モンダイ



 童貞のまま十八になってから二度目の日付を超えた深夜三時頃。

 すっかり皆寝静まってカオルの家でセイジはぼんやりと天井を眺めていた。

 朝になり、夕方まではここカオルの家で待機をし、再び夜になったら移動を開始する予定だった。

 向かう先はセンダイ港。

 マモルの提案により、ホッカイドウへフェリーを使って移動する作戦だ。

 センダイからホッカイドウのトマコマイまでは海路が通じていて、このルートならば比較的SeIReの監視が緩いと考えていた。

 問題としてはフェリーの出港時間までどうやって安全な場所で時間を繋ぐのかというものがあったが、それも偶然にもセンダイに住んでいる姉がマモルにいるということで協力を仰げるはずという話に落ち着いた。

 最初この作戦を聞いたとき、セイジはマモルの姉がはたして簡単に自分たちに力を貸してくれるのかという懸念を抱いたが、事実、合鍵を使って勝手に部屋に潜り込んだ彼らをみた姉のカオルは見るからに立腹の様子だったが、一時間とその半分ほどマモルと共に姿を消し戻ってくると、宿泊の了承を出してくれたのだった。


「……本当にありがとうございます、マモルさん。今僕がこうやって安心して眠れるのも、マモルさんが頑張ってくれたからなんですよね。僕、ちゃんとわかってますよ。この恩は絶対に忘れません」


 ベッドの上でカオルとセナが一緒の布団で眠り、居間でセイジとマモルが雑魚寝のような状態で寝るという形を取っている。

 セイジは囁くような声で隣りで寝ているであろうマモルに感謝の言葉を伝えた。

 ここに来るまで何度助けられてきたかわからない。

 この先無事ホッカイドウに辿り着き、約束を果たすことができようと、できなかろうと、どうにかしてマモルには恩返しをしたいとセイジは強く思った。


「……なんだ、お前まだ起きてたのかよ」


「あれ。マモルさん、寝てなかったんですか。ちゃんと寝てください。マモルさん、疲れてるんですから」


「俺の疲労具合をお前が決めんなっての。というか今ふと目が覚めたんだよ」


 すると予想外にも隣りから、そよ風のような声が返ってくる。

 二人とも仰向けの状態なので、顔を合わせることはないが、静かな夜に二人の意識だけが溶け合うようだった。


「そういえば、目が覚めたら、マモルさんが彼女をつくらない理由、教えてくれるんでしたよね」


「それお前の目が覚めたら、だろ。まあ、今更なんでもいいか。いいぜ、教えてやるよ。でもあんまり楽しい話じゃないぞ?」


「構いません。でもどうしてもマモルさんが話したくないなら、話さなくてもいいですよ」


「……いや、話すよ。そこまでもったいぶっても逆になんか恥ずいしな」


 元々マモルはセイジにとって好ましい人物だったが、どこか他人を深いところまで寄せ付けない雰囲気があった。

 しかし今回共に旅をしていく中で、マモルの心は信じられないほどの寛大さで満ちていて、慈悲と慈愛に包まれた人格をしていると感じた。

 そんなマモルがどうしてアプローチを仕掛けてくる何人もの女性を避け、わざと浅い人付き合いをしようと試みるのかがセイジは気になって仕方ない。

 マモルはもっと多くの人に深く愛されるべき人物だと思っていた。

 そしてもっと深く愛されるためには、彼の方からも人を愛そうとする姿勢を見せる必要があった。


「俺がまだ大学が入学したての頃、なんというか一目惚れした相手がいたんだよ」


「一目惚れ? 僕みたいに運命を感じた相手がいたってことですか? なんか意外です。マモルさんってそういうところもっとリアリストだと思ってました」


「いや一目惚れは言い過ぎだな。運命を感じるとまでは思わなかった。ほら、あるだろ。なんとなくこの子いいなって思って、向こう自分のことをなんとなくいいなって思ってるのが分かる感じ。それだよ」


 なるほど、そういう感じのそれですね、と正直その感覚はまったくわからなかったが、セイジは適当に合わせた相槌をうつ。

 相手に好感を持ち、相手の方も自身に好感を抱いていると相互に感覚的に理解しあうという非言語性コミュニケーションは、生まれつきある程度異性から好かれる才能を持った者にのみ出来るものなのだろう。


「同じ学科の女の子でさ、べつに合わせたわけでもないのに結構講義が被ってて、特別なきっかけがあったわけじゃねぇけど、俺とその子は自然と仲良くなった。一緒にテスト勉強したり、二人でご飯を食べに行くことも何回かあった。たぶん俺、この子と付き合うんだろうなって正直思ったよ」


 付き合うんだろうなと思った。

 その言葉からは、この恋愛が最終的に実らなかった事が暗示されていてセイジは身構える。


「大学に入るまでの俺はさ、なんていうかあんまりよく知らない子からいきなり告白されて、付き合ってから相手のことを知るっていうか、仲を深めていくパターンが多かったんだよ。こんな風に、付き合う前からすげぇ仲良くなって、気が合う女の子ってこれまでいなかったんだ」


 両方の想いの量がぴったりとつり合い、理由がなくとも同じ時間を過ごせる関係性。

 付き合ってるから一緒にいようとか、付き合ってるから一緒にどこかへ行こうとか、という交際ありきの関係性とはまた異なった心地良い感覚。

 それに自分は甘えてしまったとマモルは言葉を続けた。


「同じ学科だったし、俺とその子にも共通の友人がいてさ、そいつらの中でも、俺たちはなんか公認のカップルみたいな扱いを受けてた。二人で話してると男友達にイチャイチャすんなってからかわれたし、他の女友達と喋ってるとまだ付き合ってなかったの、って本気の顔で驚かれたりしたな」


 遠い昔の約束をした富岡ミユリを除けば、セイジには周囲から囃し立てられるほど交友を深めた異性は存在しない。

 そのためセイジにはわからなかった。

 どうしてそこまで順調に関係が深まっていて、最後にマモルは女性を信じられない、彼女をつくらないという状態になってしまったのか、まるで想像がつかなかった。


「大学一回生の夏休み、俺とその子は共通の友人と八人くらいのグループで、シズオカのイズに旅行しに行ったんだ。昼はすげぇ綺麗な海で馬鹿みたいにはしゃいで、天ぷらとところてんをアホほど食べてさ、夜は旅館に泊まった」


 基本的にインドア派のセイジには、友人たちと海に泳ぎに行った経験などもちろんない。

 しかしそれがどこまでも開放的で、愉快なものであろうことは簡単に想像がついた。

 気持ちの通じ合った女の子と同じ時を過ごし、同じ場所で一晩を明かす。

 それはもうほとんど精神的童貞を卒業したのとセイジは同義にみなした。

 むしろ人によっては肉体的童貞まで一緒に捨ててしまうアグレッシブな人さえいるように思えた。

 夏でもホッカイドウの海は寒いのだろうかと、セイジは至極どうでもいいことを考える。


「その夜だった。俺たちは女子部屋と男部屋で二部屋とってたんだけど、皆で女子部屋に集まって、ずっとトランプしたりだべったりして遊んでたんだ。そんで時間も零時を過ぎて、なんとなくぐだり出して、一足先に寝る子とかも出てきた頃、俺、気づいたんだよ。そういえばあの子がいないって」


 回顧は今になってはそこまで自分の心を苦しめることはない。

 マモルは思っていたより痛まない胸に右手を当てながら、同時に股間部に左手を添える。

 そういえばあの子は左利きだったなと懐かしい記憶を思い出したが、べつに嬉しくも興奮することもなかった。


「でもまあもう一回温泉につかりにでも行ったか、飲み物を買いに出ていったんだろうなくらいに思った俺は、特に気にせず男部屋に一回戻ることにしたんだ。理由は大したことじゃない。スマホの充電が切れそうだったから、充電器を取りに行こうと思っただけだよ」


 今思えば、どうしてあのタイミングでスマートフォンの充電が切れたのか、そもそももう後一時間もすればお開きになって、皆寝る支度を始めそうな雰囲気だったのに、なぜ充電するのを朝まで待てなかったのか、わざわざ自分の取りに戻らなくても誰か適当に友人の一人に頼んで借りれればよかったのではないかなどと、様々な後悔がマモルに湧いて出てくる。

 だがもしあの場面を見ないで済んだとして、彼女の事を信じたままいられたとして、それは果たしていいことだったのだろうかともマモルは考えると、再び回想はダークブルーの思考の海の底へ沈んでいくのだった。


「それで男子部屋に戻るとさ、そこにはあの子がいたんだ。はだけた服から右胸を乳首まで剥き出しにして、下半身はズボンを脱いで陰毛丸出しにして、男友達の一人と裸で抱き合ってたんだ」


 突如告げられた衝撃的な台詞、思わずセイジはそんな、と引き攣った声を漏らすが、それにはマモルは何も反応示さない。

 憤りも哀切もない、平坦な声色で、単なる事実の羅列として過去を言葉に変えていくだけだった。


「仰向けにカエルみたいな格好で大きく身体を開いて、股を友達に執拗に打ちつけられる彼女と俺はその時たしかに目が合ったんだ。でも俺は何も言わなかったし、彼女も小さく喘ぎ声をあげるだけだった。俺はとっくのとうに童貞を捨ててたし、彼女の裸を想像して抜いたこともぶっちゃけあった。でもあの時の俺は、本当に何も感じなかった。わりと本気で好きになりかけてた子の揺れる生の胸を見ても、押し殺すような艶っぽい嬌声を耳にしても、まるで俺のチンポコは反応を示さなかったのさ」


 その後俺は充電器も取らずにそのまま男子部屋を去り、朝になるまで宿の外で一人過ごしたと、マモルは言った。

 あまりに非情で残酷な話の顛末だった。

 どんな陳腐で悪趣味なラブストーリーでもこんなバッドエンドは描かない。

 そこには結末までの理路整然としたプロセスがどこにも見当たらない。

 伏線もどこにもない、唐突過ぎる最悪の結末だ。

 セイジはどうして互いに思い合っていたはずの二人がこんな終わりを迎えてしまったのか、全くわからなかった。


「それでも変に聞こえるかもしれないけど、俺とその子はいつも通り、何もなかったかのように、全部ただの悪夢だったみたいに、普通に接したままトウキョウに皆と一緒に帰ってった。だけどその後、完全に俺たちの関係は変わった。……いや、俺たちってのは正確じゃねぇな。俺が、変わったんだ。一緒に旅行にいったグループからは距離を置いて、その子とも全く話さなくなった。もう、前と同じように振る舞うのはむりだったんだ。まあそりゃそうだろ。だってあの日の事は、気になってた子が友達とヤッてたってのは夢でもなんでもなくて、現実の出来事なんだからよ」


 もしあの夜の出来事がなければ、今頃自分はあの子と付き合っていたのだろうか。

 ごくたまに今でもマモルはそんなことを想像してみることがある。

 だが不思議と仲睦まじくその子と自分が手を繋ぐ光景はイメージできず、彼女のチェリーピンクの乳首を自分が舐め回し、彼女のスレンダーな胴体が自らの腰の上でうねる想像もすることができなかった。

 きっとどうせ上手くはいかなかった。

 運命というものは、決していいものとは限らない。

 不幸にしか至らない運命もあるのだ。マモルにはそう思えてしまう。


「あの子と話さなくなってから数週間経って、連絡が来たよ。あのイズの夜のことは、誤解だって。自分はあの友達の事は嫌いじゃないけど、一番好きなのは今もあの時もずっと俺だったって。あの夜どうしてあんなことをしたのかは自分でもわからないってさ」


「……それになんて、返したんですか?」


「返信はしなかったよ。もうどうでもよかったんだ。全部。なにもかも。元々べつに俺たちは付き合ってたわけじゃない。俺のことが好きだったけど、彼女は他の男に抱かれた。それもべつにたぶん珍しいことじゃねぇ。俺だって童貞を捨てた時、べつにその相手の事が心の底から好きだったわけじゃなかったしな。セイジ、お前は言ったよな? コイビト以外には絶対に童貞を渡さないって。……でもな、その決意を、その覚悟を口だけじゃなく、本当に守れる奴は、お前が思っている以上にこの国には少ないんだよ。そういう時代だ」


 セイジの中では好きな相手がいるのなら、せめてその相手にフラれるまでは他の人と性行為はするべきではないという考えがあった。

 しかしどうやらその考えは根本的に他者と異なるものらしかった。

 すぐ傍に、言葉にはせずとも両想いだとわかり合っている相手がいるのに、それでも簡単に他の相手に身体を許してしまう。

 それはセイジからすれば想像もしたことのない可能性だったが、実際にそれを経験した人物が横でセイジと同じ天井を眺めていたのだ。


「男と女なんて、ヤレそうな雰囲気になれば、すぐにヤっちまう。好きとかそんなの関係ないんだ。人は同時に何人もの相手を性の対象としてみれるようにできてる」


「もしそうだとしたら、少しだけ、寂しいですね。でも、生物の生存本能的にはそっちの方が自然な気もします。やっぱり僕が異質な、不良品なんですかね」


「自然とか、不自然とかは考えなくていいさ。あくまで俺はお前にきかれたから、自分の経験を話しただけだ。お前はお前の道を行け。もうここまで来たんだ。迷う必要はねぇ。たとえ世界がお前を異質物だとみなしても、この先で待つ約束の子がお前を裏切っていたとしても、お前はそれでいいって笑えるんだろ? お前のした覚悟は、そういう覚悟のはずだ」


「……はい。そうですね。ありがとうございます。話してくれて嬉しかったです。だけど、本当にもう彼女はつくらないんですか? もう一度、もう一度だけ信じてみようとは思いませんか? 僕、マモルさんには絶対相応しい人がいると思います。つらい過去があったことはこれでわかりましたけど、それでもやっぱりマモルさんは人に愛されるべきだと思うんです」


「ふっ、さんきゅな大塚。でも、まだダメだな。もうこれも昔話だ。たしかに女性不審なところあるけど、そろそろ俺も前に進むべきかもしれん。……だけどな、まだダメなんだ。俺の方が、誰かと付き合うに相応しくない」


「そんなことありませんよ。マモルさんは最高に優しくてカッコイイです。相応しくないなんてことはありえないって僕が保証します」


「違うんだ大塚。そうじゃない。心の問題じゃないんだよ。いや、もしかしたら俺でも自覚できてないけど、心に原因があるのかもしれねぇけどよ」


「え? それはどういう……?」


 心以外に問題があるとマモルは言う。

 その意味がよく掴めず、セイジは疑問の声を上げた。

 そして寂しそうに、まるで他人事のように次に口に出されたマモルの抱える“問題”を知り、セイジは言葉を失うのだった。


「……インポ、なんだよ、俺さ。あの子が友達とヤッてるのを見てから、あの子の裸を見てから何を見ても、ナニをしても勃たなくなっちまったんだ」


 インポ。

 それはEDとも呼ばれる陰茎の性機能障害の略称だった。

 一般的に加齢に伴い老年層に近い男性が発現しやすいものであり、マモルのように二十歳の通常な性欲旺盛な時期の青年がなるものではない。


「インポ、なんですか?」


「ああ、俺はインポだ」


 俺はインポだと、静かにマモルは繰り返す。

 そこには冗談を言う剽軽な音色はなく、哀愁漂うバラードの響きが漂うばかりだった。


「だから実際のところ、女性不審とか、彼女をつくるつもりがないとかカッコつけて言ってるけど、本当はただインポなだけ。インポだから、彼女をつくりたくてもつくれないんだけってわけよ。だって恥ずかしいだろ? 付き合ってる彼氏がインポだなんてさ。俺の彼女になる人には、そんな恥ずかしい思いをさせたくねぇんだ」


 それはどこまでも優しく、やるせないマモルの本音の吐露であった。

 自分だったら彼氏がインポでも気にしないと強くセイジは強く訴えたかったが、それはマモルへの何の慰めにもならないと自重し、実際に言葉にはしない。

 彼にできるのは、早くマモルのインポが治るように願うことだけだった。


「……んじゃ、俺はそろそろ寝るわ。おやすみ」


「……はい、おやすみなさい、マモルさん」


 今度こそ、セイジは瞼を閉じて眠りにつく。

 意識が夜の闇に落ちて消えるその寸前まで、切に願い続ける。

 マモルのインポが治ることを、そしてセイジの最も尊敬する知人である滝マモルのこれからの人生に輝かしい幸運が訪れることを、チンポコの神に祈り続けたのだった。




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