エゴイズム
七月二十三日の夜。
大塚セイジは海上フェリーのデッキ内につくられた大型浴場の風呂に肩までつかり、白波を立てる夜の太平洋をどこかのぼせた気分で眺めていた。
頭に浮かぶのはセンダイの港に置き去りにしてきてしまったマモルと、そして港の縁に立ちすくみこちらを真っ直ぐと見つめていた同年代に思える貞操管理者の少女のことだった。
フェリーの出港を合図する汽笛のせいでよく聴こえはしなかったが、あの時マモルは悲鳴のようなものを上げていた気がする。
最後のエールを送るように頭上に挙げられた掌。
遠くからたしか見えたあの光景を思い出すと感涙しそうになってしまい、浴槽のお湯を顔にかけ心を保つ。
こんなところで泣いてしまったら笑われてしまう。
セイジにはすぐ隣りでなに泣いてんだよ、とからかうように微笑むマモルの姿が簡単に幻視できた。
「……それにしても、あの貞操管理者の子、どうしてか懐かしい感じがしたんだよな……」
次に思い出されるのは、数秒間だけ視線が交錯し合った貞操管理者の少女のことだ。
シルクのように滑らかな黒のミィディアムロングヘアー。
身長こそ百六十に届くか届かないか程度だが、頭身の数からスタイルは良く見える。
推定Cカップの胸と細く形の良い顎。
顔半分が仮面に覆い隠されているのに分かってしまう、美貌兼ね備えたその若き貞操管理者のアンバーに近い明茶色の瞳からは、不思議とノスタルジーを感じたのだった。
「そういえば、ミユリちゃんと会う時、別の子も公園に遊びに来てた時がある気がするな……僕はミユリちゃんに夢中でよく覚えてないけど、もしかしてその子?」
セピアの記憶を漁ると、約束のコイビトである富岡ミユリ以外にも、昔遊んでいた子がいるような気がしなくもない。
セイジは昔から富岡ミユリ一筋だったため、深くは思い出せないが、もう一人どこか富岡ミユリと似たような雰囲気の少女がいた気がしなくもなかった。
「それか、他の知り合いかな……でも僕と同年代で貞操管理者かぁ。すごいなぁ」
もしかすると他の過去の知り合いの可能性もある。
小学校や中学校の先輩かその辺り。
セイジとあまり離れていない年齢だとしたら相当に優秀であろう。
この年代で貞操管理者試験に合格する者などほとんどいないと聞くからだ。
しかし自分を追う貞操管理者の中に知人が紛れ込んでいるかもしれないからといって、捕まるわけにはいかなかった。
約束の少女である富岡ミユリに出会うまでは決して。
順調に行けば明日の昼前にはホッカイドウのトマコマイに到着する予定だ。
ついにここまで来た。
マモルの尊い犠牲もあり、目標の北の大地まであと一歩と迫った。
セイジは自然と胸が高鳴るのがわかった。
フェリーが揺れるのと同時に浴場も傾くような形になり、湯船の上に小さな波が立つ。
頭がぼうっとしてきた辺りでお湯からあがり、シャワーを軽く全身に浴びせると白のハンドタオルで肌に浮いた水滴を浮きとると、火星出身のチンポコに皮を被せてやる。
そしてセイジはほのかに湯気が昇るほど暖まった身体のまま脱衣所に戻り、膝下の短パンと無地のTシャツに着替え、付属品のカミソリでたいして伸びていない髭を剃る。
その後はドライヤーできちんと髪を乾かしてから、脱衣所の外の通路に出た。
クラシックジャズが心地良く流れる船内にはまだ人の姿が多く見られ、カウチで優雅に過ごす裕福そうな老人や、オープンバーでカクテルを楽しむ三十代から四十代ほどに見える男女がいる。
それなりに豪勢なつくりになっている船舶には、小さなシアタールームも内設されているようだ。
今晩上映されるのは“時計じかけのオマンゲ“という映画らしい。
セイジの知らない映画だった。
流しで概要に目を通してみると自分が生まれる前に製作された古いSFモノであることが分かった。
そこまで興味は惹かれない。
見ようとは思わなかった。
風呂上がりということもあり、自動販売機で缶のペプシコを購入する。
基本的には赤いコークの方を好んで飲むが、時々ペプシコしたくなる時があったのだ。
あてもなくフェリーの中をペプシコ片手に彷徨っていると、他の場所とは違い人気のないメダルゲームコーナーに見知った顔がいることに気づく。
スプモーニのような色の髪に北欧人かと思うほど色白な肌。
妖精かと見紛う可憐な相貌とは裏腹に、“I WANNA JACK OFF WHEN YOU WANNA JILL OFF”と英字で書かれたオーバーサイズのTシャツ、張り艶のある太腿を露わにしたホットパンツというラフな格好をした少女。
彼女は不安定なようで倒れない幾つものメダルを積み上げていた。
「それなにしてるの、セナちゃん」
「……うん? あぁ、セイジか。これはね、タワートレジャーゲームって言ってね、上からこうやってメダルを積み上げて、それを倒して自分のところに落ちてくるようにするゲームだよ」
セナがメダルを縦長の穴に投入すると軽快な音がなり、円筒形のアームのようなものが動かせるようになったらしく点灯する。
そのアームを器用に操作し、すでに随分と高く積み上がっているメダルの塔の最上部にまた一枚メダルを落とした。
ぐらり、と一瞬タワーが揺れる。
セナが舌なめずりをしながら、それを見守る。
結局タワーは倒れず、彼女はもう一度メダルを投入した。
「楽しい?」
「うん。楽しい。うち、こういうの好きなんだよねぇ」
「メダルゲームが?」
「にゃはは、違う違う。こうやって我慢して我慢して我慢して、これ以上ないってくらい大きなものを創り上げて……最後に壊すのが好きなんだよ」
——慎重にレバーを操作したのに、落下していくメダルはタワーの中心とはまるで違う箇所に当たる。
質量から考えて衝撃は小さなもののはずだが、力が作用した部分の問題か大きくタワーが揺れる。
バランスを失った黄金の塔が、まるでスローモーションのように崩れ落ちていく。
広く間隔を取られて置いてあったメダルの山を巻き込むようにして、タワーはバラバラに散らばっていく。
その様子を見るセナは蕩けたような瞳をしていて、かすかにハァハァと息を上げていた。
「……はぁん。やっぱり最高だよ。こうやって大事に大事に積み上げたものを壊す、その瞬間ってのはたまらないなぁ。まじヌれる」
そして大量のメダルを手に入れたセナは、それをありったけプラスチックの箱に掻き集めると、再び一からメダルを積み上げていく。
いったいこれを何度繰り返したのだろう。
セイジにはセナが熱心に興じるタワートレジャーゲームの、何が楽しいのかさっぱりわからなかった。
「ねぇ、そこまでして守る価値があるものなの?」
ふいにセナがセイジに問い掛ける。
あまりに唐突で、また問われている内容も理解できなかったセイジは答えに窮した。
「政府を敵に回して、大切な友達を犠牲にしてまで、童貞を守って、なんの意味があるの?」
すぐにセナは自らの問い掛けの意図を明かす。
純粋な疑問なのか、それとも苛立ちを含んだ詰問なのか、淡々とした声色からはどんな感情も窺い知ることはできない。
「……僕は約束したんだ。コイビト以外とはエッチなことはしないって」
「だからさ、その約束にそこまで価値があるのかなって」
セイジの根源にまつわる信条に対してセナは疑問を呈する。
互いに愛し合う相手以外とは交わらない。
そんなことは彼にとって、これまで悩むことすらなかった不変の哲学だ。
しかしいつかの時マモルも言っていたように、それはこの現代のニッポンに生きる他者からすると異質に見えるものなのだろう。
「好きな相手としかシたくないってのはわかるけどさ、求められたらどうするの? セイジが好きじゃなくても、セイジのことを好きな相手が求めてきても、セイジは拒絶するの?」
「え? そ、それは、たぶん、そうだね。これまで求められたことがないから自信を持っては言えないけど、やっぱり僕は断ると思う」
「それって超ジコチューじゃない? 要するにセイジは自分の気持ちが最優先ってことでしょ? どんなに相手が自分のことを想っていても、どれだけ自分のことを追いかけてきても、セイジは約束を優先する。自分の、自分が好きな相手のこと以外は一切見ない。他の子なんて眼中にない。それって結構残酷なことだと思わない?」
自分自身のことを人格的に優れているとセイジは思ったことはない。
しかし同時に自分本位な人間だと思ったこともなかった。
だがその考えはセナの言葉によって大きく揺れ動く。
これまで真っ直ぐと上に伸びていたタワーの上に、ずれたメダルが落ちてきたかのように、自分という存在についての価値観にヒビが入ってしまったのだ。
考えてみれば、自分はずっと周りに迷惑ばかりかけてきたとセイジは改めて思い知る。
友人のナオトには自分のために学校を早退させてしまったし、両親には心配をかけてしまっているし、尊敬する先輩のマモルはSeIReの手に落ちた。
約束を守る。
それはたしかにただのエゴイズムだ。
周囲の人間の優しさに甘えすぎているのではないか。
セイジはバラバラに散らばったメダルタワーの成れの果てに、自らの未来を重ねてしまう。
「まあ、それでもうちは最後まで見届けてあげるけどね。セイジの進む道にどれほどの犠牲が積み重なろうと、どこまで残酷な選択を強いられようと、うちだけは最後まで隣りにいてあげる……きっと昔から、ずっと変わらないんだもんね。そしてこれからも変わろうとはしない」
「……僕の昔のことなんて、知らないでしょ?」
再び積み重なったタワーを崩すと、下に落ちてきたメダルを箱にまた集めた後、それをセイジの空いている方の手に渡す。
「ううん、知ってるよ。うちは全部、知ってるよ」
最後にセナは媚惑的な笑みを浮かべてセイジを一瞥すると、そのままどこかに去って行った。
誰もいなくなり、空調のカラカラとした寂しい音だけが響くメダルゲームコーナー。
ずっしりと手に伝わるメダルの重みが、これまで支払ってきた犠牲を静かにセイジへ思い出させるのだった。
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