3-2
自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、出かける用事があるという祈月と並んで歩く。
俺たち以外ほとんど誰もいない対魔局沿いの歩道には、午後の日差しが降り注いでいた。
「ごめんなさい、さっきは驚いてしまって」
「いや……驚きもするだろう」
祈月の動揺はごくわずかで、今はすっかり落ち着いていた。
「俺だって、何もなければ気付けなかったと思う」
「私も、偶然だったんですよ」
真っ黒なコーヒーの缶に、祈月が少しだけ口をつける。ブラックコーヒーはあまり祈月らしくないと思ったが、彼女は自分でそれを選んだ。
「本当に偶然……うちの近くに、犬を飼ってる家があって」
「犬?」
「すごく吠える、番犬なんです。それに優羽陽が、すごくびっくりして。おかしいんですよ、前から知ってて、犬を吠えさせないように扉から遠く離れて歩いてたのに、いつも」
「……優羽陽はその犬に、恐怖しか感じていなかったから」
「はい。恐怖にまつわる記憶がなくなったから……吠えられてびっくりしても、怖がることはなかったですし」
まだ優羽陽の秘密を共有することに慣れておらず、会話は慎重なすり合わせのようだった。俺は思わず苦笑してしまい、祈月がちらりと見上げてくる。
「いや、何だかお互いに慎重になっている、と思ってな」
「……そうですね。私も、優羽陽の秘密について話すのは初めてで……すみません」
「謝ることじゃない」
「いえ。どんな理由があっても、大事なことなのに天道さんへ隠していたのは事実ですから……」
「誰にだって秘密がある。秘密にしていたいことが」
それに、こういった方向で掘り下げられると、秘密はきっと俺の方が多い。居心地が悪くなり、矛先を変える。
「しかし、意外だな。優羽陽が犬を苦手だなんて」
「そうですか? そう……かもしれませんね」
「一緒に走り回ってそうだ」
「それって犬そのものじゃないですか」
くすくす笑う祈月。その声も笑みも、以前と変わらず楚々として可愛らしい。
「子どもの頃に、何かあったみたいです。大きな犬に追い回されたとかで……」
「なるほど。……いつ頃だ? その言い方だと、祈月は直接は知らないんだよな」
「はい。小学校入る前とかじゃないかな……わたしたちが知り合ったのは、三年生の頃で。犬に吠えられたのもその頃だったから。その時はわたしが守ってあげたんですよ」
「祈月が、優羽陽を」
今からはあまり想像のつく絵ではなかった。祈月もその自覚はあるようで、どこかおかしそうにしていた。
「優羽陽、子どもっぽいでしょ? 昔からそうだし、あ、あと食べ物の好みとかも……」
缶の中の黒い闇を祈月は見下ろす。
「優羽陽、苦手なものとかなさそうに思われてますけど、結構好き嫌いあるんですよ。このコーヒーなんかも多分飲めないでしょうし……」
「コーヒーは無料なのに、大体ジュース買ってるしな」
「たまに試すんですけどね。ミルクと砂糖いっぱい入れて」
「ああ。時々ものすごくストックが減っててエリさんが驚いてる」
互いに笑いながら、穏やかに話をする俺たち。
もちろん、俺だってそれで心底楽しいと思えているわけではない。祈月が本当の話題を切り出すタイミングを見計らっているのだということは、いかな俺でも想像できた。
「……優羽陽がコーヒーを飲めるようになってもいい」
結局、祈月はここで切り出した。
「でも、それは魔法による効果じゃなくて、味覚が受け入れるようになったからであってほしい」
「……そうか」
「理屈じゃなくて……気持ちの問題なので、恥ずかしいんですが。わたしは、たとえ優羽陽が自分の脳をどうこうできて、どんな問題も解決できたとして、できればそういうことはしないでほしい……と思っています」
言い切り、祈月は正面を向いて押し黙る。俺の番ということだろう。
優羽陽が自分の能力で、自分自身を改造してしまうことについて、どう思うのか。
「以前、ラジュンさんと一緒にある案を検討したことがある」
実のところ、これに関する俺の見解は定まっていた。
「暗示戦闘だ」
「暗示、戦闘……?」
「優羽陽の
「優羽陽に、そういう暗示をかけようとした、ってことですか」
警戒するように、祈月の声が低くなる。俺は慌てない。
「可能性として検討されただけで、結局実現はしなかった。俺もラジュンさんも道義的な問題には気付いていたし、局長はそういうのを絶対に嫌うからな」
「……そうなんですね」
「ただし、まったく禁止もされなかった。他に手がなくなった時の最後の手段として、検討はされたんだ。結局、その専門で信用のおける技術者の目途が立たないから廃案になったんだが……」
別の自販機のごみ箱に、コーヒーを飲み切った缶を捨てた。祈月もそれに続く。
「意識を弄ることについて、前例が少ないから正しいとか誤ってるとかの判断を下すことはできない。判断できないということは、誤っている可能性もあるということだ。一方で、対魔局は負けてはならない。追い詰められた時、積極的に使うべきではないものの、道義的に悪でない『最後の手段』があるのは大きい」
この辺りは、暗示戦闘について話し合った時の結論をそのまま繰り返す形になった。
「優羽陽のその力も、そういう風に扱われるべきだと俺は思う」
「最後の手段……か」
それきり、祈月はしばらく沈黙していた。俺の意見について考える必要があったんだろうし、人通りの多い場所に出たのもあった。
(この道は……)
肩を並べて歩きながら、俺は祈月の用事が何なのか、なんとなく察していた。
(星良の家の方角か)
◆ ◆ ◆
「『穏やかな日々が続きますように』」
ピンリボンを横髪へ結びつけながら願いの言葉を口にすると、祈月の姿が淡い光と共に変転する。白を基調に薄青の差した、可憐で華やかな衣装へ。
青月の魔法少女。変身のキーである祈月の願いを、俺は久しぶりに聞いた。
祈月はたおやかな動作で両腕を開く。
「
その魔法を使った所で、辺りの風景が変わる訳ではない……何せここは屋内。よくある一軒家の二階の、しかも廊下だ。
だが、祈月は少しも意に介さず、その扉の前に座り込んだ。ふわりと黒髪が、白い衣装がひらめく。
「来たよ、星良」
流星の魔法少女、幸坂星良。
『恐怖王』に直接接触された彼女は、流し込まれた機序なき恐怖に心を壊され、日常生活すら送れずにいた。既知の症状で言えばPTSDが近いだろう。
祈月はそんな星良を、しばしば訪ねていたのだ。星良の両親も勝手知ったる様子で祈月を迎え入れ、俺の来訪も拒絶しなかった。
「……祈月」
扉の向こうから、星良の声が辛うじて届く。俺の知っている彼女の声より、ずいぶん低くかすれていた。
祈月は穏やかな声で問う。
「調子はどう?」
「…………」
「ご飯は食べてる?」
「……食べた」
「そっか」
星良の両親は、昨日から何も食べていないと言っていた。そしてそれが、日常のことであるとも。
だが、祈月はそれを指摘せず、優しげに頷く。当然、俺も指摘しない……というより、俺は一切発言せず、音も立てないよう言い含められていた。彼女はいま、両親と祈月以外の存在に対応できない状態だという。
「外、見える?」
「…………」
「暑くなってきたよね、最近」
「…………」
「でも暑いと、風が気持ち良いんだ」
「…………」
「外、出た?」
「無理」
しばらくぶりの返答は、絞りだすかのようだった。祈月は静かに返す。
「家の外は、大変だよね」
「…………」
「じゃあ、部屋の外は?」
「……出た」
「出たんだ」
祈月の唇が、嬉しそうに綻ぶ。
「すごいね」
「タオル……取りに行っただけ」
「でもすごい」
「…………っ、うっ、うぅ……」
扉の向こうから、すすり泣くような声が漏れてくる。
「大丈夫」
祈月は目を閉じて、そっと声をかける。
「大丈夫だよ」
すすり泣きはしばし続いて、それからいくつかの短い言葉を交わし、祈月と星良の扉越しの面会は終わった。
「週に二度か三度、来るようにしているんです」
また、二人で道を歩く。日は暮れかけて、祈月の白い頬に夕焼けの赤色が差していた。
「最初は全然返事もしてくれなかったけど、満月の守護の光の下だと、少し話してくれやすくて」
「安心するんだろうな」
「優羽陽と、局長。あとはエリさんとかマエさんもこのことは知ってて……結構褒められたりして」
祈月は微笑を浮かべ、小走りに数歩進む。
その笑みは、どこか寂しげだった。
「でも、天道さんはそうは思わないですよね」
「…………」
想像していない言葉だった。祈月は、当然俺ならば分かるだろうという調子で続ける。
「分かりますよね。私の気持ちを知っていれば、これにどんな意味があるのかは」
「祈月、それは……」
どういう意味か、と問いかけた所で、スマートフォンに着信が入った。
「……天道さんも?」
祈月も同時に着信が入ったらしい。画面を見ると、それは優羽陽からのチャットだった。
『局長じきじきのミッション!!!!!!!』
『たいま局の寮を徹底調査せよ!!!!!!!!!!!!!』
『だって!!!!! 寮っていたりさんが住んでるところだよね』
『二人、今どこ? 寮来て! 先に入って始めてるよ~~~~~~~~』
「寮の、調査……?」
祈月が不思議そうな声を漏らす。俺の方は、なんとなく事情を察していた。花織子さんの足取りの調査の一環だろう。優羽陽も局長からそう説明を受けているはずだ。
だが、それどころではない。
俺の目はメッセージの一点に釘付けにされる。
『先に入って始めてる』
それは、つまり……あの訓練室を。
祈月の写真で埋め尽くされたあの部屋を、見られかねないという危機的状況を意味している。
俺は素早くスマートフォンを操作した。
「祈月」
「はい?」
「タクシーを呼んだ。すぐに来るはずだ」
「えっ!?」
祈月は動揺の声を上げる。
「な、なんで……? そんなに急ぐことなんですか?」
「緊急事態だ」
「そんなに……」
「もしタクシーより速い移動手段があったら教えてくれ」
「そんなに……!?」
ほどなく来たタクシーに、俺はいそいそと乗り込む。祈月も事態が分からないなりにきびきびと動いてくれて助かった。
(間に合ってくれ……どうか……!)
祈る俺を、夕空の中で白く醒めた月が、ものも言わず眺めていた。
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