E-2

「……ああ。ああ。じゃあ、元気で……ああ。また明日に」


 図らずとも叶った花織子さんとの通話を終え、俺はスマホを閉じた。

『嫉妬の嫡主』事件以来久しぶりに話した戸籍上の姉は、想像通りに元気をなくしていて、だけど想像よりも口数は多かった。毎日局長が会いに行っているという話だから、謹慎中ながらもそこそこ賑やかにやっているのだろう。

 正直、ほっとした。何があろうと、あの人は『計画』時代からの数少ない知人で、ずっとお世話になりっぱなしの相手だ。あの事件を通して、衝突もしたかもしれないが、結果的に理解は深まったと思っているし、憎しみのようなものは一切ない。

 ぜひ壮健に過ごし、一日も早く帰ってきて欲しいと思う。



 スマホをしまい、空を見上げる。

 初夏と表するには生易しい熱っぽさが、青い空には満ちているようだった。あまりに多くのことがあった五月は過ぎ去り、程なく夏がやってくるだろう。

 退院して一日。傷もすっかり塞がった俺は、そこで二人を待っていた。


「到理さーん!!」

 優羽陽がコンビニの袋を持って、ばたばたと走ってくる。少し遅れて祈月も。

「天道さん。お待たせしましたか?」

「大丈夫だ。大して待っていない」

「ごめんね! ジュースどれが良いのか迷っちゃって。ゲテモノ行ける系?」

「行かない系だ」

「じゃあ今日は行く系でお願いね!」

「……ごめんなさい、止められなくて……」



 荷物の一つを預かり、俺たちは並んで道を進む。体調はどうかとか、今後訓練はどうするのかとか、学校がどうだとか、他愛ない日常の確認と雑談。


(……しかし、見舞いに来てくれた時に見て思ったが……)

 話しながら、俺は気付かれないよう慎重を期しつつ、祈月の姿を見る。


 いわゆる夏服というやつだった。

 先日まで着ていたジャケットやカーディガンのようなアウターはなく、白いワイシャツ一枚。スカートも以前より明るい色合いをして、しかもちょっとばかり丈が短くなっているという大変な変化を遂げていた。ブレザー姿も真面目な女子高生感があって非常に良いものであったが、夏服の祈月は軽やかな風のようだ。甲乙をつけることは至難だが、敢えて決めるなら目の前の祈月が一番可愛いと思う。

 さらに意識を集中すれば、変化は外見に留まらないということがわかる。先日まではかすかな甘い香りが祈月からはしたが、夏服になってそれは柑橘の爽やかなものへと変わっていた。

 果たしていかなる変化が発生したのか。これは季節による変化なのか。それとももっと意味のある変化なのか。その謎をいかに究明するべきか。退院早々、俺の脳は大忙しに回転しながら延々祈月のことを考えていた。



 ところで、俺たちの目的地は対魔局の寮であった。


「とうちゃーく! エアコンエアコン!」

「もう夕方だし、窓開ければ大丈夫じゃない?」

「ええー、ケチることないじゃん! 私たちが電気代払うんじゃないんだし!」


 賑やかに買ってきたものをテーブルに並べる二人は、もうすっかり慣れた様子である。

 というのも、俺が入院し花織子さんが謹慎している間、誰もいなくなった寮の管理を、二人に依頼していたのだ。祈月は食材が傷んでいくのを見ていられないと言い、優羽陽も祈月の手料理が食べられるならということで、生鮮食材の使用や定期的な掃除やらを請け負ってくれていた。

 おかげで昨日俺が帰ってきた時も、綺麗に掃除された寮でゆっくり過ごすことができたし、こうしてすぐに俺の退院祝いを開くことができるという具合である。



「じゃ、到理さんの退院を祝して!」

「おめでとうございます」

「ありがとう。お願いも色々聞いてもらえて、助かった」

「いいえ。お世話になってますから」

「イェイイェーイ」

 様々なお菓子を前にしたせいか、優羽陽は妙にテンションが高くなっている。とはいえ祈月もなんだか普段より笑顔が明るいから、これは素直に俺の退院を嬉しく思ってくれていると取るべきだろうか。


 退院祝いといっても、別にそう特別なことをするわけでもなかった。

 菓子とジュースを楽しみながら、サブスクリプションサービスで優羽陽のチョイスした映画を見ていく会である。

「今日は三本見る予定だよ。最初のはこの前の『バススピード』、続きからね。で、その次はビミョーな映画見て、三本目は配信開始したばっかりの……」

「待て」

 何か不穏な響きを耳にし、俺は優羽陽を制止する。

「一本目はこの前の続き。三本目は去年話題になったアレ」

「うん、そうそう」

「二本目は?」

「ビミョーなやつ」

「何故?」


「すみません……」

 横でなぜか祈月が謝っていたが、優羽陽はケロッとした様子で続ける。

「だってビミョーなやつ見た方が面白い映画が面白くなるじゃん」

「喉が乾いていると冷たい水がうまいみたいな話をされているか今?」

「まあ、ビミョーな映画の中でも面白い方だから」

「よしんばそれがお前の中で『中の上』的な評価だとしても、『上』の映画だけ見れば良くないか?」


「到理さん……」

 俺の発言に、優羽陽は困ったような……いや、憐れむと言って良い表情をした。

「コドモだね……」

「かつてないほどに上から目線されてるな?」

「本当にすみません…………」

 祈月がさらに謝罪する。優羽陽は玄人じみた表情で指を振る。


「面白い映画ばっかり見てると……疲れるんだよ!」

「……そうか……?」

「そう! 面白かったけど疲れたねーってなっちゃうの。だから、間には絶対ビミョーな映画を入れたほうが良い!」

「…………」

「するとね! ビミョーな映画で適度に肩の力抜けてね、面白い映画がもっと面白くなるんだよ! これはね、常識です」

「常識……」

 俺に視線を向けられていることに気づくと、祈月はふるふると首を振った。

「適当をこくな」

「世間がどうかは知らないけど、我が漣家ではそれが常識!」

「こんな形でお前の家に問題意識を抱くことになるとはな……」



「もうちょっと真面目な話するとさー」

 優羽陽はリモコンを確保したまま、テーブルに頬を乗せた。

「まず、この前の映画の続きは見たいじゃん?」

「ああ。いざこざがあって結局中断したままだったしな」

「で、せっかくお祝いなんだし、話題の映画見たいじゃん?」

「さんざん社会現象になったことだしな……」

「でも、映画ばっかりじゃなくてお喋りもしたいじゃん?」

「ああ」

「そういうこと」


 黙考する俺の目の前で、いそいそとリモコンを操作する優羽陽。


「……あ? 『お喋りもしたい』からビミョーな映画を見るのか!?」

「えっ、そう説明したじゃん」

「説明か!? それが!? ……話したいなら普通に話せば良いと思うんだが……」

「もー、そんなに見たくないの? せっかく飛びきりのビミョー映画用意してきたのに……」

「オクシモロンか?」

「うん。きっと面白いからさぁ」


 まさかここに来て想像以上に話が通じないことになるとは思わず、愕然とする。そんな俺の隣に祈月が回り込んできて、小声で囁く。

「すみません、優羽陽……やっぱり今日のこと、すごく楽しみにしてて」

 涼しくも甘やかな芳香の混じる囁きに、俺はもう瞬時にビミョーな映画がどうこうとかどうでもよくなる。顔、囁き声、香り、体温の気配。五感の80%を祈月に染め上げられた脳が過負荷で停止する所だったが、なんとかそれはこらえた。

「……まあ……まあ、分かる。この上なくな、テンションが高い」

「だから、その……だからっていうのも申し訳ないんですが、どうか付き合ってあげてください。優羽陽も本当に、退院をお祝いしたいんです」

「それは……大丈夫。分かっている」


 やれやれと首を振り、それから頷いた。

 その方法が表向き妙に見えても、気持ちについては疑うよしはない。


「ありがとうございます」

 祈月は控えめに笑うと、(残念ながら)元の、優羽陽の隣の席に戻ろうとして……ふと、付け加えた。

「……私も、昨日のうちにこちらで仕込んだ料理、頑張ったんですよ」

「ああ。まだ中身は見てないが……」

「はい」

 こくりと頷き、幾分か自信ありげに笑う。

到理さん・・・・に、退院おめでとうと、ありがとうの気持ち、たくさんこめましたから。楽しみにしていてください」


 そう言うと、祈月は本当に優羽陽の隣の椅子へ戻っていった。

 料理の存在は昨日から知っていた。祈月が、自信を持ってああ言う料理。はたしてどれほどのものなのか。今の段階から腹が減って……

(……ん? 何か今……)


「到理さん! 映画会始めるよ!」

「ああ。……やっぱり二本目も面白い映画にできないのか?」

「まだ言ってる! もー、そんなに面白いものに急ぐことないでしょ」

「いや普通にビミョーな映画を見たくないだけだが……」


「良いじゃん、良いじゃん」

 俺の言葉を聞き流して、笑いながら、優羽陽は再生ボタンを押す。

「まだまだこれからも、いくらでも機会はあるんだからさ!」

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