オトウト



 自宅マンションから場所を移動し、カオルはセンダイ駅近くの居酒屋に来ていた。

 初めて訪れる店で、ここで話し合おうと決めたのはマモルだった。

 オーダーを取りに来た店員にとりあえず生ビールを頼むカオルとは対照的に、マモルはウーロンチャを注文する。

 車で来ているので飲めないらしかった。


「それで姉ちゃん、最近どうなん? 大学院は楽しいの?」


「いやなに普通に世間話しようとしてんのよ。そんなこと話しに来たわけじゃないでしょうが」


「もちろんあの二人のことは説明するけどさ、今年のゴールデンウィークだって姉ちゃん実家に帰って来なかったろ? 母さんも父さんも心配してたぞ」


「……まあ、研究が忙しくてね。というかあんたはちゃんと実家帰ってるのね」


「まあな。俺は姉ちゃんと違って文系だし、そこまで忙しくないから」


 店員がお通しのナメコの蕎麦の実和えと、注文したドリンクを持ってくる。

 ひとまず乾杯とマモルがノンアルコールドリンクを掲げるので、仕方なくカオルも彼女の髪色と同じ様に輝く麦のアルコールドリンクで応じた。

 カツン、という小気味良い音。

 カオルはゴクゴクとビールを流し込む。

 身体の内側に溜まった膿を洗い流すような爽快な刺激と、脳神経を幸福に麻痺させる苦味にカオルは喉を鳴らした。


「ぷはぁ。うまい。お酒飲んだの新歓ぶりだわ」


「そうなのか? 意外だな。姉ちゃん酒飲むの好きなのに。最近飲んでなかったの?」


「色々やることがいっぱいあって、酒飲んでる暇がなくてさ。というか今もべつに酒飲んでる場合じゃないんだけど」


「まあいいじゃんか。春はすれ違いだったし、正月以来の姉弟の再会なんだからさ。こうやって姉ちゃんとサシで飲む機会あんまないから、結構楽しいぜ」


「相変わらずあんたは調子がいいわね。器用に生きてて羨ましいわよ」


「へぇ? それは意外だな。俺は昔から姉ちゃんに憧れてたよ。なんか自分を持ってるって感じがしてさ」


「そうなの? 本当に?」


「うそ。冗談に決ま——って痛ってぇ!? いきなり蹴るなよ! しかも脛を!」


「うるさい。ビールおかわり」


 ナメコを箸で摘まみながら、カオルはメニューを眺める。

 タコのから揚げとエイヒレが目に入って、それも注文するようにマモルに指さしとアイコンタクトで伝える。


「まったく、だいたいあたしの話はどうでもいいのよ。それでなんであんたはいきなりうちに来たわけ? わけのわかんない子供二人連れて。というか今日平日でしょ? 全休だったの?」


「あー、まあ、講義は出てから来た」


「ふーん、あっそ。で、あの二人は?」


「一人はバイト先の後輩。もう一人は、そうだな、後輩の友達、みたいな感じ」


「なんだ。不純異性交遊をしてるわけじゃないのね」


「は、はは、ははは」


「なによその渇いた笑いは」


 若干挙動不審な様子を見せるマモルに、カオルは違和感を抱く。

 知人と一緒に旅行か何かに出かけて、泊る宿の手配にしくじって自分の家に逃げ込んできたのかとも思ったが、どうやらもっと大きな理由がありそうだと感じた。


「あんた、なに隠してるの?」


「……怒るなよ?」


「怒らないから、言ってみなさい」


「実は——って痛いっ!? だから蹴るなって! それにまだ何も言ってないだろ!?」


「アメフラシは外敵から刺激を与えられると、紫汗腺と呼ばれる器官から反射的に液体を出して反撃するの。それみたいなものよ。あたしの意思じゃないわ」


「まったく意味わからん。やっぱり大学院に行くような奴はまともじゃないな」


 運ばれてきたタコのから揚げを一口食べると、カオルはもう二杯目のビールを一息で三分の一ほど飲んでしまう。

 なんとなく素面でこれ以上マモルの話を聞くのは危険だと本能的に感じていたのだ。


「あの男の方、大塚セイジっていうんだけど、とにかくあいつがそのちょっと問題を起こしてな。その関係で一晩センダイに泊めて欲しいんだ」


「問題? そんなやんちゃするタイプには見えなかったけど、なにやらかしたの?」


「あいつ、実は童貞なんだよ」


「……は?」


 脈絡なく飛びだしてきたドウテイという言葉の響きに、カオルは思考停止する。


「同定? それならあたしもアメフラシ科とウツセミガイ科の同定作業とかで失敗することもあるけど……」


「違う違う。その同定じゃなくて、ヴァージン的な意味の童貞だよ。あいつ、童貞なんだ」


「あ、その童貞ね。へ、へぇ。童貞なんだ」


「そうなんだ。童貞なんだよ」


 なぜ血の繋がった姉弟感で互いに童貞を連呼し合っているのかカオルにはさっぱりわからず混乱してしまう。

 たしかにあれくらいの年齢で童貞なのは珍しいと言えなくもないが、十七歳になればSeIReによって簡単に童貞を卒業することができるようになる。

 そこまで問題とは思えなかった。


「た、たしかにあんたとは違って奥手っぽい感じだけど、それの何が問題なわけ? べつにいいじゃない。褒められることではないけど、だからって責められることでもないし」


「いや、俺たちが許しても、あいつのことは国が許さないんだ」


「国が? それってどういう……ちょっと待って、嘘でしょ? あの子って今何歳なの?」


 しかしカオルもまたすぐに真実に辿り着く。

 どこか悲しそうな表情で顔を伏せるマモルを見れば、自らの予想が正しいことはすぐにわかった。


「昨日で満十八歳。なお現在も童貞です。どうもありがとうございました」


「そ、そんな、ありえない! 冗談でしょっ!?」


「夢ならば、どれほど、よかったでしょう。残念ながら本当だ。あいつは、童貞なんだ」


 男性貞操維持禁止法によって、現代のニッポンで十八を超えて童貞であり続けることは犯罪である。

 それはニッポン国民の間では常識であった。

 それなのに目の前に座る弟は許されざる存在である十八歳の童貞を、自身の姉の家に連れ込んだと口にしていたのだ。

 アル中でもないのに震える手で、カオルはジョッキを再び空にする。

 酒を飲んでいないと発狂してしまいそうだった。


「姉ちゃん、日本酒頼むか?」


「あ、はい。お願いします」


 国に追われるレベルの性犯罪者を自宅に匿ってしまっているという現実に打ちのめされたカオルは、無意識の状態でマモルに言葉を返した。

 試しにエイヒレを食べてみたが、味はまるで感じられず、乾燥させたウミウシみたいな食感がした。


「でも聞いてくれ、姉ちゃん。あいつは、大塚は頭のおかしい性的倒錯者なんかじゃないんだ。あいつの心は誰よりも純粋で、穢れがない。俺たちには足りない、いや、誰もが昔は持ってたかもしれないが、成長するにつれ捨ててしまったもんを、いまだに大事に取っているただ唯一のニッポン人なんだよ」


 店員が気品ある翡翠色の瓶ともっきりをテーブルに運んでくる。

 それは“十三代”という名のミヤギの隣に位置するヤマガタが誇る高級日本酒だった。

 不意打ち気味にとくとくと表面張力限界まで注がれるめったに飲めない銘酒の登場に、トリップしかかっていたカオルの意識が戻ってくる。


「安心してくれ姉ちゃん、今日の飲み代は俺が全部出すから」


「え? あ、そ、そうなんだ。それはありがたいんだけど……」


「わかってる。姉ちゃんが言いたいことは全部わかってる。すごいわかる。わかりまくる。でも一晩だけでいいんだ。明日になったら家を出る。外で泊ったり、ホテルに宿泊するのは危険な状況なんだよ。わかるだろ?」


「そりゃ、十八歳を超えた童貞って言ったら指名手配対象じゃない。その危険っていうのは、SeIReの人に捕まる危険ってことでしょ?」


「その通りだ」


「どうして? あの子のことはよく知らないし、どうしてあえてあの子が童貞になったのかは訊かないけど、なんであの子にそこまでしてあんたが肩入れするの? 下手したらあんたも共犯者になるかもしれないのよ? わかってるの?」


「わかってる。でも俺、決めたんだ。あいつの覚悟を、見届けるって」


「マモル……」


 どこまでも澄んだ瞳で、マモルはじっとカオルを見据えていた。

 カオルの知る彼女の弟は、よくいえば要領良く人付き合いをするタイプで、誰かに深く依存するタイプではなかった。

 悪くいえば情に薄くドライな性格だと思っていた。

 それにも関わらず、自らの人生が台無しになる可能性すら考慮の外に放り投げて、今はたった一人の童貞に手を貸したいと言っている。

 その熱意は彼女の知らない弟の新しい一面だった。


「あんたの気持ちはわかったけど、逃げ切るなんて不可能よ? いつかは絶対捕まる。それも遠くないうちに」


「わかってる。あいつも逃げ切るつもりははなからない。あいつにはとある約束があって、それを果たせればそれでいいんだ」


「そう、ならいいけど。……ってべつになにもよくないか」


「とにかく、一晩だけあいつを匿ってやって欲しいんだ。頼むよ、姉ちゃん」


 あまり表には出さないが、案外プライドの高いところのあるマモルが、今はテーブルに額をつける勢いで頭を下げている。

 慣れないその態度にどう反応すればいいのかわからず、カオルは間違ってビールの感覚で十三代を一気に飲んでしまった。

 上質な日本酒がかっと咽喉内で熱に変化し、思わず咳き込んでしまう。

 すかさず差し出されたマモルのウーロンチャを急いで流し込みながら、なんとか息を整える。


「わかったわかった。わかったわよ。この十三代に免じて、うちに泊ることを許してあげる」


「まじかっ!? ありがとう姉ちゃん! まじで姉ちゃん最高だ! 地球で一番の女だぜ!」


「はいはい、わかったわかった。もうわかったからちゃっちゃと残りのご飯食べちゃいなさい。あたしの家の中で知らない間に強制家宅捜索されても困るし、早く戻るわよ」


 めったに見られないマモルの満面の笑みを見ながら、カオルはやれやれ手間のかかる弟を持つと苦労するわと首を振るが、その顔はどこか嬉し気だった。

 彼女の柔軟で頭の良い弟は昔から一人でなんでも出来てしまうので、姉に頼ったりすることはこれまでなかった。

 その事を頑固で不器用なカオルは少しばかり寂しくずっと思っていたのだ。

 元々講義もないし、どうせ成果の出ない研究に時間を浪費するだけなんだから、明日は大学院さぼってマモルに付いていこう。

 そしてカオルは自分の弟たちがどこに向かっているのかも知らないまま、暢気にそんなことを思うのだった。




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