チカン



 七月二十一日、早朝。

 記念すべき十八の誕生日を自宅の最寄り駅から二つほど離れたアキハバラのネットカフェで一人寂しく迎えた大塚セイジは、雑多な人混みに紛れながら一見普段と変わらないように見える街並みを眺めていた。

 近くのコンビニエンスストアに寄り、朝刊の中に童貞を維持したまま行方をくらました指名手配犯について何か書いてあるかと思ったが、そんなことはなかった。

 どこか安心したような寂しいような複雑な思いを抱きながら、早速セイジはハネダ空港を目指すことにした。

 予約で手に入れたチケットに記載された出航時刻まではだいぶ余裕があったが、あまり生活圏内をうろうろしても危険な気がしたのだ。


 注意深く周囲を窺いつつ、アキハバラ駅の構内へと入っていく。

 電子マネーの残額はまだ余裕がありそうだった。

 SeIReに所属する貞操管理者の姿を外で見ることはそれほど多くないが、一度見たら忘れないような特徴的な外見をしているので視界に入れば簡単にわかるはずだった。

 貞操管理者の服装自体は黒のタイトスカートにグレイのブラウスという一見地味なものではあるが、顔の上部だけを隠した特製の仮面マスクをつけているのは彼女たち以外に、このニッポン国内では思い浮かばない。

 今のところ、通勤に足を早めるスーツ姿の社会人の中にそのような奇特な装飾をした者はおらず、セイジを一瞥する者すら一人もいなかった。

 自動販売機に交通系ICカードを接触させ、ペットボトルの水を購入する。

 まだ気温の上がり切っていない時間帯にも関わらず、辺りはサウナのように蒸し暑い。

 電光掲示板にオオフナ行きの文字が見え、セイジはまだ蓋も開けていないペットボトルをリュックサックの横にしまい、階段を小走りで登っていく。

 ハネダ空港に行くためにはまずモノレールに乗り換えをする必要があったので、ミナト区のハママツチョウに一度行かなければいけなかったのだ。


 セイジがホームに辿り着いてから数秒後、ハママツチョウ駅に途中で停車する青のラインが刻まれた電車がやってくる。

 常に急かされている交通機関はプシュウという溜め息と共に、中に詰め込まれた皆一様に疲れた顔をした人々を吐き出す。

 背中のリュックサックを腹の側に回すと、セイジは吸い込まれるように車両の中に詰め込まれていった。

 容赦のない見知らぬ中年男性のショルダータックルを食らい、セイジは奥の扉の方まで押しやられてしまった。

 暑い。痛い。臭い。

 考えられる限りの不快感にセイジは発狂しそうになるが、それも富岡ミユリとの約束を果たすためだと思えば我慢することができた。

 十八歳の誕生日というニッポン政府が定めたデッドラインは過ぎてしまったが、親友ナオトの助けもあってとうとう住所まで特定することができたのだ。

 そう考えれば目の前の小太りの男の鼻息なのか吐息なのかよくわからないものが車両内の冷房を打ち消す勢いで顔面にかかってくることも気にならない、は言い過ぎだかぎりぎり耐えることができた。


『次はカンダ、カンダ……』


 ウッドピュッカーとボッキーマウスを足して二で割ったような声で、車内アナウンスが次の停車駅の名を繰り返している。

 これでハママツチョウまであと二駅。

 すでに眼前のラードの元になりそうな中年男性からのブレスアタックによって、嗅覚を失ったセイジは口呼吸に頼っているので喉が渇き始めていた。

 ただ幸いなことにカンダ駅で車内のポジション取りに大きな変化が生まれ、中年男性はどこかに消え去りやっと通常の冷気に身体が当たるようになった。

 口を閉じ、鈍くなった鼻腔で感じる空気は大都会の密室とは思えないほど透き通ったものだった。

 相変わらず乗車率は100パーセントを余裕で超えているように思えるが、今度は対面の相手が二十代半ばほどに見える若い女性に変わったのでだいぶ楽になった。


「……っ!?」


 だがここでセイジはこれまで小太りの中年男性から受けていた物理的攻撃とはまた違った、危険な精神攻撃を受けていることに気づいてしまう。

 目の前の女性のあまりに無防備な首から下の部分。

 そこにあったのは推定Eカップとみられる豊満なバスト。

 大胆に胸元の開けられたカットソーからは、当然のように妖艶な曲線美が覗く。

 薄らと汗ばんだ胸は、まさに朝露の渓谷のようで、一度迷い込んだら二度と出てこられないような妖しい雰囲気を醸し出している。

 ゴクリ、とセイジは生唾を飲み込み、超至近距離に見える青少年の心をかき乱すには十分過ぎる谷間から目を逸らすと、セイジは不用意にもその女性と目を合わせてしまう。

 合致する視線。

 女性は口角を軽く上げ、媚惑的な微笑みを見せる。

 瞬間揺らぐ童貞の心。

 下半身の休火山でマグマが沸々と沸き立ち始めるのが分かる。


 これはいけない。

 とてもいけないことだ。


 どうすればいいのかわからず曖昧に会釈に似た何かを返すと、セイジは慌てて視線を外す。

 ブルンッ! 

 しかしその瞬間、目の前のたわわな果実が収穫間近を主張するように大きく震えた。

 初めは幻覚かとセイジは混乱したが、それはれっきとした現実。

 ブルンッ! ブルンッ!

 圧倒的な質量が電車の揺れとは無関係に跳ね飛び、跳ねるたびに距離を縮め、とうとう鼻先に触れるか触れないかの状態になった。


 ——ムニュ。


 そして戸惑う間もなく禁断の邂逅は訪れる。

 セイジのアルプスの雪氷より固い決意を溶かすほどに熱を帯びた巨胸が、顔面に押し付けられスライムのように自在に形を変える。

 全身が多幸感に支配され、思考はスパーク。

 童貞のストッパーはいとも簡単に外れ、股間部に峻丘がイキり勃つ。

 さらに追撃の手は緩むことなく、すかさずその都心で建てられた小さなテントの骨組みをセイジはがっちりと掴まれてしまった。

 これはいったいどういうことなんだろう。

 美人局か。

 はたまた突然のモテ期によって激し目の逆ナンに合っているのか。

 数分前とは全く違う理由で呼吸困難になっているセイジは、酸素の足りない頭で必死に信じがたい現実への理由づけを行おうとするが中々上手くいかない。

 ただその超現実は、耳元で囁かれた言葉によって種が明かされるのだった。


「……見ぃつけた。あなたが“大塚セイジ”、問題の童貞クンね」


 答え合わせをするように告げられた決定的な一言。

 ヤられた。

 完全に油断していた。

 セイジは服越しから擦られる自前の火起こし棒が発炎しないよう精神を研ぎ澄ましながら、この状況からどう抜け出すかを考える。


「次の駅で降りましょう? お姉さんの仲間がそこであなたを待ってるわ。今この国では童貞は犯罪なの」


 それは間違いなくSeIReだった。

 ついにセイジにもSeIReが来たのだ。

 セイジは知らないことだったが、SeIReが|童貞狩り《シゴト)を行う際は何も真正面から制服姿の貞操管理者を送り込むだけではなく、今回の彼女のように私服姿の諜報役スパイの貞操管理者も同時に何人も派遣するのが常だった。

 彼女たち諜報役はターゲットの童貞に近づき、その情報を実行班のメンバーたちに伝え、可能な限り対象の童貞の警戒心を緩め、懐柔し、その気にさせるというのが主な役割となる。

 彼女たち貞操管理者は童貞の心を掴むプロフェッショナル。

 メンタル面でもテクニック面でも、彼女たちの攻勢に耐え切ることのできる童貞など、ニッポンのどこにも存在しなかった。

 そう、この日までは、たしかに存在しなかったのだ。


「……申し訳ありませんが、断ります」


「へぇ? でも身体は正直よ? 素直にあなたの童貞を明け渡した方が賢明だと思うけど?」


 セイジは自分の下唇を血が滲む勢いで噛み締めると、顔に押し付けられたデカチチを力づくで押しのける。

 ブラジャーをつけていないのか、跳ねのけた際に掌に乳首のコリコリっとした感触がしてまた脳回路がショートしそうになるが、瀬戸際のところでセイジは脳圧をコントロールしてみせる。


 思い出せ、あの小太りオヤジの悪臭を。

 そうさ、今僕が触っているのは美女の乳房じゃない。

 あの全体的に黄色っぽいオッサンのビール腹だ。


 強烈な自己暗示を使い、暴発寸前だった伸縮自在のアパッチリボルバーをセイジは急速冷却させた。


『次はトウキョウ、トウキョウ……』


 電車の速度が段々と遅くなっていく。オーバーヒートした頭が冷静になったことで、セイジは次の一手をすでに思いついていた。

 おそらく貞操管理者の女が言うように、次の駅には他のゴム持ちの制裁役の貞操管理者が待ち構えているのだろう。

 だがもちろん、このまま政府の犬に成り下がり他人の貞操を我が物顔でコントロールする色欲の神気取りの奴らの下に連行されるつもりはさらさらない。


「皆さん! チカンです! 助けてください! この人に僕はチンポコを触られました! チンポコ! 僕のチンポコをこの人は触ったんです!」


「えっ!? ちょ、ちょっとあなた……」


 トウキョウ駅に着いた瞬間、唐突にセイジは貞操管理者の女の手を取って大声で喚き出した。

 チンポコ! 僕のチンポコ! といきなり狂ったかのように叫び続けるセイジ。

 周りの乗客たちには引き気味の困惑が生まれ、いきなりの凶行に混乱する女は自らの正当性を証明するためか服のポケットを慌てて漁り貞操管理者証明書を取り出そうとする。

 それこそが、セイジの狙いだった。

 乗り合わせていた乗客に、違います! 私は決してチカンなどではなく! これは職務上仕方なく! と貞操管理者証明書を掲げながら女が釈明を始めた隙に、セイジは猛然とダッシュして車両から飛び降りる。


「あ! ちょっと待って! 誰かその子を——」


 ——プシュウ、と例の如くくたびれた呼吸音と共にオオフナ行きの電車の扉が閉まる。

 そして流れ去って行く車両を見送ることなく、セイジは再び人混みの中に紛れ込んでいった。

 ホームに出る方向のエスカレーターには黒のタイトスカートにグレイのブラウスを合わせ、顔の上半分だけを隠した特異な仮面をつけた女が三名ほど見える。

 その女たちの視界から隠れるようにしながら改札口に向かい、そのままトウキョウ駅の外にセイジは出た。


「……まずいな。公共機関はすでにマークされてるかもしれない」


 自分が乗った電車に偶然私服の貞操管理者が乗り合わせたとは思えない。

 もはや街を歩く女性が全て自分の童貞を奪おうと企んでいるように感じられた。


「仕方ない。本当は迷惑をかけたくないけど、“あの人”に助けを乞おう」


 リュックサックからホッカイドウ行きの飛行機のチケットを取り出すと、一瞬迷う素振りを見せながらも、それをセイジは破って近くのゴミ箱に捨てた。

 思いつめた表情が向かう先は、ついさっき離れたばかりの自らの生活圏であるタイトウ区の方向。

 まさかこのタイミングできた道を戻るとは予想できないだろうという計算もしつつ、公共交通機関を利用せずにホッカイドウへ向かう数少ない可能性にかけるべくセイジは再び歩き出したのだった。





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