4-4(1)

 瞬く軌跡スターリング・フレアの直線高速弾と、拳銃の弾であれば、速いのは拳銃の方だ。

 俺の放った一発の退魔弾は確かに星良を捉えた。そのバリアを、きっと爪先ほど削ってくれただろうと、塀の影に転がり込みながら思う。

 そして直前までいた地点に、屋根の上の星良が放った魔力の弾丸が降り注ぎ、アスファルトを打ち砕いた。


 高速の魔力弾の雨を、塀の影を駆け抜けて凌ぐ。

 魔力の弾丸も、射程の限り全てを破壊するわけではない。一般家屋の石積みの塀であれば、一枚でだいぶ勢いが落ちる。

 だから屋根の上の星良に敢えて姿を見せつつ、直線弾を誘い、塀を使って勢いを殺して直撃を受けないように立ち回る。するとどうなるか。


(……発射音が変わった。やはり焦れて追尾弾に切り替えてきたな)

 何もしなければ、それはきっと緩やかな曲線の残光を描いて、遮蔽の裏の俺を撃ち抜くだろう。だがそれこそが、俺の待っていたチャンスだった。

 懐で発煙筒を作動させる。熱を発しながら、霊木の煙が溢れ出す。

(『追尾』の基準は魔力だ。魔力を帯びた煙は撹乱に使える)


 曲がり角で発煙筒そのものを、進行方向の逆へ遠投する。ある程度俺を追尾していた魔力弾は軌道をばらけさせ、ぶつかり合い、その多くが俺の後ろから消えた。

 さらに曲がった勢いのまま方向を転換し、塀に手をかけ上へ登る。


 塀を踏み切り、車庫の屋根の上へ。

 背後には多少の追尾弾。前方には星良。手元にいくつかの魔力の光。

(直線弾だろ!)

 推測七割、願望三割。星良へ一気に距離を詰める、と見せかけて、横に転がる。直線弾は俺がいた所目掛けて撃たれ、それは俺を追いすがっていた追尾弾と衝突し、多くを消滅させた。


(次射までの所要時間は二秒!)

 車庫の屋根から雨樋を掴んで身体を投げ上げ、星良の立っている屋根の上へ。その手元にやはり魔力の光。直線弾か、追尾弾か。関係ない。そのまま距離を詰める。

「……!」

 星良が後方へ跳ぼうとしたが、ぎりぎりで俺の伸ばした指が、彼女の衣服に届いた。そうなれば逃がさない。俺が衣服を掴んだせいで、星良の回避軌道がずれた。そこへ俺は更に踏み込み、力を込めて彼女を屋根へ引き落とす。

 手元の魔力の光が煌めいた。発射の前動作。この至近距離で、余裕のある軌道を描く追尾弾は撃つという選択肢はない――誤射するからだ。ならば、

(直線弾!)

 至近からのそれを回避するのは、わかっていれば難しくない。星良の手元を中心に円軌道を描くよう動き、彼女自身を盾とすればいい。自分に向けて直線弾を撃つようなことはせず、よって命中することはない。


 こうして、攻撃を終えた星良を屋根へ引き落とした俺という構図ができた。

 ようやく攻撃を加えられる。この距離ならばナイフだ。

 ナイフそのものは品質の良い量産品だが、これを俺が持てば、それは霊力を伴った武器と化し、魔法少女に対しては至近から退魔弾をぶっ放したような威力を発揮するようになる。それこそが俺の霊能戦闘職員たる所以ゆえんだ――これを精確に、彼女の首元へ振り下ろす。

「ッッ……!!」

 喉の奥から、星良が痛ましげな声を漏らした。バリアが削れていく……が、このまま突き通せる訳では無い。前提として、魔法少女と俺であれば、魔法少女の方が力が強いのだ。


「ァアッ!」

 濁った叫びを上げ、押さえ込んでいた俺を突き飛ばす星良。俺はそれを素直に受け、屋根のぎりぎりまで後退する。星良は改めて後方へ跳躍しながら、俺に直線弾を撃ってきた。先ほど上ってきた車庫の屋根上へ退避し、これをかわす。



 ここまで。

 ここまでの手間をかけて、俺はようやく星良にダメージを与えることができる。

「……やっていられないな」

 口角が苦笑に歪んでいた。



 星良への基本戦術はシンプルだ。距離を詰めて攻撃すれば良い。

 肉薄距離でも精確きわまる戦いができる優羽陽の方が例外で、魔法少女は基本的に、技巧をこらした戦いをすることはない。強化された運動能力に思考速度が追いつかず、また単純に格闘戦の技術を持たないからである。

 あとはいかに距離を詰めるか。それを、星良の魔法性能と使用癖、周辺地形、自身の運動能力に基づいて割り出し、その通りのルートを辿り、追い詰める。

 星良の魔法性能と使用癖に関しては俺が知っているものとほとんど変わらず、周辺地形データはここに来るまでに頭に叩き込んだ。俺自身の運動能力については言うまでもなく把握しているので、星良を追い詰める条件は十二分に整っている。


 それで、これである。

 そう多くない発煙筒を使い、ぎりぎりの回避を何度も成功し、ようやく一撃を決めてもすぐさま距離を取られる。そして……



『北北西地上!』

 イヤホンから花織子さんの声。

「視認!」

 応じながら屋根から飛び降り、地面を転げる。直後、俺の立っていた屋根を、澱んだ紫に光る大径レーザーが薙ぎ払っていった。

『また同じ地点!』

「くそっ!」

 駆け出す俺に、再び魔力の激流が浴びせられる。


 この『星良が俺の位置を認識しており、なおかつ距離が遠く離れている』状態が一番まずい。

 彼女の轟く軌跡スターリング・カノンは、多少の溜めが必要で細かな調整も効かない代わり、遮蔽なんてものともしない威力を誇る。こうなるとひたすら移動する必要があり、しかもさっきまで俺を守ってくれた遮蔽は障害物に早変わりだ。


(しかも被害額がヤバい……!)

 優羽陽が時間を稼いでいる間に避難こそ完了させられたものの、間違いなく誰かの資産である家を、なんとも気軽にぶち壊しまくってくれるものである。

 この辺りのことは後でどうにでもできると局長は言ってくれたので、それを信じるしかない。


「花織子さん!」

『左に走って、十字路を右。次の分岐路はまっすぐ。その次を右。……来るよ!』

「焼け野原にでもする気なのか!?」

 花織子さんの誘導に従い、背後に澱んだ魔力の砲撃を感じながら、俺は走る。



 花織子さんに現地ナビゲーションを頼むのは、マエさんの提案だった。

『一応、現地の情報はウチのクダを通じて取れるんですが、魔力反応を拾うのは厳しいんですよね』

『……確かに可能ですけど』

 直前まで嫡主の協力をしていた、ということを差し引いても、花織子さんは自分にそんな役目が回ってくるとは思っていなかったようだ。

『対魔局の探査システムで十分じゃないですか? 私の能力は同程度で……』

『その「同程度」の水準は普段の精度でのことでしょ?』

 エリさんが起動し直した端末で探査システムの画面を開く。

『うちの探査システムは通信基地局と携帯電話で成立してる。だから問題なの』

『…………あ、住民が避難すると……!』

『現地から携帯電話がなくなって、精度が落ちる。日常業務ならともかく、戦おうって時にその低下は無視できない』

 今どき、避難の際になにか一つ持っていくとすれば、それは間違いなく携帯電話になるだろう。たとえ他に何を忘れても、それだけは持ち歩くのが現代人だ。


『それに、もしそうじゃなくてもですよ』

 マエさんは穏やかに補足する。

『画面に表示されたものを見て、理解して、伝えるのと、花織子さんが認識したものをそのまま伝えるのなら、花織子さんの方が速くて正確だと思います』

『ええ。どんなに機械が正確でも、運用する人間は間違えるリスクがあるからね』

 エリさんらしい物言いに、マエさんはくすりと笑った。

『あと、何より大事なのですが……花織子さんは、到理さんの面倒を見てたでしょ』

『……はい』

『なら、到理さんとも息を合わせやすいと思います。私たちの誰よりも』


『人間に機械と同じことはできない』

 何やら操作をする音と混ざった、エリさんの声。

『それと同じく、機械に人間と同じことはできない。……この場においては、あなたが動くのが適切よ』

『はい。花織子さんだけの能力と思慮で、到理さんを助けてください』



『対象移動してる。指示通り動いて』

「ああ」

 事実、俺とほぼ同時に現地へ到着した花織子さんのナビゲーションは、正確かつ端的で非常に頼れるものだった。

 ほんのいくつか打ち合わせをしただけで、俺が知りたい情報を最短的確に提供してくれる。それが優羽陽や祈月にも過不足なく伝わるかというと怪しいが、今はそれを考慮する必要はない。



 星良の姿が見えた。手元の煌めきは、恐らく高速の直線弾。

 遭遇時と同様、銃撃を放つ。走りながらのそれは外れたが、向こうもわずかに回避運動を取り、そのために攻撃軌道がずれた。

(それで十分!)

 身を低くして速度を上げる。直線弾の雨が防具を掠めたが、身体にダメージはない。距離を詰める。


『魔力増大!』

 星良の構えを見る。手を前にかざしているなら、先ほど撃ちまくっていたビーム砲だ。だが違う。俺と同じく姿勢を低くし、今にも飛び出そうといった様子。

貫く軌跡スターリング・ランス!)

 それは魔力を纏った一直線の突撃だ。速度は魔力弾よりもビームよりも遅いが、突っ込んでくる本人が魔力によって守りを固めている。これにより、直線軌道上の全てを破壊しながら、星良自身は無傷のまま移動できる。


 ただ、これも対処方法はそう変わらない。

(一直線に俺を見ているな)

 魔法少女の宿命。『向上した身体能力に、思考が追いつかない』。そこを突いてやればいい。


 ひときわ大きな光を放ち、辺りを破壊しながら、星良が俺の元へ突っ込んでくる。

 俺はその瞬間、横に跳んだ。星良の突入線に対して垂直を意識する。きれいな着地もしなくていい。転倒してでも距離を稼ぐ。

 突撃は、飛び出してしまえばその方向を転換することはできない。纏った魔力の余波はあっても、落ち着いて回避行動を取れば脅威ではない……むしろ明確な隙だ。

 俺は拳銃を構え、引き金を引く。狙うのは突撃が終わり、民家に突っ込んで停止した星良の背中。立ち上がりながら引き金を引き続け、装填分を撃ち尽くす。

(リボルバーなのがな!)

 退魔弾はその性質上、カートリッジでの取り扱いができず、よって装填に時間がかかる所が辛い所だ。


「ぐっ……ゥ……!」

 星良は呻きながら振り向く。その手には魔力の瞬き。それが放たれる瞬間、俺は再び横に駆ける。直線弾ならこれで回避できる……だが追尾弾!

「だろうと!」

 俺は再び、発煙筒と地形を使ってそれを振り切る。発煙筒は残り二つ。あるいはその前に星良が何か別の手を打ってくるだろうか。

『魔力増大!』

 星良を視認できないと、砲撃と突撃のどちらが来るかは分からない。だが、予想はできる。建物に突っ込み、視界が悪い状態は星良も脱したいはずだ。つまり

(突撃が来る……しかも、あっちも俺が見えない。俺を狙えない突撃!)

 家屋が内側から破られ、魔力を纏った星良が飛び出てくる。だが俺はその時、先ほどまでのように回避するのではなく、攻撃の構えをしていた。

 投擲する。金属質のバウンド音。

「……?」

 星良がそちらを見た瞬間、それは爆ぜた。手榴弾だ。いわゆる攻撃手榴弾コンカッションに類別されるそれは、規定範囲に爆風を起こす。生身の人間なら文句なく即死するという意味では、拳銃なんて軽く凌駕する殺傷兵器である。

 もちろん使われている炸薬も、何かの神事に用いられる篝火のためだけに作られる点火剤だという。威力も原価も尋常ではないそいつを当てるタイミングを、俺は待望していた。


「あぁぁっ……!」

 当然、星良のバリアも大いに削れる。俺への敵意は強まり、その攻撃の矛先が優羽陽に向く危険性を減らせる。攻撃そのものも慎重になっていくだろう。

(……優羽陽の状況はどうなんだ)

 俺は敢えて、嫡主撃破以外の情報を渡さないようオペレーターに依頼した。とにかく星良に集中したかったからだ。

 それでも、こうギリギリの戦いが続き……必殺の手榴弾の攻撃を受け、悲鳴を上げてもなお体表に僅かの傷もなく立っている星良を見ると、経過を知りたいという色気が勝る。



(次はどうするか)

 そう考えた瞬間、その通信は突然入ってきた。

『良い位置だ』

 低い男声。

「……ラジュンさん?」

『一発かます。フォローしろ』

 言うや否や、遠くから低く不吉な爆音が轟いた。星良がそちらを振り向いた瞬間、

「がッ」

 その身体が派手に吹っ飛んだ。余波の衝撃風が俺にまで及んでくる。

「……おいっ……対物ライフル持ち出しましたね!?」

『一度撃ってみたかったんだ』


 それは一升瓶くらいある巨大な弾頭を撃ち込む、ライフルの形をした大砲としか言いようのない兵器だった。

 弾頭が大きいということでたっぷりと神聖な媒介や儀式を籠められるのが幸い(あるいは災い)し、三発だけ弾頭が試作され、その後『日本でこんなん持ち出せるわけないやろ!』と封印されていた代物である。


(俺も正直撃ってみたかったのに……!)

『おい、フォローしろよ』

「フォローって……」

 言いかけ、吹っ飛ばされた星良が震えながら身を起こし、その手を轟音の発生地点に向けている。

『魔力増大!』

 花織子さんの声。これは砲撃だ。その手が向いているのは、狙撃にもってこいな高層マンション屋上。

「……うおぉッ!!」

 俺は慌てて駆け込み、ナイフで星良の手首を跳ね上げた。紫に濁った空を、同色の魔力砲撃が突き刺さる。


 そこからさらにナイフで追撃し、星良が再び距離を取った所で、俺は通信機に向けて吼えた。

「マンションごと吹っ飛ばされるとこだぞ!!」

『だからフォロー頼むって言ったろ。サンキューな』

 そう言うと、ラジュンさんの通信は切れた。

(股間蹴ったことメチャクチャ根に持ってるだろこれ……!)



 とはいえ、この攻撃で風向きは変わった。


 星良の動きが落ち着きを見せたのだ。魔力の消耗も大きいだろうし、ラジュンさんが撤収したという情報を彼女が知るよしもなく、さらなる狙撃を警戒して派手な攻撃をしなくなった。

 おかげで俺もかなり動きやすくなったし、住宅への被害も目に見えて減った。

(ラジュンさんは絶対に私情優先だっただろうに、良いように働いてるのは業腹だな!)


 十分に息を整え、拳銃への装填を済ませ、幾度目かの交戦コンタクトを仕掛ける。

 発煙筒はもう使い切り、俺が使えるのは拳銃とナイフのみ。

 限界が近い。この攻撃を終えたら、優羽陽の撃破報告を待たずに退却するのもやむなしというラインだ。



 星良は児童公園のブランコの上に立っていた。ブランコそのものではなく、ブランコ全体の上だ。

(障害物はある。何より樹木が多いのが良い)

 俺は隣の建物の階段を駆け上り、常緑樹の枝へ飛び込む。その音を察して、星良の手元に魔力の光が瞬いた。

(見えなくとも、位置が分かってるなら直線弾!)

 読み通り、高速の魔力弾が迫る。枝を蹴って次の樹を介し、雲梯の上に着地。二発銃撃する。一発命中し、星良は苦痛に表情を歪めた……最初よりも大きい表情の変化。効いている証だ。

 再び星良の手元に光が瞬く。直線弾だろう。雲梯の上を走る。俺がいた地点を光が通過した。そのまま雲梯から、滑り台の影へ飛び降り――


(いや)

 まだ俺を追っている魔力弾がある。俺を追っている……追尾している?

(……直線弾と追尾弾を同時に!?)

 気付いたときにはもう遅い。着地した瞬間になんとか駆け出そうとした俺は、しかし間に合わず、追尾弾の直撃を受けた。


「ぐゥッ!?」

 突き刺さるような痛み。そして背と脚に、じわりと温かいぬめりを感じる。一発で石塀だって砕く魔法弾だ。銃弾を防げる程度でしかないジャケットにそこまでの防御能力がないのは覚悟していたが……

「理不尽過ぎるな……ッ!」

 ここまでギリギリながら回避を続けてきたのに、星良が一つ新しい技をひらめいて、それが一発当たっただけでこのざまだ。脚を伝って、血が垂れ落ちる。



 早鐘を打つ心臓を意味もなく押さえながら、その場から逃れようとする。だが、痛みのためにほどなく足をもつれさせ、倒れた。何とか近くの樹を頼りに身を起こすが、そんな俺を星良が眺めている。

「星良……」

 黒い衣装に走る紫のラインが、当初よりずいぶん薄まっているように見えた。魔力の底が近いのか、それとも嫡主の影響力が薄まっているのか?

 だが、彼女が止まることはない。手をかざす。その手に魔力が収束する。


「……やめとけよ、星良」

 命乞いをするつもりはなかった。だが、この後のことを思い巡らせて、俺はふとそう漏らしてしまった。

「魔界の連中にメチャクチャにされた上に、人殺しにまでなったら、あまりにお前が救われない」

「…………」

「悲しむぞ。祈月も……優羽陽も」


 僅かにその瞳がゆらいだ。だが、魔力の収束は止まらない。

 轟く軌跡が来る。




 刹那、月の光が見えた。

 紫に穢された空の色ではない。

 甘く美しい、夜の色。



 焼けるような音と共に、魔力のレーザーが放出される。

 その直前、一つ小さな影が俺の前に飛び込んできた。

 それを俺が見誤る訳がない。

「祈月……!?」


「あ、あああ……っ!!」

 受け止めている。両手を交差してかざし、夜空の色の障壁を発生させて。

 だが彼女の力は、広範囲を薄く防護することは得意な一方で、こういった高火力攻撃を受け止めるのには適していない。


「無茶な、祈月……」

「……天道さんだけには!」

 その声には、疲労と苦痛が滲んでいた。

 だというのに、力強かった。

「言われたく……ない、ですっ!」


 砲撃を受け切ると同時、祈月は手の角度を狭める。


三日月の守護剣クレセント・プロテクサーベル!」

 青白い光が迸り、星良を突き飛ばす。

 反撃は来ない。祈月は足をふらつかせるが、それでも転んだりはせず、俺を振り返った。



「天道さん! 怪我……!」

「っつ……大丈夫、だ。心肺をやられたということはない……」

 脚からの出血はなかなかの勢いだったが、大腿脈を破られていたらこんなものでは済まない。そういう意味でも俺は無事だった。

「それより星良は、」


 言いかけた俺の元に、祈月が屈み込み、

「良かった、無事で……!」

「…………」


 何を――

 されているのか。よく分からなかった。


「本当に……本当に心配だったんですから……!」

「あ、あわわ」

 体温があった。

 重みはなく、しかし柔らかな存在感が、俺を包み込んでいた。

「優羽陽のこと、守ろうとしてくれて……あの作戦しかなくって、時間もなかったから……言えなかったですけど」

 ごく近くで発せられる涙混じりの声は、かすれていてもなお甘い。

「……だって絶対、到理さんが一番危ない役目でしたから。できることなら、代わりたかった。わたし以外に住民を守れる人がいたら……」


 抱きしめられていた。

 祈月の腕が背に回され、祈月の身体が俺の体に寄り添っていた。

 それは想像よりもずっと優しく、温かかった。



「…………」

 言葉も発せられない。多分、上ずった情けない声が出てしまう。

(これ……)

 ただ、腕を動かせることに気付いた。やられたのは脚だけだ。

(……俺からも抱きしめ返せるんじゃ……!)


 かつてないチャンスに俺が揺れているところ、滑らかな手が俺の頬に触れた。

「!?」

 白くフリルのついた手袋だった。祈月の手。

 見れば、すぐ近くに祈月の顔が寄せられている。優しく香る、細い黒髪。深い黒の瞳。ほのかに紅潮した頬。穏やかに整った顔つき。控えめで、だけど美しい唇。

(え!? こ、これは……えっ!?)

 睫毛の先端の角度まで分かってしまいそうな、空前絶後の接近。

 俺の妄想は、そんな流れではないとか、そういう関係ではないとか、その手の真っ当な指摘を轢き飛ばして爆走する。

(っ…………っちゅ……チューでは!?)



「やっぱり」

 す、と祈月が離れた。

「イヤホン、落ちてましたよ」

「……え?」

 祈月の背中まであと数ミリの所に迫っていた手を、唸るような速度で右耳に運んだ。

 確かにそこに、あるべき端末がなかった。祈月はそれを確かめていたのだ。

(そういえば途中から花織子さんの声が全然聞こえなかったな……)



「えっと」

(あっ……そんな……)

 祈月が立ち上がると、俺はとてつもなく大きな魚を釣り逃した気分になった。

 が、彼女はそんなこと意に介さず公園を見渡し、やがて滑り台の近くに落ちているイヤホンを認めた。

「ありました。ここで星良の攻撃が?」

「ああ……その時に落ちたんだな」


 手袋に包まれた、美しいとしか言いようがない指先から、俺はイヤホンを受け取り直す。

 そして、そのことを確かめられた意味をなんとなく悟る。先ほどから、祈月がさほど星良を気にしていない訳も。


「なあ、もしかして……」

「はい」


 肯定の返事と、それに伴う嬉しそうな祈月の笑みが、すべての答えだった。

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