サクセン



 センダイの街が茜色に染まり始めた頃、港へと続くそれなりの交通量のある一般道を進む水色のミニバンの助手席で暮れていく世界をセイジはぼんやりと眺めていた。

 ゆっくりとではあるが、確実にホッカイドウには近づいている。

 マモルだけでなく、ナスぽーとで偶然出会ったセナ、マモルの実姉であり自宅にフェリーに乗るまでの間匿ってくれたカオル。

 この四人のうち、一人でも欠けていれば、今頃自分はもうSeIReの手に落ち、見るも無残に貞操を奪われてしまっていたかもしれない。

 そう考えるとこの四人で同じ車に乗って、ぬるりの気だるげな歌を聞くのは、かけがえのない奇跡に似た時間なのかもしれないとセイジはふと思った。


「大塚、お前にはさ、結構迷惑をかけられたが、後悔はしてねぇからな。それだけは忘れんなよ」


「え? 急にどうしたんですかマモルさん?」


 運転席に座るマモルが、どこか遠くを見るような表情を浮かべながらふいにセイジに声をかける。

 マモルに対してこれまでセイジが迷惑ばかりかけてきたことは重々承知だ。

 もちろんこの借りは必ず返すつもりだった。

 だが後悔はしていないというマモルの言葉は、たしかにセイジの救いとなり、彼の背にのしかかっていた申し訳なさの十字架を少し軽くした。


「姉ちゃんとも久し振り一緒に飲めて、本当によかった。それだけでもわざわざセンダイまで来た甲斐があった」


「なによマモル。柄にもなくオセンチなこと言っちゃって。飲む機会なんてこれから先もいくらでもあるでしょ。姉弟なんだから」


 エモーショナルなサンセットに心をかき乱されているのだろうか。

 まるで今生の別れのような雰囲気でマモルが喋りかけてくることに、カオルは胸騒ぎを覚えた。

 前触れなくハンドルを急旋回させ、交差点を右折する。

 そのマモルの運転によって、車がセンダイ港へ向かう道とは少し逸れたことに唯一気づいたカオルは嫌な予感に背後を振り返った。


「石沢も、大塚のことをよろしくな。こいつはお前も知ってる通り筋金入りの馬鹿だ。俺たち頭の良い大人が目をかけていてやらないとどうにもならねぇ。お前は大塚より年下だけど、精神年齢は上だ。頼んだぞ」


「……そっか。そういうことね。うん、わかったよ、マモルくん。あとは任せて」


「あ、あの何があとは任せてなの? まるでその言い方だと、ここから先、マモルさんは一緒に来てくれないみたいな……そんなことないですよね? マモルさん?」


「もちろん俺もホッカイドウには行きたかったさ。お前の覚悟の選択の行く末を見届けてぇよ」


「じゃあ、見届けてくださいよ。一緒に行きましょうよ、ホッカイドウに」


 マモルの唐突な語りが不穏な気配を漂わせていることに遅れて気づいたセイジは、懇願するような声をあげる。

 だがマモルは何も答えない。

 何度かバックミラーを見ては、今度は左折に車を揺らすだけだった。


「セイジ。しばらく後ろを見てみて」


 運転に集中しているのか言葉を返さなくなったマモルに代わり、セナが背後に注視するよう促す。

 軽く頭を乗り出すようにして後方に目をやると、真っ黒のセダンが一定の距離を開けてずっとついてきているのがわかった。


「来たんだよ、SeIReが」


 意図的にそうしているのか、冷たさすら孕んだ突き放すような声でセナが告げる。

 マモルが想定していた最悪の場合というものが現実になってしまったということを。


「待ち伏せ、ですか? 僕たちの動きが読まれてたってことなんですか?」


「完全に読まれてたってわけじゃないみたいだな。何度か道を遠回りして確認してみてたが、他の車が援軍に来る気配はない。俺たちを追ってるのはあの黒のセダン一台だけだろう。偶然ここら辺を捜索していた奴らに見つかったんじゃねぇかな」


 あえて交通量の少ない裏道を選んで車を走らせてみるが、やはり黒のセダンはぴったりと追尾してきて、もはやそれがSeIReの派遣した追っ手であることは疑いようがなかった。


「それでマモル、これからどうすんのよ? フェリーの出港ぎりぎりに駆け込むって言ってたけど、本当にそれで大丈夫? この感じだと車を駐車した瞬間、すぐに追いつかれちゃうんじゃない?」


「っぽいな。警戒はしてたんだけど、こんなに簡単に捕まっちまうとは思わなかった。もう一つ策を練る必要がある」


「……でもその策、もうマモルくんは思いついてるんでしょ?」


「え? そうなんですか? さすがマモルさんだ!」


「おい、マモル。あんたその策ってのまさか……」


 セナは見透かしたようにマモルの肩に声をかける。

 すでにこの窮地を乗り切るアイデアを思いついていることが示唆され、無邪気にセイジは喜ぶが、カオルはそうは受け取らなかった。

 先ほどのマモルらしくない妙に湿っぽい台詞。

 それはおそらく避けられない自己犠牲の運命を受け入れたゆえのものだったのだと、血の繋がった姉弟であるカオルにはわかってしまっていた。


「……作戦は簡単だ。俺がSeIReの奴らを足止めするから、その間に大塚、お前はフェリーに乗り込め。出港までの時間は俺が稼いでやる」


「え? な、なんですか、それ。マモルさんらしくない。全然スマートじゃないですよそんなの」


「もうカッコつけてる場合じゃねぇ。どんなにブサイクな方法だとしても、他に方法はねぇんだ」


 自分が犠牲になり、時間を稼ぐ。

 マモルが提案した作戦はどこまでもシンプルで、容赦なく残酷なものだった。

 トウキョウシティからセンダイ港まで、ずっと一緒に旅を続けてきた最大の恩人であるマモルが、ここで罪を被り倒れる。

 それはセイジが決して望んでいない犠牲である。


「だめですよマモルさん! そんなことしたらマモルさんが捕まっちゃうじゃないですか! マモルさんは何も悪いことしてないのに! なら僕が時間を稼ぎます! ナスぽーとの時みたいに、SeIReの奴らを撒いて、必ずフェリーに乗ってみせます!」


「適当なこと言うなよ大塚! 人が沢山いて、道も複雑だったナスぽーとの時とは状況が全く違うんだ! 車から降りたらフェリー乗り場までほぼ一直線! 撒けるわけねぇだろ! お前の童貞が奪われて絶頂して終わりだ!」


 凄まじい剣幕で吠えるマモルに、セイジは唇をふがいなさに噛み締めることしかできない。

 そこにあったのはどこまでも献身的で強固な覚悟だった。

 何も思いつきで語っているわけではない。

 それこそ夜が明ける前からずっと考え続けた結果、他に術はないと結論づけられた苦肉の策なのだ。


「俺だってお前と本当はホッカイドウに行きたかった。でも、世の中、そう上手くはいかねぇ。なにかを手に入れるためには、なにかを捨てなくちゃいけない時だってある。どんなことがあっても、国を敵に回しても約束を果たすって決めたんだろ? なら優先順位を間違えるな。お前は俺と旅行するためにホッカイドウに行くんじゃねぇ。約束を果たすためにホッカイドウに行くんだ」


「マモルさん……」


 目頭に熱いものがこみ上げるのが分かると、セイジは爪が喰い込み血が滲むほど強く拳を握りしめる。

 本当はマモルだって、セイジと共にホッカイドウへ行きたいのだ。

 しかしその夢はもう叶わない。

 そのことを誰よりも悲しんでいるのは他の誰でもない、マモル自身だった。

 そのマモルが覚悟を決めているのに、自分が覚悟できずにどうする。

 セイジは大きく進級をすると、運転席のマモルの横顔から視線を外して赤橙の空を真っ直ぐと見つめた。


「……わかりました。マモルさん、僕たちが乗り込んだフェリーが出港するまでの時間稼ぎをお願いします」


「ああ、それでいい。お前は前だけ見てればいいんだ。そんなお前だから、俺はここまで付いて来ようと思ったんだからな」


 セイジの心の整理がついたことを確認すると、ふっとマモルは表情を緩めた。

 たった一人の男の童貞を守るためにここまで協力を惜しまない自分自身が滑稽なような、誇らしいような不思議な感覚だった。


「姉ちゃん、チケットは三枚ある。俺の代わりにフェリーに乗って、大塚と一緒にホッカイドウに行ってやってくれねぇか?」


「いやよ面倒くさい……と言いたいところだけど、めったに見れない弟の漢気に免じて、今回だけはあんたの頼みをきいてあげる。任せな。この手のかかる童貞の面倒はあたしが見てやろうじゃない」


「さんきゅ、姉ちゃん。愛してるぜ」


 いつもどこか半分程度の力で、省エネルギーで要領よくのらりくらりと人生をやり過ごしてきた弟が、ここまで何かに本気になり、泥臭い役目を引き受けようとする姿はカオルにとって初めてみるものだった。

 しばらく会わない間に変わったのか、それとも助手席に座るなで肩の少年が変えたのか。

 それはきっと後者が正解なのだろう。

 カオルはもう少しだけ、元々カッコよかった自慢の弟をさらにカッコよくしてくれた、時代と国家に逆らう少年の旅路についていきたいと思うようになっていた。


「そろそろ着くぞ、三人とも準備をしてくれ」


 信号機が黄色に点灯をしている中、急加速をしてむりやり交差点をマモルは横断する。

 突然のペースチェンジに後方のセダンはついてこれなかったのか、かなりの距離を稼ぐことができた。

 それでもまるで安心はできない。

 この程度の小手先の時間稼ぎでは足りない。

 ついに見えてきた海辺に寄せられている大きな船舶。

 もうすでに出港時間間近ということもあり、今更フェリーの乗り込もうとする客は一人も見当たらなかった。


「よし、ここで降りてくれ」


 そしてついに道路の脇に車を止めて、マモルはシートベルトを急いで外した。

 合わせるようにしてセイジたち三人は車から飛び降り、急いで荷物をまとめる。

 道の先に視線を送れば、先ほど置いてけぼりにしたはずの黒いセダンが猛スピードでこちらへ迫って来ているのが見て取れる。

 一旦完全に視界から消えたはずなのにこの短時間で追いついてきたということから、やはり港を目的地として動いていたことは読まれていたようだ。


「それじゃあね、マモルくん。ばいばい。今のマモルくん、結構カッコいいよ。うちもちょっとキュンときた」


「悪いが惚れんなよ。未成年は対象外だ」


 つれないなぁ、とセナは寂しそうに笑うとマモルに向かってサムズアップを送った。

 セイジやカオルとは違って直接的な関わり合いはほとんどないと言っていいが、それでもマモルにとってセナは大切な仲間の一人だった。


「あんたになんかあっても、母さんと父さんにはあたしの方から説明しておくから。派手に散ってきな、マモル」


「ああ、夏に相応しい特大の花火を打ち上げてやるよ。姉ちゃんもせっかくの船旅だ。楽しめよ」


 うん、そうさせてもらうわよ、とカオルは自分より頭一つ分背の高い弟の頭をくしゃくしゃっと撫でまわす。

 あれこれ文句を言いつつ、いつも自分を助けてくれる姉にマモルは感謝してもしきれない。


「マモルさん、行ってきます」


「おう、行って来い、大塚セイジ」


 セイジは一言行ってくるとだけ告げ、踵を返してしまう。

 あまりに短い問答だが、それだけで十分だった。

 セイジが前だけを向いて進んでいくことを望んだのは何よりマモルであり、そんなセイジにマモルは心のどこかで憧れを抱いていたのだから。

 そしてセイジが走り出すのと同時に、セナとカオルもあと数分で出港というホッカイドウ行きのフェリーまで駆けていく。

 それを一人静かに見送るマモルは、自分も一緒にセイジの後ろを追いかけたい衝動に襲われる。


 ——キイィィッ、と鳴り響く甲高い摩擦音。


 一瞬夢想した望みが叶わないことを告げる音を耳にしたマモルは、一歩前に踏み出しかけた足を引き戻し、ゆっくりと後ろを振り返った。

 すぐ傍の道脇に停められた黒光沢のセダン。

 車内からは見覚えのある二人組の貞操管理者が降りてきて、品定めをするかのようにマモルの全身を眺めている。

 マモルは紺のシャツの第二ボタンを外すと、両腕を大きく広げる。

 沈みゆく夕日の光を一身に受けるその姿は、どこか神話の熾天使にも思えるほど高貴で美しいものだった。




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