1.滅紫なる空の下で
1-1
訓練室。
俺は祈月の写真に囲まれて目を覚ました。
時計を見る。朝5時半。いつもの起床時刻である。
だからそこからは、普段どおりの朝を過ごす。ニュースを見つつ、学習音声を聞きながらのマシンランニングを45分。入浴を済ませ、食堂で食べ損ねた昨日の夕食と、控えめに作られた朝食をまとめて取る。
「今日の予定は?」
食事中、花織子さんが聞いてくる。この人には、俺の食事風景を眺めるという妙な趣味があった。
「午前の訓練の後は通常業務。今のところ騒動の予兆はなかったはずだ」
「昨日、訓練室で寝てたと思うけど、身体は大丈夫?」
「痛みはあるが支障のないレベルだ」
公私入り混じる質問へ機械的に返しながら、味噌汁を飲む。
「夕飯も食べてなかったし」
「今食べた」
「歯はみがいた?」
「入念に」
「……新しい写真があったの、気付いた?」
「学校の屋外通路を移動中のだろう」
もちろん祈月の写真のことだ。
花織子さんは、俺が祈月に一目惚れし、コミュニケーションに大きな支障を来たしていた時、その姿を日常的に目にして『慣れ』ることを提案してくれた。そのための写真を用意し、長じて訓練室なんてものまで用意してくれたのも花織子さんだ。
それ以外にも、同年代とのコミュニケーション経験やそもそもの社会常識に欠ける俺の相談によく乗ってくれる、まったく頭が上がらない相手である。
「さすが。見逃さないね、祈月さんのことは」
「変化があれば気付く。当然のことだ」
「ふうん……私、髪切ったんだけど」
視線を上げる。花織子さんはいつも通り頬杖をついて、柔らかな微笑を浮かべ、いくぶん細めた目で俺を見ていた。
18歳の俺より6歳上なので普段はずいぶん大人っぽいが、それでも時折子どものような、くしゃりとした表情を浮かべることがある人だった。たとえば今などだ。
「確かに少し短い。これから暑くなってくしな」
「気付いた?」
「いや? 言われて初めて気付いた」
「毎朝顔合わせてるのに?」
口をつぐむ。この人が何を言いたいのかよく分からなかった。
俺のそんな様子を察してか、花織子さんはため息交じりに笑って、椅子を立った。
「朝の挨拶、ちゃんとするんだよ」
「ザイオンス効果だな」
ほどなく俺も朝食を終え、食器を洗い場に起き、スマホを開く。朝の挨拶を打ち込んだ先は、俺と祈月と優羽陽の三人だけのチャットグループだ。
『おはよう。昨日はお疲れ様』
『調子が悪ければ遠慮なく言うように』
ほどなく既読のマークがつき、返事が来る。
『おはよう!!!!!!!!』
『おはようございます』
『体調は元気です ありがとうございます』
『今日暑くない!!??』
『放課後はいつも通り対魔局に向かいます』
『向かいます!!!!!』
『了解』
「よし」
返答を送信して、画面の中の、祈月のアイコンと文章だけを凝視する。やたら『!』の多い優羽陽のメッセージにはもう慣れ、意識から外すこともそう難しくない。
「ハァ……」
溜息。瞑目。短くも丁寧な文章を何度も何度も見返し、頭の中で音声化して再生する。それだけで心臓は幸福に高鳴り、身体の内から熱っぽい力が湧いてくる。
「ものすごい真面目な顔だけど……」
花織子さんの声で、俺は急速に現実へ引き戻された。既に食器を洗い終えたようだった。
「別に何かあったとかじゃないよね?」
「いつも通りのやり取りだ」
「うん。分かってるんだけどね」
分かってても確かめちゃうくらい真面目な顔なんだもの、とこぼす花織子さん。
さておき、花織子さんが片付けを終えたということは、俺も出かけるべき時間ということだ。鞄を取り、立ち上がる。
「行ってきます」
「はい、いってらっしゃい。今日も頑張ってね」
◆ ◆ ◆
俺は対魔局に所属する霊能戦闘職員である。
対魔局は正式名称を『特殊公営企業・対魔界災害等調査局』と言い、ざっくりと言えば公共からの予算で魔界からの魔物の侵攻へ対応する組織だ。
そして俺は、そこに所属する数少ない戦闘要員となる。本来の専門は悪霊退治だが、その力が魔物にも多少は有効ということで、そちらの仕事をしている。
対魔局のメンバーは大半がそのような具合だ。元々霊的な事件に備えて準備されていた人員のうち、魔界からやってくる魔物に対しても有用な者をスライドして構成された組織が、対魔局である。
例外は、祈月たち魔法少女くらいだ。
戦闘職員というからには、その業務は当然戦闘であり、その必要に迫られない限りは、戦闘に備えるのが俺の日常業務である。
午前は手順通り装備のチェックを終え、基礎鍛錬。昼食を挟み、同じ戦闘職員との白兵戦訓練。
そして高校を終えた祈月や優羽陽が来たら、会議室で簡単なミーティングが行われる。
「騒動の可能性があります」
口火を切ったのは職員の一人、エリさんだった。冷ややかな雰囲気の、スーツの女性だ。会社員然とした外見だが、右耳につけた大量のピアスが目を引く。
「今週末日曜、午後の、日が沈むよりは前の時間。場所は
「調べたんですけど、その神社、週末はいつも賑わうんですよねー」
補足するのはやはり職員の一人、マエさん。ふんわりとした丸顔の女性である。
「なのでそれ以上の正確な時間や場所の特定は難しいですー」
エリさんは『
それは対魔局において、魔物の襲撃の発生予測に使われる。たとえば昨日のように、基本的に騒ぎの少ない住宅地で魔物が暴れることがあった場合、襲撃の場所・時間ともに相当の高精度で予測できる。
しかしそれがいつも騒がしい観光地ともなると難しいらしく、時には観光地の『いつも以上の盛況』を魔物の襲撃と誤探知して、空振りに終わることすらある。
そしてそうなると、問題はもう一つ。
「ということは、避難とかも……」
祈月が問うと、エリさんは苦々しく頷いた。
「申し入れたが、避難所設営までしか受け入れられなかった。当日の閉鎖は困難ということだ」
対魔局は特権組織ではない。
かつて、魔物が出現して間もない頃は、相手がどこであれ避難を呼びかければ一も二もなく従った。
だが魔物の出現から半年が経ち、『魔物は魔法少女がなんとかしてくれる』ということが知れ渡った現在、今回のように避難勧告が退けられることがしばしば発生する。
もちろん特殊公営企業として、対魔局の避難勧告に強制力を付与するという選択肢もある……のだが、予測が空振りに終わったことがあるという前例があり、避難所を近隣に設営するという妥協案があり、そして何より、本当に魔法少女がなんとかできるという事実があるため、あまり強く申し入れられないというのが現状である。
「分かりました!」
しかし優羽陽は、明るく応じる。
「じゃあ日曜は、その神社に張り込む感じですねっ。何があるのか調べなきゃ!」
「もう、また観光気分で……」
彼女の隣、祈月がたしなめるように言うが、その口元には笑みがある。
祈月だけではない。同席者の誰もが、どこかほっとした様子だった。
……漣優羽陽には、そういう力がある。霊能力、ではない。場の空気を前向きにする存在感だ。
この場にいる誰もが、それに助けられてきた。
俺も含める全員が。
「そう言うと思って、調べておきましたよー」
穏やかに笑うマエさんが、手元のタブレットの表示をスクリーンへ共有する。太綱神社のホームページだ。
「神社そのものはそこまで大きくないんですが、近くに大きな公園があって、そこが観光スポットになってるみたいですねー」
「……神社と公園が?」
それに疑問を差し挟むエリさん。
「妙だな。それにしては何とも、過剰な騒ぎぶりに思えるんだが……」
「あ、そこって……」
その言葉で、祈月が何か気付いたように声を漏らした。
「知ってるの?」
優羽陽の問いに祈月はためらいがちに頷き、答えはマエさんが口にする。
「元々縁結びの神社だったのが、恋愛ドラマのロケ地になって、今話題のデートスポットなんですよー」
その告発に、優羽陽は得心した顔になり、祈月はわずかに赤面して俯き、俺はその姿を必死で脳に記録した。
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