ルーキー



 七月二十一日正午五分前。

 トウキョウシティチヨダ区の貞操管理機構本部の廊下を、武久井レンカは右腕につけた時計を時折り気にしながら歩いていた。

 平時に比べて慌ただしさを感じるオフィス内。

 その理由もすでにレンカは知っている。

 それは数年振りに貞操維持期間違反者、つまりは政府の法を破った反社会性の童貞が出現したのだ。


 件のドウテイの名は“大塚セイジ”。


 深夜三時過ぎ頃にはもう、業務用タブレットをまだ配布されていない研修を終えたばかりの新人以外の貞操管理者全員に緊急連絡としてメールが送られていた。

 レンカに関しては問題アリ、要改善の新人ルーキーM.Y.4に対しての追加特別指導という役目があるため免除されているが、三桁にも登る貞操管理者が大塚セイジの強制童貞卒業業務に駆り出されていた。

 この時代にわざわざ貞操維持禁止法を破るなんて変わった子がいたものだ。

 SeIReの監視ネットワークは国民が考えている以上に広範囲かつ緻密に張り巡らされている。

 レンカの考えでは日付が変わる前にはまたニッポンから一人童貞が消えていると考えていた。

 そして時刻は正午丁度。

 上層部から指定されていた幾つかある会議室のうち一つが視界に入ると、扉の前に一人の少女が立っているのがわかった。

 薄化粧のせいか年齢はまだ十代半ば程度に見える。

 ワンショルダータイプのバッグを斜め掛けしているおかげで、胸の膨らみがポテンシャル以上に誇張されている。

 だいたいCカップってところね、とレンカはその少女の本来のバストサイズを正確に測りながら、会議室の扉を開ける鍵を取り出した。


「どうも初めまして。あなたがM.Y.4ね? 私はR.M.1。あなたの指導員を務めさせてもらうわ」


「おはようございます。私がM.Y.4です。よろしくお願い致します」


 レンカが声をかけると、M.Y.4は丁寧に頭を下げる。

 歴代最高得点で貞操管理者試験を合格しておきながら、人格面に問題アリの烙印を押されていたという事前の話からどんな問題児かと身構えていたが、思っていたより礼儀正しいというのがM.Y.4に対して抱いた第一印象だった。


「とりあえず部屋の中でゆっくり話でもしましょうか。どうぞ入って」


「ありがとうございます。失礼します」


「あなたコーヒーは飲める?」


「大丈夫です」


「シュガーとミルクは?」


「ではミルクだけお願いします。一応確認しておきますが、そのミルクというのは精子の隠喩ではないですよね?」


「もちろん違うわ」


「そうですか。ではやはりミルクだけお願いします」


「了解よ」


 冗談で言っているのか、本気なのか。

 レンカは判断に困りつつも、新人の少し過激な言葉を平然と受け流す。

 そして鍵を開けて会議室の中に入る。

 空調のスイッチは自動で入っているので、誰も使っていなかったためかむしろ少し肌寒いくらいだった。

 オートコーヒーメイカーから二人分注ぐと、ミルクを多めに見積もって三つ程度手に取ると直立不動で扉の傍に立つM.Y.4にコーヒーとミルクを三つ全て渡す。


「そこら辺に適当に座って」


「はい。それにしてもミルクが多めですね。これは遠回しにお前はミルク好きの淫乱だろと言っているのですか? ちなみに今言ったミルクは精子を比喩的な表現で表しています」


「違うわ。適切な量を訊ねるのが億劫だったから、足りないということがないように多めに渡しただけよ」


「そうですか。わかりました」


 なんかこいつ面倒くせぇぞ、とレンカは思い始める。

 緊張しているのか、それともこれが素なのか。

 しかしM.Y.4は出会った当初から変わらない鉄仮面のまま、音を立てずに近くの椅子に腰かけるだった

 机が縦長のドーナツ状になっているため、二人きりの状態で向かい側に座るには距離があり過ぎると感じ、続くようにしてレンカはM.Y.4の隣りに並んで座った。


「さて、早速だけれど、どうして自分が特別追加指導を受けることになったかあなたは理解しているのかしら?」


「はい。理解しています。貞操管理機構の職務に対する私の思想、考え方が不適切であると言われました」


「そう。なるほど、一応自覚はあるのね」


「はい。もちろんです。ですが申し訳ありません。R.M.1さんの顔を潰してしまうことになりますが、これだけは譲ることができません」


「ふーん、そう……」


 ブラックのコーヒーを少し口に含むと舌で味わうようにしてから飲み込み、レンカは再び手元のタブレット端末に目を落とす。

 そこにはM.Y.4に関する報告がつらつらと書き連ねられていた。


『コードネーム:M.Y.4

 貞操管理者試験を歴代トップの成績で合格。

 以下内訳。


 筆記試験(教養):100/100。

 筆記試験(計算処理):100/100

 筆記試験(語学):100/100

 筆記試験(性知識):100/100

 実技試験(基礎体力):100/100

 実技試験(対人関係):100/100

 実技試験(前戯):100/100

 実技試験(挿入):0/100

 総計:700/800


 備考欄:思想に問題アリ。要改善』


 改めてみてもそこに表示されていたのは異常な数字だった。

 貞操管理者試験は国家試験の中でも最難関として知られ、合格者の平均得点でさえ配点の半分を越えることはない。

 自らが受けた年度の首席合格者であるレンカでさえ、当時の得点は五百点代後半だったことから、M.Y.4の異端性がよく分かるだろう。

 そして何より際立って目立つのが、極端な得点の取り方だ。

 八科目中七科目で満点。

 正直言ってレンカにはこの華奢な少女の中に、そこまでの能力が秘められていることが信じられなかった。

 そのせいで“実技試験(挿入):0/100”が悪い意味で目立つ。

 なぜならその科目は他の科目に比べて要求される技術が比較的少ない、最も点数を稼ぎやすい箇所だったからだ。

 実際レンカも実技試験(挿入)に関しては試験を受けた当時満点を取っている。

 幾つかの体位を滞りなくこなすだけで点数が八割を超えるため、ここを落とすような者は到底貞操管理者にはなれないというのが通説であった。

 それにも関わらず、このM.Y.4という少女は、まるで常識外の成績を見せつけている。

 ここまで圧倒的な才覚を持ちながら、なぜ頑なに挿入だけを拒んだのか。

 処女でもあるまいし、とレンカは心底不思議で仕方なかった。


「じゃあ一応訊いておこうかしら。あなたはどうして挿入を拒絶するの?」


「すいません。答えられません。ちなみに尻の穴……あ、アナルならワンチャンありです」


「まあ、そうよね。簡単にそれを教えてくれたら、今頃あなたはここにいないものね。あと尻の穴の話は訊いてないし、英形容詞で言い直さなくいいわ」


 もう一度コーヒーを口の中で回しながら、レンカはこの異端の天才少女にどう対応するべきか考え込む。

 上層部の話では研修期間中も決して挿入だけは許さず、全ての研修内容を他の技術だけで乗り切ってしまったという。

 M.Y.4が研修を受けている様子はすでに一部動画ファイルとして受け取っていて、手元にある分に関しては中身に全て目を通してある。

 ありとあらゆるタイプの男性(百戦錬磨の床慣れした非童貞から外見、人格共にまごうことなき童貞まで)を相手に事前演習を行っているが、そこでもM.Y.4は圧巻の才覚を見せつけていたと聞く。

 相手に合わせて巧みに口調や仕草まで変化させ、瞬く間に警戒心を解きほぐし、興奮状態にさせてしまう。

 相手がその気になってしまえばそこからは一気呵成。

 極限まで研ぎ澄まされた観察眼によって、的確に感度の高い箇所を見抜き、ここぞとばかりに責め立てる。

 元来持つ清楚で初心な雰囲気とその凄まじいテクニックのギャップも相まって、どんな男も一分も持たずにイき果てさせてしまうのだという。

 挿入する間もなく、相手の童貞は恍惚とした表情で半気絶状態になり、持続不可能に陥ってしまうことから、M.Y.4は研修期間でも結局一度も挿入することがなかったらしかった。


「顔が気に入らないの? あなたが望めば、最初は容姿の格別いい童貞も用意できるわよ?」


「いえ。容姿にこだわりはありません。私はそんなことで人を判断はしませんので。さすがに顔と股間の区別がつかないほどだと困りますが」


「そんなほどは想定しなくていいけれど、とにかく容姿にはこだわりはないということね」


 画面を数回タップして、試しに何人かいる環境が悪く奇跡的に貞操を保持したままのイケメンを見せてみるが、反応は芳しくない。

 若い貞操管理者にありがちな、不潔で醜悪な典型的童貞に触れることに抵抗があるというわけでもないようだ。

 たしかにそれは事前に見た動画でも分かっていたことなのだが、再確認をしてしまう。

 研修期間中は他の新人貞操管理者が二の足を踏むような強烈に個性的な童貞に対しても、M.Y.4は躊躇いなく全力で施行シゴトを行っていた。

 ではいったいどこが彼女の心のブレーキになっているのだろう。

 レンカは一旦直接理由を探ることを止め、底知れぬ才覚を持つ期待のルーキーがどんな人物なのか知ろうとすることにする。


「そもそもあなたはどうして貞操管理者になろうと思ったの?」


「動悸は至ってシンプルです。お金のためですね。私の今の年齢で届く範囲の仕事の中で、最も高給なのがSeIReの職員になることでしたので」


 志望動機はお金。

 これもまたそこまで変わったものではない。

 現時点では貞操管理者になるために必要な資格は女性であることのみだ。

 年齢は一応入社予定年度内で十八を超えるのならば試験を受けることが可能だが、様々な知識、経験が合格には必要とされることから十代で試験を受ける者はほとんどいない。

 実際貞操管理者試験は筆記試験だけでもニッポンの首都にある国内最高偏差値の国立大学の入試より難度は上とされている。

 それに付け加え特殊な技能が要求される実技試験と、極端に少ない採用枠による超高倍率。

 十代で試験を突破できる者は一年に一人いればいい方。

 むしろ若くしてそこまで能力を持つ者の中で、あえて貞操管理者を目指す者はかなりの変わり者といえた。


「年齢は機密事項だから訊けないけれど、あなたはまだ若いでしょう? 時間がまだまだあるわ。他にもお金を稼げる職業は選べたんじゃない? どうしてあえてSeIReに?」


「面接官のようなことを訊くんですね。面接のときも同じように答えましたが、私には時間がないんです。すぐにでも大金が必要でした。私に選択肢はなかったんです……あ、R.M.1さんもゼンゼンワカイジャナイデスカー」


「時間がない? それはどういう意味?」


「申し訳ありません。個人的なことなので」


「そう、ならいいわ、深くは訊かない。あと一回流したけれど、さっきのつけ足したような棒読みのくだり二度とやらないで」


「わかりました。すいません」


 口上では謝意を見せているが、その裏に薄ら覗く決意はどこまでも固い。

 あまりプライベートなことは明かしたくないようだった。

 詳しいことはわからないが、とにかく急いで大金が欲しいということはわかった。

 それが挿入を頑なに拒む事と何か関係があるのだろうか。

 いくら男をイかせる技術に優れているといっても、挿入しなければ本当の意味で童貞を奪うことはできない。

 そういう意味ではこのままではM.Y.4は職務放棄としてSeIReを追い出される可能性すらあった。

 その事を彼女はきちんと理解しているのだろうかとレンカは疑問にすら思い始める。

 もっとも歴代最高得点で入ってきた歴史に残るレベルの有望株ゆえにSeIReとしても手放したくはなく、こうしてわざわざレンカを特別指導員としてつけているわけなのだが。


「うーん、細かいところはわからないけれど、とりあえず自分の意志でこの仕事を選んだことはたしかなのよね?」


「はい。洗脳モノはたしかに興奮しなくはありませんが、現実的ではないかと。自分の意志だと認識しています」


「……洗脳はいいとして、だったら、いつまでも、そのあなたの“こだわり”を持ったままじゃ仕事にならないことくらい、賢いあなたならわかっているでしょう? どうするつもりなの?」


「上の方にも伝えましたが、時間をください」


「時間? どれくらい?」


「それはまだわかりません」


「そう。それは困ったわね」


 言い逃れの適当な言い訳ではなく、本気で自分の裁量で決められるくらいの猶予が欲しいとM.Y.4は言う。

 一応職務を全うする覚悟があることは分かりレンカもやや安堵するが、それでもいつもでも待つことはできない。


「せめて、あなたの準備ができるまでにどれくらい時間が必要なのかくらいは教えてくれない?」


「申し訳ありません。私の意志で教える、教えないを決められるわけではないんです。こう言うと洗脳モノというよりは奴隷モノっぽいですが、そういうわけではないのであしからず」


「そう。それは本当に困ったわね。色んな意味で困ったわ」


「それは指導とはべつに、私とのコミュニケーション自体にも困難だと言う意味の、色んな意味ですか?」


「そうよ」


「……すいません」


 レンカは頭を抱える。

 まるでM.Y.4の言っている意味が理解できなかったからだ。

 これは中々難儀になりそうだ、とレンカは上層部にファーストインプレッションをどう伝えようか迷う。

 要改善とは言われているが、今のところ改善の余地がまるで見えてこなかった。


 ——ピコン!


 その時大きな電子音と共にレンカの手元のタブレットがビクンッ! ビクンッ! と震えだす。

 通常のメールであれば音は鳴らずにバイブレーションのみするので、どうやら緊急メールの方らしい。


「なにか問題ですか?」


「そうね、SeIRe的には目下一番の問題だけれど、幸い今のところ私たちには関係のないことよ」


 メールを開いてみると、通達の内容は貞操維持期間違反者の許されざる童貞大塚セイジについての勧告だった。

 文章にざっと目を通す限り、いまだにその童貞は逃走を続けているらしかった。

 しかも一度貞操管理者に見つかっていながらも、再び行方をくらましたという。

 意図は全く不明だが、本気で貞操を守る、つまりはニッポン政府に刃向うつもりのようだ。


「朝から何やら騒がしかったですが、それに何か関係していますか?」


「ああ、そういえばあなたはまだタブレットを貰ってないから知らないのね。実は今日、久し振りに貞操維持機関違反者、要するに私たちSeIReの勧告を無視して、十八歳になってもまだ童貞のままの奴が出たのよ」


「この時代に珍しいですね。変態ですか? まだ捕まってないんですか?」


「どうもそうみたい。どうせ変態よ。童貞だからイクのだけじゃなくて逃げ足も速いのかしら」


 レンカはメール画面を閉じつつ考えてみる。

 この現代のニッポンであえて貞操を捨てない男なんて、よっぽど特殊なフェチズムを持った性的倒錯者以外にはいないだろう。

 思いつく大塚セイジの人間像としては、普通の年齢を重ねた女性では満足できないペドフィリアか、過激な思想に染まった女性差別主義者というところ。関わりたいとは到底思えなかった。


「今日貞操維持期間を違反したということは、その童貞は十八歳ということですよね」


「まあ、当然そうなるわね。どうしたの? 興味でもあるの? どうせろくな奴じゃないわよ?」


「わかっています。この時代に十八になってまで貞操を守るなんて普通じゃありません」


 貞操管理者なのに絶対に挿入をしようとしないM.Y.4が普通じゃないと断言するのを聞くと、それあなたが言う? と若干ツッコミを入れたくなったがレンカはそれを我慢した。

 その時レンカはふと思う。

 類は友を呼ぶとも言うし、案外M.Y.4のタイプはこういったタイプの男なのではないかと。

 さすがにそんなわけないかと自己完結しながらも、冗談半分でレンカはM.Y.4にSeIReを今騒がしている問題の人物を見せてみることにする。


「ほら、これがその噂の童貞クンよ。どう? 好み?」


「これは……」


 非公式ではあるが、今やニッポン中で指名手配となっている少年の顔をタブレットの画面に表示し見せてみると、案の定M.Y.4は言葉を失って固まってしまった。

 まあそれはそうなるかしら、同年代の犯罪者の顔見せられても困るわよね、レンカは少しおふざけが過ぎたかと反省しつつ、タブレットを自分の手元に戻そうとする。

 しかし、M.Y.4はがっちりとタブレットを掴んだまま全く離そうとしない。

 何度か力を込めて引っ張っても、レンカの下に戻す気配を見せなかった。

 その強硬な態度に困惑しつつ、手を離すように言うべくレンカは口を開こうとするが、彼女が言葉を発する前によく通るアルトの声がそれを遮った。


「彼の名前は?」


 え? とM.Y.4からの唐突な問い掛けに今度はレンカが硬直してしまう。

 彼というのがタブレットに表示された満十八歳の童貞の事を指していることを理解するのに数秒かかってしまった。


「ここに映っているこの少年の、今、指名手配になってる彼の名前を教えてください」


「え、えーと、たしか“大塚セイジ”、だったと思うわ」


「大塚セイジ……っ!」


 元々大きな瞳をさらに倍以上に見開き、M.Y.4はわなわなと唇を震わせていた。

 これまで一貫して変化のなかった無表情は崩れ、驚愕と、興奮と、混乱の入り混じった複雑な様相を見せている。

 いったい当然どうしてしまったのだろう。

 レンカはやっと所有権の戻ってきたタブレットを懐にしまうと、とりあえず気持ちを切り替えようとコーヒーを飲む。


「私に彼の童貞を奪わせてください」


 ブフォッ! としかしレンカは仕切り直しのつもりで口に含んだコーヒーを勢いよく噴き出してしまう。

 鼓膜の故障かと耳の穴をほじってみるが、聴覚の不調は感じられない。


「あの、今なんて言ったの?」


「彼の、指名手配童貞の大塚セイジの童貞を奪う役目を、私にくださいと言いました」


「本気? 逃走中の童貞を追うということは、挿入をしなくちゃいけないのよ?」


「わかっています」


 数分前まであれ程断固として挿入を拒絶していたにも関わらず、この数秒の間に態度が百八十度変化してしまっている。

 いったい何がどうなっているのか。目の前の少女が考えていることが、出会ってから今の今まで何一つわからない。

 ただ、唯一レンカにも理解できていることがある。

 それは自らの職務を果たすため、SeIReの尊厳を守るため、その両方の観点から考えても意図の見えないM.Y.4の懇願を受け入れる以外に選択肢はないということ。


「これは“復讐”なんです……大塚セイジの童貞を、私にください」


 レンカが諦めたように頷くと、この日初めてSeIRe史上最高の才能を持つ若き貞操管理者は笑った。

 その微笑はどこまでも純粋で、底知れぬ覚悟を内包させたものだった。





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