センダイ
七月二十二日の夜。
ミヤギプリファクチャアセンダイ市のとある国立大学の敷地内で、二人の女子大学生が並んで歩いていた。
「それじゃあね、カオル。おつかれ。また明日」
「うん。おつかれ。また明日」
大学の正門で並んでいた二人の女子大学生はそれぞれ反対方向へと歩いていく。
一方は期待に満ちた明るい顔色で、もう一方は疲れ切った蒼白い表情をしていた。
「また明日、か」
対称的な表情で別れた二人の女子学生のうち、幸薄そうな後者であるカオルと呼ばれた女子学生は俯き気味に学生がちらほらと見える道を歩いて行く。
カオルと同じ様に地下鉄のある方に向かって行く学生たちは誰もかれも今の彼女にとっては輝いてみえた。
彼女は女子学生といっても、正確には女子大学院生である。
理学研究科の博士前期過程一年に所属する彼女にとって、すでに希望に満ち溢れた学生生活は過去のものとなっていた。
「明日も大学かぁ……行きたくないな」
憂鬱な溜め息を夏の夜に溶け込ませ、カオルは十二時間ほど経てばまた自分がこの道を反対方向に向かって歩いているであろうことを頭に思い浮かべ気分を落ち込ませる。
彼女が研究の対象としているのはアメフラシという海に住む軟体動物の一種である。
頭部に二本生えている突起から海のウサギと呼ばれることもあるが、見た目は甲殻のない巨大なカタツムリだ。あまり可愛らしくはない。
このアメフラシは雌雄同体で、生殖活動をする際に一対一ではなく、大量の仲間同士で集まり大乱交を開くものがいる。
そこでは生殖行動をする前にはオスだったのに、一通り生殖活動が終わると知らぬ間にメスになっているという生態を見せるものが多かった。
その生態の詳しいメカニズムはいったいどういうものなのか、そもそもどうしてそのような生殖生態を形成するようになったのかをカオルは研究していた。
しかしアメフラシに関する研究は学部時代から続けていたのだが、ここ最近行き詰まりを見せていてそれがカオルを悩ませていた。
俗にいうアカデミックスランプという奴で、そのせいで彼女は自ら進学を望んだはずの大学院に通うことがストレスになっていたのだ。
「今頃マキコは彼氏の家か。助成金も貰ってたし、同じ院生なのにどうしてこんなに違うんだろ」
先ほど別れたもう一人の女子もカオルと同じ研究室に所属する院生だったが、その境遇は彼女とはまるで違う。
大学二回生の時から付き合っていた同学年の彼氏とは学部を卒業する際に別れたカオルとは違って、彼女の友人であるマキコは、同じ大学院の一つ年上の彼氏といまだに順風満帆に交際を続けている。
さらに研究の方も順調に進んでいて、ついこの間本人曰く、通ったらラッキーくらいのつもり、で申請した研究助成金が見事受理されたという。
心を支えてくれるパートナーもおらず、研究の方向性も五里霧中。
人生に疲れ迷えるカオルは大学から最寄りの駅に辿り着くと、地下鉄に乗り込みぐったりと椅子に腰を下ろした。
「あー、餃子食べたい」
今はセンダイで一人暮らしをしているように、カオルは元々ミヤギの出身ではない。
大学進学の際に、地元を離れ単身やってきたのだ。
故郷のソウルフードである餃子が無性に食べたくなったカオルは、自らの将来について考えてみる。
大学院に進学した春頃はこのままアカデミックの世界に生きて、博士後期課程に進みドクターの学位を取るのもいいと考えていた。
だが実際に大学院生としての生活を進めていくうちに、やはり自分には研究者としての才能はないのではないかと思うようになってきていた。
マスターの学位を取るのが精一杯で、ドクターなど夢のまた夢に感じられた。
もしさらなる進学をしないとしたら、もう来年には就職活動を始めなくてはいけない。
実際にイメージすると怖ろしいほど時間は限られていて、何のスキルもない自分がこの先どうやって生きていくのか不安で仕方なかった。
「あー、なんかどっか、誰もあたしのこと知らないところに行きたい」
耳元まで切り上げられたボーイッシュな金の短髪はもちろん地毛ではない。それはカオル本来の勝ち気で独立心の強い性格を表した染色によるものだ。
だがその獅子のような金髪も今はどこかくすんで見えた。
地下鉄がゆっくりと速度を下げ、カオルが乗ってから何度目かの停車をする。
ついた駅名を確認すればアオバドオリイチバンチョウの文字。
それは彼女の自宅の最寄り駅で、慌ててホームへ出ていく。
帰ったらもう一度論文を読み直さないといけないな、そんな帰宅してからしなくてはならない行動を考えながら、地上へ出る。
トウホク地方最大の都市ということもあって、センダイの街は人で溢れかえっていた。
これから飲みに行くらしき大学生の集団や、すでに一軒目を終えているらしき年齢不詳の男女たちの脇をすり抜け、駅に向かう道とは反対側へ歩いて行く。
久し振りに日本酒を浴びるように飲みたい衝動に駆られるが、理系大学院生らしい理性をもってそれを我慢する。
そんなことをしたら明日の朝からの研究に支障が出るに決まっているからだ。
ただでさえ研究が滞っているのに、これ以上同期に遅れをとるわけにはいかない。
自炊する時間さえ惜しいと思ったカオルは、コンビニエンスストアで弁当を一つと菓子パンを一つ買うと、自宅へと急いだ。
「……っては? この車って……」
しかし自宅マンションの普段自分は使用していない駐車場に、見覚えのある水色のミニバンが止まっているのを見て、カオルの頭が一瞬フリーズする。
その車種は間違いなくかつて実家にあったもので、今はトウキョウの街で乗り回されているはずのものだった。
閑散としたエントランスを抜け、エレベーターを使わず自室のある二階へと駆けあがる。
苛立ちに顔を歪めながら、自分の部屋の前に立つと、案の定出る時は確実に消したはずの電気の光が漏れている。
別れた彼氏に貸していた合鍵はとっくのとうに返して貰っていて、今その合鍵を持っている人物は本来ここにいるはずがなかった。
「……あんたここで何やってんの? マモル?」
「あ、姉ちゃん、おかえり」
扉を開けると、勝手にカオルの家のキッチンを使い、炒め物をしている背の高い青年がカオルを迎える。
中華系の香ばしい匂いを振りまき、手際よく料理をする彼の名は滝マモル。
彼女の実の弟だった。
「見てわかるだろ。夕飯の準備だよ」
「あんたふざけてんの? 殴っていい?」
「相変わらず血の気の多い姉貴だな。そんなんだから彼氏に振られる——うぐぅっ!? 痛ってぇ!? おい本当に殴る奴があるかよ! しかもまあまあ本気じゃねぇか!」
「だって殴っていいか訊いて断らなかったじゃん」
「了承もしてねぇだろ!」
とりあえずムカついたのでカオルは一発殴っておく。
すると溜まっていたストレスが発散され、若干心が落ち着いた。
久々に見る肉親の顔ということで、姉弟仲も元々どちらかといえばいい方ということもあり、アポ無しで突撃したことを除けば弟を自宅に迎えることはそこまで嫌なことではなかった。
「えーと、その、おじゃましてます」
「うーい、じゃましてまーす」
しかし一旦下降気味になったストレス係数が再びそこで上昇する。
見ればキッチンの奥の寝室兼居間に知らない少年と少女がいた。
内気そうな少年の方は居心地悪そうに部屋の隅で正座をしているからまだいいとして、派手なピンクヘアーの少女はわが物顔でカオルのベッドの上で寝そべっているのは頂けない。
「ねえマモル? ダレ、アノコタチ?」
「ま、まあまあ、落ち着けよ姉ちゃん。これにはちょっと深い事情があって——」
「マモルやっぱお前ちょっと外出ろやぁオラぁ!」
「うぎぃっ!? や、やめろっ! 耳引っ張るなって!?」
堪忍袋の緒が切れたカオルはコンビニの袋を玄関先に置くと、むりやりマモルを部屋から引っ張り出す。
どこに一人暮らしをしている姉の部屋へ、明らかに未成年の男女を連れ込む弟がいるのかと説教をするつもりだった。
「大塚、石沢、メシはここにつくっておいたから、これ食ってろ! 姉ちゃんは俺に任せろ! 何とか説得してみせる!」
「おっけー、りょうかいでーす。……それにしてもマモルくんのお姉ちゃんめっちゃイカツイね。頭まっ金金だったよ。超奇抜なんだけどウケる」
「えーと、それ頭ピンク色のセナちゃんが言う?」
そしてマモルと共に通路に出たカオルは部屋の扉を閉めると、ここでは近所迷惑になると考えて、たった今帰宅したばかりのマンションから一旦離れることにしたのだった。
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