ユウメイジン



 七月二十三日の午後一時過ぎ。

 センダイで一人暮らしをするカオルの自宅で、大塚セイジはそうめんを啜っていた。

 32型の薄型テレビには民放のニュースが流れていて、そこではちょうどニッポンの主要高速道路で検問が行われている様子が中継されている。

 レポーターは現場に立つ繁殖省の職員たちにインタビューを試みるが、それは全て上手く交わされてしまう。

 スタジオのリポーターや評論家たちはその中継映像を見て、どうやらSeIReのその動きが男性貞操維持禁止法を採決当時の黎明期に非常に酷似しているとして、数年振りにニッポンに“童貞”が出現したのではないかと議論をしていた。


「……大塚セイジ、これ完全にあんたのことでしょ? 凄いじゃない。有名人よ有名人」


「やめてくださいよカオルさん。指名手配犯なのは間違いないですけど、一応非公式なんで。有名人じゃないです」


 セイジの横に腰を下ろして、カオルもそうめんを昆布つゆにつけてしゅるしゅると頬張る。

 フレンドリーな性格というわけでもないが、人見知りをするタイプでもないのですでにセイジたちが自室にいるという事には順応している。

 服は寝間着のままで、まるで大学院に行く気配はなさそうだった。


「というか今日、本当に姉ちゃんもついてくるつもりか? 姉ちゃんの分のチケット買ってないぞ?」


「だってまさかフェリーに乗ってホッカイドウに行くつもりだっただなんて思わないじゃない。なんかこの辺りに用事があったのかと思ったのよ」


 ホッカイドウのトマコマイ行きのフェリーがセンダイ港を出るのは数時間後の夜だった。

 そして港までは見送りにカオルも付いて行くことになっている。


「いいじゃん。カオルちゃんもチケット買えば? お金ないならうちが出してあげよっか?」


「お金とかの問題じゃないから。さすがに直接知り合いでもないただの童貞のためにホッカイドウまでは行く気にならないわ。保護者役はマモルだけで十分よ」


「そうなんだー、残念」


「というかあんたこそ何でこの童貞に付いて行くわけ? 聞いた限りだとナスぽーとで偶然会っただけなんでしょ?」


「だって面白いじゃん」


「は? 面白い? ごめんなにが?」


「やめとけよ姉ちゃん。ジェネレーションギャップだ。俺たちにはこいつが何を考えているのかなんてわかんねぇよ」


「そうそう。オバサンにはわかんないよ」


「なんかムカつくわねこの子」


 相変わらずカオルのベッドの上でごろごろとするセナから、一緒にホッカイドウに来るよう誘われると内心胸が揺れ動くが、さすがに行くとは言えなかった。

 一日くらいは気分転換で大学院に行くのを休んでも構わないが、ホッカイドウに行くとなると帰って来るのに必要な時間を考えると日を潰し過ぎてしまう。

 マモルにとっては明日と明後日は幸い休日なので単位的な心配は要らなかったが、大学院生の研究には平日や休日という概念は存在していなかったのだ。


「それで大塚、トマコマイについた後はどうするんだ? 車はもうないが、目的の場所は近いのか?」


「サッポロの方面なんで、トマコマイついたらタクシー使って行こうと思います」


「タクシーか? 結構金かかるんじゃねぇか?」


「トマコマイからサッポロだったら車でだいたい一時間くらいだと思うので、一万円と数千円くらいで行けると思います。払えない額じゃないんで、たぶん大丈夫ですよ」


「お前本当、約束を守るためには金惜しまないな……」


「というかあんたホッカイドウにやけに詳しいわね。あたしとか行ったことすらないけど」


「うちもなーい。だからちょっと楽しみだなぁ」


「僕はもう十回くらいはホッカイドウに行ったことあるので」


「いや行き過ぎでしょ。あんたやっぱり変態だな」


 すでにホッカイドウの主要な街に関する地理的情報は、セイジの頭の中にインプットされている。

 ホンシュウとは異なる独特のスケールの大きい距離感がホッカイドウにはあるが、そんなものはもはやセイジの障害になりはしない。

 富岡ミユリがいるとされるサッポロはトマコマイの港から車で一時間ほどかかってしまうが、セイジ基準ではそこまで遠くはない。

 ホッカイドウ最大の都市ということで富岡ミユリがサッポロの街にいる可能性が高いということはセイジも予想していたものの、人口密度の関係や一軒家ではなくマンション、アパートメントの割合の高さのせいでしらみつぶしで富岡ミユリの自宅を見つけ出すのが困難な区域だったのだ。

 しかし今回は手元に住所を示すメッセージを高校の親友であるナオトから受け取っているため、これまでのように路頭に迷うこともなく、表式のない家を見つけてはここは富岡ミユリさんの自宅ですかと尋ねて回るあまりに非効率的な方法を取る必要もなかった。


「まあ、一番の心配はフェリーにSeIReの奴らも一緒に乗り込んでくることだな。そうなったら終わりだ。大型客船っていっても、半日逃げ回れるほど広くはない。まず間違いなく捕まっちまう」


「フェリーに乗るまでに絶対見つかってはいけないということですね」


「ああ、そうだ。だから今日もフェリーが出港するぎりぎりにあえてセンダイ港に到着するように車を走らせるつもりだ。最悪の場合に備えてな」


「もしSeIReに見つかっても、逃げ切れるように? でもその場合、トマコマイの方で待ち伏せされちゃうんじゃない?」


「言ったろ姉ちゃん。これは最悪の場合だって。もしそうなったらフェリーの上で何か別の方法を考えるしかねぇだろ。というかあんまり使いたくない手だけど、俺に案がないこともない」


「へぇ? そうなの?」


「ああ、だからその準備のために、ちょっと今から買い物に行ってくるわ」


「なんかその最悪の場合を凌ぐために必要なものがあるの?」


「まあそういうことだな。ていうか実はこの作戦、姉ちゃんと会って思いついたんだ」


「あたしと会って思いついた?」


 いざという時の最終手段をすでに腹案として持っていると話すマモルはニヤリと笑ってみせる。

 その発案が自分をきっかけにしていると知ったカオルは意味もなく恥ずかしい気持ちになって、眉にかかる金髪の前髪を弄り回しながらもじもじした。


「なに照れてんだよ姉ちゃん。意味わかんねーな」


「て、照れてねぇし!」


「にゃはは、カオルちゃんも可愛いねぇ。昨日の寝顔もまじキュートだったし」


「あんたもあんたでうるさいな!」


「カオルさん、僕もカオルさんってめちゃくちゃ魅力的だと思い——」


「黙れ童貞。あんたにだけはからかわれたくない」


「えぇ!? なんか僕にだけカオルさん当たり強くないですか!?」


 これまでの学生時代や今の院生としての生活でも、周囲から若干近寄りがたい存在として扱われてきたカオルは、そんな自分を容赦なくいじってくるマモルたちに調子を狂わせられやすかった。

 特に指名手配中の童貞であるセイジに対しては他の二人に比べて苛立ちを覚えやすかった。

 それはセイジの顔がなんとなく自らの研究対象であるアメフラシに似ていて、スランプ中の修士論文の事を思い出すことが主な原因だった。


「じゃあ俺はちょっと買い物に行ってくるわ。なんかついでに欲しいものあるか?」


「ならあたしはプリンアラモードと杏仁豆腐」


「うちはアタリメで」


「僕は普通のコークか、それがなかったらペプシコのマンドリル味で」


「各々個性出過ぎだろ。つかペプシコのマンドリル味ってなんだよ。普通のコークがなかったらそれも絶対ねぇだろ」


 買い出しついでに欲しいものを訊いてみると、多種多様な返答が戻って来てマモルは眉を顰める。

 特にセイジに関してはこれが童貞になる男かと、悪い意味で感心すらしてしまうのだった。




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