グッドラック
普段通りに授業を終えると、セイジは真っ直ぐに帰宅した。
いつもならば直接バイトに行くところなのだが、この日はシフトを入れなかったのだ。
それは、愛すべき日常に別れを告げる時間が欲しかったから。
真夏を目前にして、青々と茂る街路樹。
時計の針が縦に一直線になっても沈む気配を見せない太陽。
仕事を終え、畳んだスーツを片手に繁華街へ消えていくサラリーマンたち。
何気ない日々の景色を心に刻みながら、セイジは住み慣れたトウキョウの街を歩いて行く。
区役所前に備えられた電光掲示板には“ブレインストリーミング、童貞を卒業した方はお早めに申告を”の文字が橙色に点灯している。
大脳辺縁の一部であり、記憶を司るとされる海馬から深層情報を読み取り、童貞か非童貞かを科学的に区別できるようになったのは男性貞操維持禁止法が採決される数年前のことだった。
今では誰でも区役所に行けば、自らが童貞か非童貞かどうかを簡単に判別することが可能で、実装初期こそ一時間程度かかっていた貞操診断、すなわちブレインストリーミングも現在では数十分で済むようになった。
いつの日か富岡ミユリと再会を果たし、自らの貞操を捧げた後には、ここにくればいい。
地元であるトウキョウシティのタイトウ区役所を通り過ぎるたびに想像していた時は、結局今日までやってこなかった。
もうおそらくここで自分がブレインストリーミングを行うことはないであろう。
バイトを始めるという理由でスイミングクラブを止めた時に似た申し訳なさを感じながら、セイジは一人静かにタイトウ区役所に向かって頭を下げる。
全てはたった一つの約束のために。
たとえ自分が本当はすでに裏切られているのだとしても、自分の方から信じるのを止めることだけはしたくなかったのだった。
オートロック式の扉を開けて、セイジは自宅のマンションに帰って来る。
自分以外は誰も住んでいないかのように閑散としたエントランスでエレベーターを待つ。服はじっとりと汗を染み込ませていて、すぐにでもシャワーを浴びたい気分だった。
チン、という音と共にエレベーターがやってきてセイジは空の箱へと足を踏み入れる。
それとなく感じる慣性。
ボタンを押した通りに六階へと辿り着くと、チンチンという甲高い音がまた鳴り、箱の外への道が開かれた。
「ただいま」
609号室。
六階の廊下の突き当り。
慣れ親しんだ自らの家の扉を開けても返事はなく、セイジを出迎える者は誰もいない。
父も母も共働きで、兄妹はいない一人っ子。
鞄と白のワイシャツと黒ズボンを自室のベッドの上に放り投げると、パンツと下着のシャツだけという身軽な格好でリビングのソファーに腰掛けた。
いつもより広く見える居間。
家族三人で並んで楽しそうに笑っている写真が幾つか目に入る。
窓からは赤橙の光が差し込んでいて、籠った熱気と共に身体から汗を引き出そうとしてくるので、エアコンのスイッチを入れる。
爽やかに肌を撫でる、季節外れの冷風。
部屋全体が冷える前に軽くシャワーを浴びてしまおうとセイジは下着を完全に脱いで全裸になる。
ひらりと舞う、縮れた陰毛。
その時セイジは気づく、ダイニングテーブルの上に一枚の紙が置かれていることに。
股間からぶら下げられた両親産のブラックタイガーをぶらんぶらんと揺らしながら、セイジはテーブル上の紙を手に取ってよく見てみる。
それはただの紙きれではなく、手紙だった。
その角ばった字体は父のものだったが、どこかファンシーなほんのり桃色をした紙のチョイスや優しくも厳しさの垣間見える文体は間違いなく母のもの。
封も何もされていない手紙を、セイジは静かに一人読み始める。
“愛する我が息子へ
これまでずっと知らないふりをしてきたけれど、お前がまだ童貞だということに私たちは気づいています。
習い事をやめてバイトに明け暮れ、部活もしていないくせに土日になるとどこかへ消えるお前のことがずっと心配でしたが、それもあえて口にはしてきませんでした。
法律で十八になる前に童貞を捨てなくてはいけないのに、誕生日の前日になってもお前はまだ童貞です。
どうしてお前が貞操管理機構の下へ行かず、かたくなに童貞を守るのか、正直言って私たちにはわかりません。
いつになったらうちの息子は童貞を捨てるんだ。うちの息子はいったい何を考えているんだと。二人で話し合ったのも一度や二度ではありません。
でも私たちはお前には何も言ってきませんでした。なぜかわかりますか?
それはお前を、信じているからです。
お前が法を犯してまで童貞を守る理由、それを私たちに話せとは言いません。
だから私たちは待っています。お前が童貞を捨てて、いや、捧げてといった方が正確かもしれませんが、とにかくゴムの正しい使い方を覚えてお前が帰って来るまで私たちは誕生日ケーキを毎日買って待ってます。
どうか忘れないでください。お前を信じて待っている人がいることを。
父と母より”
冷気が乳首を撫でる感覚。
セイジは両親からの手紙を綺麗に折りたたむと、潤んだ目元を指で軽く拭った。
もうこの家にも長くは居られないだろう。
零時を過ぎればセイジはもう指名手配犯となる。
暢気に自宅で寝ていれば、送り込まれるであろう貞操管理者に捕まることは容易に予想できた。
そうなれば約束を果たせないだけでなく、両親に迷惑をかけてしまう。
できるだけ早く身支度を整え、先に家を出るべきだとセイジは決心した。
夜が明けるまではネカフェなどで時間を潰し、その後はこれまで何度もそうしてきたようにハネダ空港まで電車で向かい、ホッカイドウまでひとっ飛びだ。
十八の誕生日までに再会を果たすのは難しいこと分かっていたので、すでに明日の分の飛行機のチケットは取ってあった。
両親からの書置きを自室の机に置き直すと、早速汗を流すべくバスルームへセイジは向かう。
すでに全裸なので浴室に入るために必要なことは、下半身の瑞々しい茎からカセイの包みを脱がせることくらい。
産毛が驚かない程度の生温いシャワーを浴びていると、両親の優しさが時間差で再び押し寄せてきて目頭が熱くなる。
滔々と流れる温水で顔を濡らしてなければ、頬が冷え切ってしまうところだ。
政府の命令に逆らい、いつまで経っても童貞を捨てない息子。
それがどれほど両親を不安にさせただろう。
固い決意を胸にしているセイジではあるが、そんな彼でも時々思うことがある。約束を覚えているのは自分だけではないのかと。自分は愚かな
SeIReの下に行き、大人しく名も知らぬ貞操管理者で童貞をさっさと捨ててしまうのが正解なのではないか。
自分を待ってくれている人など誰もいないのではないかと、ここに来て再びセイジの中に僅かな逡巡が生まれる。
『どうか忘れないでください。お前を信じて待っている人がいることを』
しかし、ついさっき目にしたばかりの両親から手紙に書かれていた言葉を思い出し、セイジは迷いを捨て去る。
信じるべきだ。
道化師でも構わない。
彼女が自分を待ってくれている可能性が千分の一でもあるのなら、その可能性に賭けるべきだと。
浴室に貼られた姿見に映る自分はどこにでもいる平凡な少年で、包みの剥かれたカメアタマは純潔を示すチェリーピンク。
傷はどこにも見当たらなかった。
シャワーを止めてバスルームから出ると、全身の水気をきちんと拭き取り、イージーアンクルの黒スラックスと無地の白ティーシャツに着替えた。
夏のホッカイドウとはいえどもまだ七月。
念のために薄手のパーカーも用意しモンデルという名のアウトドアメーカーで購入した登山用リュックサックに詰め込む。いざという時のために買い貯めていたバギナーインゼリーをあるだけ全て持っていくことにする。
種類はお気に入りの青い奴が七割と、ビタミン補助になる緑色の奴が三割のバランスだった。
着替えはどれくらい持っていこうか悩むが、所詮は特別なサバイバル技術を持っているわけでもないただの男子高校生。
もって三日か四日程度だろうと見立てをしてあまり多くは持って行かないことにする。
他に必要なものとしてはスマートフォンの携帯充電器が思いついた。
あらかじめ充電しておくタイプと乾電池式のもの、どちらもすでに二つずつ用意してある。
もしもの時、両親に謝罪と感謝を伝えるメールの一通くらいはこれで送れるはず。
そしてそこまで旅立ちの準備を整えたところで、机の上に置かれたスマートフォンが点滅していることに気づく。
確認してみればナオトから珍しくメールが届いていた。ここでいう珍しいとはその形態のことだ。
普段はメールなどという過去の遺物ではなく、もっぱらBINE(バイン)というアプリを使用しているため不思議に思ったのだ。
メールのタイトルは“グッドラック”。
セイジは何かしらデータが添付されていることに気づきながらも、まず文面に目を通してみる。
『セイジ。これだけは言っておく。お前は俺にとって一番の友達だ。それだけは間違いない。数少ない同年代の童貞ってのもあるけど、それがなくても俺たちは最高に仲良くなれたと本気で思ってる。
だから最後にお前に贈り物をさせてくれ。
きっと俺とお前、そのどっちもが童貞でいられたままこうやって連絡を取り合えるのもこれで最後になると思う。
明日からはお前は指名手配犯だ。
たぶんネットに繋げばその瞬間、位置情報が向こうにばれちまう。だからこれは警告でもある。零時が過ぎたら、基本的に機内モードにしておけよ。
さて、そんでもって贈り物だが、これは俺がお前にしてやれる唯一のことで、同時に一番お前を喜ばせられることだと思う。
お前、言ったよな? 約束の女の子はゲームが得意だったって? それを聞いて思ったんだ。もしかしたらそのオンラインアカウントをその子は持ってるんじゃないかって。
まずはお前とその子が仲良くしてた頃に流行っていたゲームを片っ端から調べた。でもだいたいが外れか、そもそもオンラインサービスが終了してるものばかりだった。
そこで俺はさらに一歩踏み込んで調べてみた。それは当時流行っていたゲームの中で、さらに今現在もシリーズが続いてるものに絞って探してみたんだ。
そしたらなんとビンゴ!
見つかったぜ。最新版じゃないけど、数年前にリリースされたCoP(コールオブプッシィー)っていう名前のシューティングゲームのアカウントの中に“Miyuri Tomioka”ってのを見つけたんだ。これはもしやと思って俺がよく使う解析ソフトでIPアドレスから住所を割ったら見事にホッカイドウの番地が出てきた。
ここまで言えばもう分かるだろう? もちろんその番地は添付しておいた。
それじゃあな我が親友よ、グッドラック。お前の貞操に幸あらんことを祈る』
添付されていたファイルを開くと、セイジの身体が緊張と歓喜で震えた。
そこまで言われれば全て理解できる。
IPアドレスから住所を特定する行為が法的にどうなのかという事は微塵も考えず、セイジはただひたすらにナオトに感謝した。
『ありがとう。最高の贈り物だ。君も僕にとって一番の親友だよ。この借りは必ず返す』
本当はもっと言葉を尽くして感謝の思いを伝えたいところだったが、ナオトとはもっと心の深い部分で繋がっている。
余計な装飾は不要な気がして、そんな短いメッセージを送信すると親友の忠告に従ってスマートフォンは機内モードにしてしまう。
そして両親からの手紙をリュックサックにしまったところで旅立ちの準備を終えると、静謐とした冷たさに満たされたリビングで三十分ほど家の空気を堪能した。
次に夜が明ける頃、僕は政府の敵になっている。
心内で呟いたその台詞が身体の芯に染み渡るのを感じ取った後、冷房のスイッチを切り、電気を落とす。
窓の外からセイジを照らすのはトウキョウシティの魅惑的な煌めきと、錆びついた空から僅かではあるがたしかに輝く星々。
「行ってきます」
ただいまを口にした時と同じ様に、返事はない。
しかしそれでもセイジには分かっていた。
この世界にはたしかに、自分を信じて待ってくれている人がいるということを。
※
七月二十日の夜十一時も過ぎた頃。
トウキョウシティチヨダ区の西央部に位置する全面マジックミラーによって覆われた高層オフィスビル。
二つの半月を向かい合わせたようなモニュメントの建てられたその場所こそがSeIReの通称で知られる繁殖省管轄の貞操管理機構本部であった。
外側からは決して中を覗けない本部の十三階の談話室では、妙齢の女性が一人紙コップに注がれたブラックコーヒーを片手に、タブレット端末に漆の瞳を落としている。
薄らとブラウンの入った髪をシニヨンにまとめた、赤縁眼鏡の彼女の名は
男性貞操維持禁止法採決当時の初期からSeIReに所属する古参貞操管理者だ。
貞操管理者は数年働くだけで一般的なサラリーマンの生涯年収に迫るほど膨大な給与を得られるという面から大変人気な職業であるが、ニッポン政府が課す特別な国家試験の難度は非常に高く、採用枠も年に二桁という点からSeIReの職員になれる者はほんの僅かしかいない。
そんな狭き門を突破したエリート公務員であるレンカの下にはこの日、とある一人の新人貞操管理者が上層部から送られてくることになっていた。
レンカの見つめるタブレット画面に表示されているブラックダイアモンドのような髪を肩口まで伸ばした少女。
年齢は非公開。
氏名は“M.Y.4”となっている。
貞操管理者はその全員が氏名、年齢ともに機密事項として開示を禁止されている。
そのために互いの名前を呼ぶ際は名前のイニシャルを取ったコードネームを使うことになっていた。
レンカの場合コードネームは“R.M.1”となっている。
R.Mは本名がRenka Mukuiであることが理由で、イニシャルの後に付く数字はSeIReに入社した順に、イニシャルが重複するたびに数字が増えていく。
新人貞操管理者は毎年春の研修期間を終えて、夏頃になると本格的に業務に携わるようになるはずなのだが、M.Y.4だけは特別追加指導が必要ということで、その対応役にSeIReの中でも抜群の業績を誇るレンカが選ばれたのだ。
タブレットに表示されたM.Y.4のパーソナルデータの備考欄にはこう書かれている。
“今年度の貞操管理者試験を歴代最高得点で首席合格を果たす。しかし思想に問題アリ。要改善”
レンカもまた自らが受けた年の貞操管理者試験を首席で合格しているが、歴代最高得点という文字から考えるとM.Y.4は彼女以上の才覚を現時点では示しているらしかった。
「思想に問題アリ、要改善ね……」
だがその輝かしい試験結果の後に続く文言があまりよろしくない。
レンカが噂で知る限り、思想に問題アリ、要改善という表記がなされ、特別追加指導が行われたことはこれまでにたったの一度だけだ。
一回目の時は指導役に選ばれた別の貞操管理者が酷く疲弊していたことをレンカは今も覚えている。
「今度は私の番ってわけね。上層部の命令だから断るわけにもいかないし、仕方のないことかしら」
画面を見過ぎたせいで少しこったのか、何度か首をぽきぽきと回して、肩を手揉みする。
そして三分の一ほどまだ中身の残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、空になったカップを近くにいた人型ジャンクボックス、俗称ジャンキーくんに手渡す。
ジャンキーくんが頭部と手をカタカタと小刻みに震えさせながらカップを処理するのを見届けると、レンカは談話室から出て帰路につくことにする。
時計の短針がまた一つ動き、日付が変わる。
思想に問題があり、改善を必要とされている天才新人貞操管理者と顔を合わせる予定の時刻はちょうど十二時間後。
そしてこの瞬間、ニッポンに本来は存在してはならない童貞が生まれたことを彼女はまだ知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます