、すぐに夜の支度をお願いするわ」

「わかりました、急いで準備をして参ります」

 本当に真面目な人だ。彼女はいそいそと僕の夜の準備をしに、部屋を出て行った。


 そうして、女官達が続々部屋から出て行って間もなく、余分な仕事にもかかわらず、巧鈴はうれしそうに僕の部屋に戻ってきた。

「お着替えの前に、先にお湯を使われますか?」

「そうね、でもまず、お茶を飲んでも良いかしら?」

「ええ、勿論ですとも」

 うなずいて巧鈴が「お淹れしましょうか?」と言ってくれたけれど、僕は首を横に振った。

「いいえ、大丈夫よ。絶牙に頼むから──ああ、絶牙、お茶を淹れてちようだい、そうね、お花のが良いわ、香りが良くて苦いお茶よ。あまり熱くなくしてね」

 すっかり夕陽が沈み、暗くなった部屋にあかりをともしていた絶牙は、静かに頷いてから、お茶の準備をしに部屋から消えた。部屋には僕と、巧鈴の二人きりになった。

「華妃様。昨日の文も、無事長安まで届けてございます」

「本当に? ありがとう……貴女には、何かお礼をしなくちゃ」

 僕が申し訳なさそうに言うと、彼女は「いいえ!」と笑った。

「こうやって、華妃様のお傍でお仕えさせて頂けることが、私にとって何よりの褒美にございます」

「まあ! なんて嬉しい事を言ってくれるのかしら……わたくし、貴女のような女官をもって幸せだわ──そうよね? 毒妃」

「……え?」

 僕が扉に向かってそう言うと、やがてお茶の用意をした絶牙と、ドゥドゥさんが部屋に入ってきた。

「左様にございますな」

 そう言って、ドゥドゥさんが円卓の前の椅子に腰を下ろした。

「貴女もお座りなさい、巧鈴。一緒にお茶にしましょう?」

 そう言って僕も席を一つ空けて腰を下ろす。

 巧鈴はこわばった表情で、僕とドゥドゥさんの間の椅子を、じっと眺めていた。

「そ、そんな……私などが、恐れ多い……」

「ほう? われならば華妃様直々の誘いを断るような事はせぬが、そなたは勇気があるな、巧鈴」

 ドゥドゥさんが冷ややかに言った。

「あら、まさか……貴女まで、毒妃の噂を信じているの? まあいやだわ……彼女が触れた物が毒になったりするわけないでしょう?」

 僕が声を上げて笑うと、巧鈴は渋々といった調子で椅子に腰を下ろした。

 その顔は強ばったままだ。

 そうして絶牙が三人分のお茶を用意した。ふくいくたる花の香りを嗅いで、ドゥドゥさんが目を細める。

「良い香りの茶じゃが──少し苦いのう」

 こくんと一口飲んで、彼女は言った。

「……だが、今日は丁度良いものを持って来た。はちみつじゃ。まだ若いが、花の香りが快いゆえ、華妃様が喜ばれるに違いないと思うての」

 そう言って、ドゥドゥさんが、小さなつぼを卓の上に置き、ふたを外した。

 中には金色の液体が満たされている。巧鈴の顔が見る見る青くなった。

「し、失礼ながら毒妃様、こちらはなんでしょうか?」

「蜂蜜じゃよ。北門の辺りで、誰ぞ蜂を育てているらしい。そこの蜜を昨日採ってこさせたのじゃ」

「き……北門の近くの!?」

 巧鈴の額に、脂汗がぶつぶつと浮かびはじめた。

「とても良いかおりですこと。嬉しいわ、さっそく頂きましょう」

 僕は蜜をたっぷりさじすくい上げ、とろとろとお茶に垂らした。湯気を楽しんでから、ちやわんにそっと唇を寄せようとする。

「だ、駄目です!!」

 巧鈴が悲鳴のような声を上げる。

「どうして?」

「どうしてって……そ、そうですわ、何かを口にされるときは、まず必ず毒見役をお使いくださいませ」

「それもそうね……じゃあ、試しにお前が飲んで頂戴な、巧鈴」

「え……?」

「でも心配しないでも良いわ。だってただの蜂蜜よ。怖がるような物ではないでしょうに」

 僕はにこにこと微笑んで、巧鈴の顔の前にお茶を差し出した。

「華妃様……」

 巧鈴はおびえを隠さず、子リスのように震え、茶碗を手に取らない。

「巧鈴? さあほら……大丈夫、わ? そうでしょう?」

 僕は意地悪く、更に茶碗に蜂蜜をとろとろと足す。

「さあ、飲んで──飲みなさい巧鈴」

 とうとう巧鈴は、差し出された湯飲みを震える手でとった──けれど結局彼女はそれを飲む事が出来ずに、逃げるように立ち上がって、そのままへなへなと床にひざを突いた。

「ど……どうして……?」

 巧鈴の両目から。涙があふれはじめた。


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