2.誘惑
2-1
あの告白の直後、展望室に
だから俺も、どうにか普段どおりの対応ができたと思う。その後は普通に優羽陽や祈月と少し話し、共に対魔局本部を後にして、いつものように別れた。
寮の自室に着いてから、若槻夏季と江口舞乃の関連情報をまとめて、祈月に送付することもできた。
だが、それに対する丁寧な感謝の返信を見た時、いつものような胸の高鳴りはなかった。
全身が震えるような寒気と、虚脱感があった。俺は事務的に……いつも通りの返事をどうにか返すと、その他あらゆることを放り出し、ベッドに沈み込んだ。
失恋。
そう呼ばれる事態に直面したと、脳の冷めた部分では理解していた。
だが、その先は分からなかった。恋をしたのも初めてなら、それが破れたのも初めてだ。
普通の青少年であれば、恐らく同年代の相手にモデルケースがあるのだろう。だがあいにく、俺にはそれもなかった。
優羽陽と祈月、そして
(
そう結論付ける所まではできたものの、 動く気にはなれなかった。逆に、俺は普段どうやってこの重い手足を動かしていたんだろうか?
別に、祈月のことを好きに思う気持ちが俺の全てではない。対魔局戦闘職員としての義務感も矜持もある。失恋でそれらまでが失われる訳ではないはずだ。
だというのに、到底動く気にはなれない。俺がこうして腐っているうちに、時計の針が無限に進み、何もかも滅んでしまえば良いとすら思っていた。
それでも朝は、容赦なく来る。
身体は無慈悲にいつも通りの起床時刻に目覚めた。起きてしまったのでしかたなくいつも通りのマシンランニングをする。
少し長くなった入浴から上がれば、珍しく花織子さんは不在で、ラップの引かれた昨日の夕食と朝食がテーブルに並んでいた。
『おはよう!!!!!!!!』
食事中に通知が来たので見てみれば、優羽陽からのスマホチャットだ。
『おはようございます』
遅れて祈月も。
好きな相手と、その相手が好きな相手。
そんな二人の名前とアイコンが並んでいるのを見るだけで、胸の焼けるような苦しみがあった。だが、かといってここで返事をしなければ不審に思われるだろう。
(それでもいいか……?)
そんな気持ちも一瞬よぎったが、大事な話を聞いた直後にあからさまに態度を変えては、せっかく俺を信頼してくれた祈月を不安にさせるだけだ。
別にそれでいいじゃないか、と囁きかけてくる自らの自棄と押し合いながら、以前のやり取りから使えそうなメッセージを選び、コピーして返信した。
食事は、結局残した。
身だしなみを整え、対魔局へ。
「うーわ。
装備のチェックを終え、基礎鍛錬のためのジムに向かう途中、その人と鉢合わせた。
幼い声。
声の主は実際、幼い童女のようだった。背丈は俺の胸にも届かず、白くふっくらとした肌の上の大きな青い瞳と、長く波打つ
そして身につけているのは、幼い風貌に似つかわしくない、黒いパンプスとストッキング、オーダーメイドのフォーマルスーツ。
「ひんどい顔やねぇ。どしたん? ぽんぽん痛いんか?」
そんな外見から出てくる声は、どこか間延びした関西風の訛り言葉。
「……局長」
全ての構成要素がちぐはぐなこの人、
彼女がいかなる存在なのか、俺は知らない。確かなのは、多岐にわたるコネと強力な情報収集能力、そして揺るぎない良識を兼ね備えていることくらいだ。
「ほら、声もひどいってー。自覚あるでしょ? 自分、調子悪いなら休まなきゃあかんよ」
「いえ……そういうわけには」
「今はもー、到理くん社員なんだから。有給だってあるし、
ずい、と身を近付け、俯いていた俺の顔を下から覗き込んでくる。
「しかし……」
「他の局員とか、魔法少女の二人には適当な理由で話してもええんよ?」
「嘘を伝えるってことですか」
「正しい対応をするってこと」
それは的確な誘惑だった。そして、その提案を前に俺が揺らいでいる時点で、局長の判断は決まったようだった。両手を腰にあて、ふんすと胸を張る。
「はーい。それでは局長権限で、到理くんには情報関連任務6号にあたってもらいます!」
情報関連任務6号。
魔法少女たちの正体は対魔局局員の一人、ダダさんの用いる妖術により隠蔽されている。この術が正しく機能しているかを、人間の目で調査するというのが、任務の内容だった。
ゆったりしたリクライニングチェアに腰掛け、コーヒーを飲みながら、俺はカチカチとインターネットを見て回っていた。
局長から正式にメールで送付された命令書には、期限や成果報告の指定は特になく、いつでも通常任務に戻って良いということが事務的な文体で書いてあった。
つまるところ、命令によって休息を取らせるための方便である。
(局長の考えそうなことだ)
そして、事実としてありがたかった。いま祈月と対面したら、きっと俺は一目惚れした当時以上の醜態を晒してしまうことだろう。
それが避けられ、なおかつ祈月にも不審がられずに済んだだろうことは、局長に感謝するしかない。
(……だが、この先どうするんだ?)
魔法少女の情報をまとめたブロクを順々に開いていく。魔法少女の姿、力、活躍、近くでその活躍を見た人の証言などが並んでいる。目撃者の撮影した高精細の画像も添えられて。
そのどこにも『変身前』について言及するものはない。情報隠蔽の術が良く機能している証拠である。
俺はぼんやりと、魔法少女の画像をまとめたサイトを見ていく。
流星の魔法少女の凛々しい表情。その力強さは、きっともう戻るまい。
青月の魔法少女の可憐な横顔。控えめながらも、譲らぬ意志を感じさせる眼差し。頬のやわからな曲線。きゅっと結ばれた薄い唇。
「……可愛過ぎる……」
訓練室の中でいつも漏らすのと同じ言葉なのに、その意味合いは耐え難く変わってしまっていた。
単純な感嘆から、もう手の届かぬものへの羨望へ。
思い返せば、俺は無根拠に思い込んでいた。いつか何らかの形で気持ちが届いて、祈月と特別な関係になれるだろうと。
妄想、夢想と言うべき思い込みだ。祈月に懸想しながら、その祈月の気持ちがどこを向いているか、少しも考えていなかった浅はかさ。
(俺が
青月の魔法少女の画像を見ながら、頭の中でグズグズと後ろ向きな感情が煮詰まっていく。
(俺がもっと……何か違うことができる人間であれば……)
ページをスクロールする指先が止まった。
青月の魔法少女の画像を取り扱うコーナーは止まり、画面に表示されているのは太陽の魔法少女である。
(……優羽陽)
その笑顔の明るさ。戦いの中であろうと感情を抑えることのない、溌剌とした姿。
いつだってポジティブで、前向きで、場を明るくする力を持つ彼女。
太陽の魔法少女、なんて名乗るまでもなく……太陽そのもののような少女。
(
祈月の想い人。
(――お前のことが、羨ましくて、憎い)
◆ ◆ ◆
寮に帰ってきた俺は、訓練室の中をそっと覗き込んだ。
無数の写真がある。祈月。俺の前ではそうしない表情を浮かべた彼女の写真が、いくつも、いくつも、いくつも。
(……きっとこれも、俺の前ではしない表情、ではなく)
写真の表情の先には、優羽陽がいたのだろう。
この部屋を埋め尽くす祈月の可愛さ、可憐さ、そういったものは全て、優羽陽に向けられるもので、俺はそれを横から掠め取る、卑しい盗人に過ぎなかったのだ。
しかも、昨日までその卑しさの自覚すらなかった――
バタン。
勢いよく扉を閉めると、想像以上に大きな音が出た。
だが、どうでも良い。耐えられなかった。
祈月の姿も、優羽陽の在り方も、何一つ変わっちゃいない。
だというのに俺がこんなにも苦しみを感じているのは、俺があまりに愚かで、視野狭窄で、浅薄で、夢想家だったせいだ。
その上にあろうことか、何一つ落ち度のない優羽陽に向けて、憎しみのような感情すら向けている。
(やはり、このままでは駄目だ……)
きっと一般には理性と呼ばれる、頭の中の冷めた部分は、どうするべきかよく分かっていた。
祈月への身勝手な好意、あるいはその結実の夢みたいな可能性なんてものはとっとと捨て去り、いつも通りの俺、天道到理に戻るべきである。
恋愛感情と、魔物との戦い。
どちらを優先するべきかなんて、火を見るより明らかだ。
「分かって……」
分かっている。
「分かっているんだよ……!」
頭を掻きむしり、堅い扉に擦り付ける。
感情が、頭の中のままならない大部分が、理性の言うことを聞かない。
初めてのことだった。
幼い頃から今まで、俺は自分の感情を制御できてきたし、だからこそ今この対魔局で、霊能戦闘職員という意義ある役職を得られたと思っている。
その事実に間違いはないはずだ。ただ今は、それ以上に……祈月への片思いが、優羽陽への嫉妬が、俺の思考をぐちゃぐちゃにする。
「どうすればいいんだ、どうすれば……」
「……到理くん?」
名を呼ばれ、がばりと顔を上げた。
「なんかすごい、賑やかなのが聞こえたんだけど……」
「……花織子さん」
買い物袋を腕にかけた花織子さん、俺の唯一の相談相手が、微笑を浮かべて俺を見ていた。
◆ ◆ ◆
「そうだったの……」
俺から事のあらましを聞き出した花織子さんは、ゆっくりと頷いた。
「大変だったね、到理くん」
「大変なんてものじゃない……」
うめきを漏らしながら頭を押さえる。まだ頭の中がぐちゃぐちゃとして整理がつかなかった。
「確認したいんだが、俺にネスが憑いたりはしていないよな?」
花織子さんは魔法少女ではないが、眼前の相手がネス憑きであるかどうかをギリギリ判断できる程度の感知能力を持っていた。
「ん……いいえ。到理くんにネスは憑いてません」
「そうか」
今の俺の感情が、
(……考えてみれば、そんな発想そのものが浅ましいな)
自嘲に唇が歪む。
「分かってるんだ。俺のこの気持ちに正当性なんてなくて……できることは、祈月への気持ちを切り捨てることだけ。だが……」
「駄目元で告白とかは?」
「祈月が好きなのは優羽陽なんだ。困らせて、今後の活動に支障を来たすだけだろ」
「今でも十分支障が出てるでしょ。……それって、何だか不公平よね?」
「不公平……?」
顔を上げると、花織子さんは頬杖をついていた。
その表情は、全くもって真面目だった。醒めたような顔、と言い換えても良かったかもしれない。
「祈月さんが優羽陽さんを好きな気持ちも、到理くんが祈月さんを好きな気持ちも、どちらも同じ『好き』でしかないのに、先に明かした祈月さんは気持ちが楽になって、到理くんはそんなに苦しんでるんだもの」
「……そんなの、巡り合せだろう」
「だとしても不公平。……本当に憎らしいのは、祈月さんじゃないの?」
「やめてくれ」
自然、俺の語気は熱くなった。
「祈月は悪くないだろ」
「そうなの?」
「そうだ。祈月は……俺を信用してくれて、誰にも言えないような秘密を打ち明けてくれて……それが、たまたま俺にとって都合が悪かっただけで」
話しながら、これは花織子さんにだって話すべきではなかったんじゃないか、と思う。
信頼できる人だ。口だって固い。そうでなければ俺だって、祈月の写真収集をこの人に任せたりはしない。
だとしても、俺の秘密を託すことと、祈月の秘密を共有することは、同じ水準で判断するべきではなかったのではないか……
「ごめん、花織子さん」
俺は椅子を立ち上がる。
一旦それに気付くと、この場で話したこと、何もかもが間違いだったように思えてきた。
「全部忘れてほしい。これは俺が解決するべき問題なんだ。俺が一人で……」
「到理くん」
花織子さんが、俺の名前を呼ぶ。
その声音は、いつも以上に柔らかい。
「私、分かるよ。どうすればいいか」
この時の俺には、なかった。
その言葉を振り切れるほどの強さも。
花織子さんの笑みに滲む薄暗さを感じ取るほどの、余裕も。
『到理くんにネスは憑いてません』
――先ほど、花織子さんの口から発せられた嘘に気付くことすら。
「祈月さんに手を出せないなら、答えは一つ」
テーブルを迂回し、花織子さんが俺の肩に手を置く。
「優羽陽さんよ」
「……優羽陽を?」
「ちょっと分からせてあげるの。太陽みたいに明るいあの子に……少しばかり傷をつける。彼女を屈服させる」
「そんなこと」
「そうすれば」
俺の反論を、花織子さんの確信めいた口調がねじ伏せる。
「祈月さんから優羽陽さんを遠ざけることだってできるでしょうし……到理くんが入る隙も出るかも」
「……馬鹿な……」
「でも、到理くんなら、
静まり返った食堂に、時計の針の音が響く。
俺の肩を掴む優しい手を、振り払うことができない。
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