オネガイ
七月二十一日夜九時を回った頃。
トウキョウシティタイトウ区ウエノの街を、一人の青年が両手に大きなポリエチレンの袋を下げて歩いていた。
袋から冷め切ったコロッケを一つ取り出して、そのままモグモグと食べ進める彼の名は滝マモル。
地元はトチギだが進学を機にジョウキョウした大学三回生である。
今は駅前近くの揚げ物メインで売っている弁当屋でアルバイトをした後で、一人暮らしのアパートに帰宅する途中だった。
騒がしい歓楽街を抜けてオカチマチの方向に抜けていくと、途端に住宅街に入り込み物静かになる。
今日はいつもより店の売れ行きが悪く、廃棄の惣菜が多めに持って帰ってこれた。
ついでにコンビニエンスストアに寄ってアルコールの類を購入してもいいかもしれない。
しかしそこまで考えて、前も似たようなことをして缶のハイボールを幾つか買ったが、結局飲む気になれず冷蔵庫にしまったままであることをマモルは思い出して、寄り道をするのは止めることにした。
バイト先から自宅まではそこまで離れていない。
あと一つ道を曲がれば、もうくすんだ灰色のアパートが見えてくる。
マモルは米を炊き忘れている気がしたが、主食はなくてもいい気もした。
ここ最近の彼は人間の三大欲求のうち二つを失ってしまっている。
「……は? なんであいつがいるんだ?」
だが寂し気に一つ立つ電柱の横を曲がったところで、マモルは不可解な光景を目の当たりにする。
それは自分の家のアパート前に見知った一人の少年が立っているというものだった。
「おい、大塚。こんなところでなにしてんだよ」
「あ、マモルさん。おかえりなさい」
マモルをみとめるなりぱっと顔を明るくさせる少年の名は大塚セイジ。
三つ学年が下のアルバイトの同期だった。
「いやいや、おかえりなさいじゃねーから。なんだよ。俺に何か用事か? だったらふつうにバインすればいいのに」
「そのちょっとマモルさんに折り入ってお願いがありまして」
「えー、なんか気持ち悪いなぁ」
「まあまあ、そう言わずにとりあえず中に入りましょう」
「なんのとりあえずだよ」
「いいから早く早く」
「まじかよ。ちっ、仕方ねぇな」
セイジとはバイトで知り合った友人以上の関係性はない。
それゆえに夜遅くに家で事前に連絡なしで待ち伏せされていたことに生理的嫌悪と面倒臭さを感じたが、基本的に流されやすい性格のマモルはセイジを強く拒むことができなかった。
「おじゃましまーす」
「何の用だか知らねぇけど、さっさと帰れよ。俺明日一コマなんだから」
「……」
「え? ちょっと待ってなんで無視? お前本当に帰るんだよな?」
部屋の鍵を開けると、まるでお忍びで彼氏の家に泊りに来ているアイドルかのような動きで、ぬるっと中にセイジは入っていく。
マモルの嫌な予感は加速度的に強さを増していて、やっぱり今晩も酒を飲めないかもしれない気がし始めていた。
「だいたいこんな時間に大丈夫なのか? 親には言ってあるのかよ」
「親に関しては大丈夫です。伝えてあるようなもんなんで」
「そうなのか? ならまあ、いいけどさ……」
若干セイジの言い回しに違和感を覚えたが、マモルはそれ流してしまうことにする。
バイト後の疲労感で、頭があまりうまく働かなかったのだ。
「それにしても相変わらずマモルさんの部屋は綺麗ですね。彼女いないのに」
「彼女いないの関係ねぇーだろ。というかそれお前もだろ?」
「僕にはコイビトがいるんで。もう十年以上会ってませんけど」
「あー、そういや前もなんかそんな感じのキモイこと言ってた気がすんな」
持ち帰ってきた揚げ物を電子レンジの中に放り込むと、マモルは冷房の電源を入れ、洗面台で手を洗い喉をうがいした。
セイジがマモルの部屋に来るのはこれが初めてではない。
前にも何度か彼の部屋で一緒にタコヤキをつくったりしたこともある。
たしかに二人は友人以上の関係ではないが、れっきとした友人同士ではあるのだ。
「お前メシはもう食ったの?」
「いや、まだです」
「じゃあエビフライやるよ。今日の廃棄」
「僕、昨日もエビフライ食べたんですけど」
「じゃあ食うな」
「貰います」
ぶっきらぼうな態度が目立つが、なんだかんだで面倒見のいいマモルはセイジにコップを用意すると、冷蔵庫で冷やしてあったウーロンチャを注いでやる。
自分でも気づかないうちに準備したのか、炊飯器の米も炊かれていたので、セイジの分だけ茶碗によそった。
「お前ソース派だっけ」
「おろしポン酢派です」
「気が合うな」
バイト先から大量にくすねて常備してある小袋のおろしポン酢を取り出し、マモルはちゃぶ台の上に幾つか置く。
冷蔵庫から今度はアルコールの代わりにペットボトルの炭酸水を一つ手に取り、心地の良い泡の刺激を喉に流し込んだ。
チンッ!
電子レンジが役目を終えたことを知らせる鐘を鳴らす。
エビフライが二本と一口サイズのヒレカツが六枚。
それらをちゃぶ台上に並べると、そこでやっとマモルも座布団の上に腰を下ろした。
「それで? 俺に何の用だ? さっきも訊いたけど、わざわざ直接会いに来る必要あったのか?」
「いきなり押しかけちゃってすいません。今、スマホをネットにつなげなくて」
「なんだそりゃ。ぶっ壊れたのか? それとも通信制限?」
「どっちでもないです」
どっちでもないなら、なんなんだ、とマモルは思ったが、詳しく追及してもあまり楽しいことにはならない気がして、尋ねはしなかった。
ヒレカツにおろしポン酢をかけ、割り箸でひょいと口に運ぶ。
ねちょねちょとした衣の食感は慣れると案外悪くない。
「マモルさんって、車の免許持ってますよね?」
「持ってるけど、だからなんだよ。どっか行きたい場所でもあるのか?」
「ホッカイドウに行きたいんです」
「お前バカ? 遠すぎんだろ」
高校を卒業した後の春休みに合宿で運転免許証をマモルはすでに取得済みで、そして二十歳の誕生日に両親から自動車を譲り受けている。
だがそれを差し引いてもセイジの頼みは度を超えていると感じた。
カントウ圏内ならまだしも、ホッカイドウとなると気軽に行くことはできない。
記憶では海通トンネルがあるため不可能ではないが、時間的にも体力的にも車でトウキョウシティからホッカイドウに行くのは正気の沙汰ではないように思えた。
「さすがにそれはむりだわ。というか飛行機使えよ。たしかお前結構ホッカイドウ行ってんだよな? その時はいつも飛行機だろ?」
「そうなんですけど、今回は飛行機を使えない事情がありまして」
「そういわれてもなぁ」
ホッカイドウフリークなのか、セイジが暇さえあればホッカイドウに旅行しに行っていることはマモルも知っている。
それゆえにセイジがホッカイドウに行きたいと言いだすこと自体には特に何とも思わないが、車で行こうとする、しかも運転を自分に頼むというのが意味不明だった。
「金の問題か?」
「いや、お金ならあります。もし運転してくれるなら、これから僕が高校を卒業するまでのバイト代、全部マモルさんに渡します」
「なんだそりゃ。コスパ悪すぎるだろ」
基本的にセイジは週五でシフトを入れているので、マモルより稼ぎは上だった。
ただマモルも別段お金に困っているわけではなく、何となく親の仕送りだけで大学生活を送るのが後ろめたいという気持ちで空いた時間に働いているに過ぎない。
謎の金銭的支援を、しかも年下から受けても怖いだけだった。
「お前どんだけ車でホッカイドウ行きたいんだよ。ちなみにいつ? 正直意味わからんし、まったくもって不本意だが、そこまで言うならちょっと予定立ててみるけど……」
「明日。もし可能なら今日」
「は? えーと、は? 今日って何が? あと数時間で今日終わるんだけど?」
基本的に友人は大切にするタイプのマモルは、嫌々ながらも軽くデンパの入った後輩のために一肌脱ごうかと思ったのだが、目の前の少年は彼の想像以上に頭がライトニングボルトしていた。
「可能な限り早く、ホッカイドウに行きたいです」
「いやいや、いやいやいやいやいや、おかしいおかしい。いくらなんでも今から車でホッカイドウは脳みそバグり過ぎだろ。つか明日って普通に平日だぞ? 学校どうすんだよ。俺もだけど」
「休みます。マモルさんも休みます」
「待て待て、待て待て待て待て待て。珍しくお前が今日みたいな平日の夜シフト入れてないと思ったら、いったいどうしたんだよ? 何があった?」
ヒレカツを食べる手を一旦止めて、マモルは事情を訊くことにする。
前から少しだけ変わったところのある友人ではあったが、ここまでではなかった。
まず間違いなく理由があるのだろう。
「……実は僕、童貞なんです」
何を言っているんだこいつは、とマモルは思った。
全く話の筋が繋がっていない。
ドラッグストアで売られていない系統のドラッグでも買って、粘膜吸引したのではないかと本気で疑うくらいには話している内容が理解できなかった。
「あー、えと、その、お前がまだ童貞なのは何となく知ってるけど、それがどうした? ホッカイドウのススキノでも行きたいの?」
「違うんですマモルさん。僕は童貞です。“この国の意味するところの”、童貞なんです」
「……はっ!? お前まさかっ!?」
しかしここで唐突な童貞宣言の意味を思い当たったマモルは戦慄する。
今年で二十一になるマモルの三つ下の学年ということは、今年度でセイジは十八歳を迎えるということだ。
「……お前誕生日、いつなんだ?」
「七月二十一日です」
オオゥ、と声にもならない呻きをマモルは漏らして、信じられない思いで数秒間カレンダーを見つめてみる。
しかし穴が空くのではないかというくらい強くカレンダーの今日の日付を睨みつけても、何も変わることはない。
ニッポン政府の規定では“童貞”という言葉は、十八の誕生日を超えても性的経験のない男を指す。
そしてこの国では童貞が存在することは認められていなかった。
「お前、童貞、なのか?」
「はい、僕は、童貞です」
縋るように確認するが、セイジから返答はさっき聞いたものと全く同じ。
それはありえない、ありえてはいけない存在がまさに自分の家にこの瞬間存在していることの証明だった。
「……よし、わかった。セイジ、お前、今すぐ俺の家から出てけ。そんでもって警察でもSeIReでもどっちでもいいから、素直に出頭してこい。あ、エビフライは持って行っていいぞ」
「ちょっとマモルさん!?酷くないですか!? 僕たち友達じゃないですかぁ!? 見捨てるなんて薄情ですよ!」
「うるせぇ! この性犯罪者! さっさと俺の家から出てけ! よくも童貞だってことを隠して図々しくも俺の家に上がりやがったな! スマホがネットに繋げないってそういうことかよ!」
「お願いします! マモルさん! もうマモルさんしか頼れないんです! 電車もバスもたぶんSeIReに見張られていて、身動きが取れないんですよぉ!」
すっと立ち上がり、マモルはセイジの荷物を持って部屋の外に放り投げようとするが、そこにセイジも抱き付くようにしてそれを阻止する。
できる限り友人のことは助けたいという想いはマモルも持っているが、相手が性に関わる法律を破った性犯罪者であれば話は別だ。
このままでは犯罪補助や、犯人隠匿の罪で自分まで犯罪者になってしまう可能性があった。
それはあまりにリスキーな事で、付け加えていえばそもそもどうして貞操維持禁止法を破るような真似をしたのか到底理解できない。
この現代ニッポンでは十八を超えた童貞は常軌を逸した性癖を持つ、精神異常者として扱われていたのだ。
「お前なに考えてんだ? なんで童貞なんだよ? 要するに指名手配犯だろ? しかも逃げ回ってるし。ああ、最悪だ! 頼むから早く帰ってくれ!」
「お願いします! マモルさん! じゃあホッカイドウまでとは言いません! せめてカントウの外まで! トウホクのどっかまで送ってください!」
「嫌に決まってんだろ! 誰が童貞なんか車に乗せるか!」
友人だと思っていた相手に裏切られ、さらに犯罪の共犯のようなものまで懇願されてはたまらない。
マモルは一刻も早くこの危険思想の持ち主から距離をおかなければと考えていた。
「お願いします! マモルさん! 男、大塚セイジ、一生のお願いです! マモルさんにとんでもない迷惑をかけていることは重々承知です! でも! それでも僕はまだ童貞を捨てるわけにはいかないんです!この御恩は必ず返しますので! どうかご慈悲を!」
セイジはこれ以上ないほど綺麗な土下座をしてみせ、性犯罪者とは思えないほど純粋な誠意をマモルに伝える。
いったい何が彼をここまで駆り立てるのか。マモルは少しだけ興味を抱いた。
「もうこの際トウキョウを出られればそれで構いません! そこから先は自分の足でホッカイドウに向かいますので! どうかお願いします!」
「セイジ、お前……」
まだ十八になったばかりのセイジは当然運転免許証を持っていない。
それゆえにSeIReとしても自動車を使用して移動するとは予想しないだろう。
彼はれっきとした犯罪者なので、他人がドライバーとして力を貸すとは思わないはずだからだ。
鼻で一度深呼吸をすると、マモルはセイジのリュックサックを横に置いて、自分も座布団に座り直す。
なぜ法を破ってまで貞操を貫くのか、恥を忍び友人を巻き込んでまでホッカイドウを目指すのか、とりあえずはその話を聞いてみようとマモルは考えたのだ。
「……わかった。とりあえずワケを話すだけ話しえてみろ。それ次第じゃトウキョウを出るくらいなら考えてやってもいい」
「マモルさん! ありがとうございます!」
「でも期待するなよ? 少しでも納得できないと思ったら速攻で追い出す」
ありがとうございます、ありがとうございます、と鼻を啜りながらセイジが何度もマモルに感謝を重ねて伝える。
妙に気まずい気分になったマモルは、ティッシュボックスを手に取り、セイジの方に投げた。
「……今から十年以上も前のことです。僕がまだ小学校にも入っていない頃、ずっと仲良くしていた女の子がいたんです」
そしてセイジはポツリポツリといった調子で語り始める。
マモルは冷蔵庫の中から未開封のハイボール缶と取り出し、いつでも飲めるようにちゃぶ台の上に置いた。
セイジの事情が助けるに値しないと判断したら、その瞬間一気にアルコールを摂取して酩酊状態になりそのまま眠り込んでしまうつもりだった。
「僕は幼い頃ちょっと内気なところがあって、まあ今も何ですけど、とにかく今よりももっとシャイというか自分の世界に閉じこもるタイプだったんです。そのせいで友達が中々できなくて、いつも一人で過ごしていました。両親も共働きだったので、本当に一人ぼっちだったんです」
ズズッと勢いよく一度鼻をティッシュペーパーでかむと、セイジは喉が渇いたのかウーロンチャを飲む。
ワンルームの部屋にしては冷房が効きすぎ始めているような気がして、マモルは温度を二度上げた。
「そんな時でした。彼女に僕が出会ったのは。僕がいつものように一人で公園で遊んでると、寂しそうな顔をして隅っこに座り込んでる可愛らしい女の子が一人いたんです。あまりにも寂しそうにしてるから、僕は黙ってその子の隣りに座りました」
世間話のような雰囲気で前に一度マモルは軽く聞いたことがある。
セイジには昔からずっと心に決めた相手がいると。もうずっと長いこと、たった一人の少女に恋をし続けているのだと。
どちらかといえばドライな恋愛観を持つマモルからすれば、それは御伽噺のような、半分冗談みたいな話だと思っていた。
「一時間くらいですかね。その時は一瞬に感じましたけど、だいたいそれくらいは一緒に隣り合って座ってたと思います。何を話すわけでもなく、ただただ、二人で一緒に何でもない時間を過ごした」
案外気にしいの面を持つマモルからすれば、無言で一時間も他人と過ごすのは苦痛に思える。
言葉を交わさずとも満足できる関係性には少しだけ憧れを抱いた。
「そしたら、彼女言ったんです。“どうして、わたしのとなりにずっと座ってるの?”、って。だから僕は答えました。“だってきみが寂しそうにしてたから”、って。彼女はさらに言いました。“ならどうしてずっと黙っているの?”、と。僕は思ったことをありのまま伝えました。“だってきみはもう寂しくなさそうだったから”、と」
すると彼女は一瞬驚いた顔をした後、本当に嬉しそうに笑いました、その笑顔が本当に可愛くて、きっと僕はその時からずっと彼女に惚れているんです。
そう続けるセイジはどこか恥ずかしそうで、今のマモルには眩しく見えた。
小学校に入る前の事なんて、もうマモルはほとんど覚えていない。
それどころか小学校、中学校の頃の記憶すら怪しかった。
きっと自分にも沢山の輝かしい思い出があったはずなのに、そのどれもが今はくすんでしまっている。
中学校の時に、同じ部活の先輩で童貞を捨てたマモルは、高校に入ってからも何人かの同級生と付き合って女性の穴という穴を見てきたが、彼女たちに自分が惚れていたかというとそれは疑わしく、どんな言葉を交わし合ったのか、数分後には忘れるのがデフォルトのピロートークを抜きにしてもまるで覚えていなかった。
「それから僕と彼女は仲良くなって、毎日のようにその公園で会うようになりました。口下手な僕も、彼女となら普通に喋れました。きっと彼女が凄い人と話すのが得意な子だったんだと思います。それから僕は彼女のおかげで少しずつ明るくなっていて、他にも友達ができるようになっていきました」
たった一人の女の子との出会いが自分の人生を変えたと、嬉々として語るセイジは本当に幸せそうだった。
実際には十年以上も前のことなのに、まるでついさっきの出来事のようにありありと語る。
「だから僕言ったんです。彼女にありがとうって、君のおかげで僕は変われたよ、何か恩返しをさせて欲しいって」
そしてその恩返しは約束をすることだった、とセイジは言う。
「……コイビトになる。僕はそう約束しました。今の僕がいられるのは彼女のおかげなんです。だから僕は、彼女に次会うまでは、絶対に童貞を守り抜きます。コイビト以外とはエッチなことをしちゃいけないとも、彼女は言っていましたから」
それはあまりに幼稚で、儚い約束事に思えた。
相手の子がその約束をどこまで本気で口にしたのか、たとえその時本気だったとしても、これほど時間が経った今、まだその約束を覚えているか。
希望は薄い。
分が悪い賭けだとマモルは思った。
「その約束をした日を最後に、彼女はホッカイドウに引っ越すとだけ言って二度と姿を見せませんでした。でも昨日、ついに彼女の手掛かりを見つけたんです。あともうちょっとなんですよ。あともうちょっとで、彼女にまた会えるかもしれないんです」
マモルは目頭に手を当て、乾燥した空気を肺に吸い込む。
国を敵に回してまでも叶えようとする夢。
その夢にそこまでする価値はあるのだろうか。
大学入学当時の苦い記憶を思い出し、マモルは心を痛める。
信じれば信じるだけ、想いが募れば募るほど、裏切られた時の痛みは大きい。
「……もしその女の子にもう一度会えたとして、向こうが約束を忘れてたらどうする? いやそれどころかお前のことを覚えてすらいないかもしれない」
「それならそれで構いません。僕との思い出を忘れてしまうほど今が幸せなら、それも僕の幸せです」
それはきっと今まで裏切られた経験がないから言える言葉。
ただマモルは自問してみる。
自分は誰かのことを、ここまで己が賭けたコストを度外視してまで信じたことがあっただろうか、そこまでの覚悟を持って誰かを愛したことがあるのだろうかと。
それでも敵は手強い。
SeIReがこれまで逃した童貞の数はゼロ。
また相手の女の子が約束をまだ秘めている可能性もまたほとんどゼロに思える。
しかしそこまで誰かを愛することができるのは、それが最後にバッドエンドで終わってしまうとしても、価値のあるものだと思えた。
この夢見がちな愚かな童貞の紡ぐ物語を、せめての道中くらいは救いがあってもいいような気がしていた。
「……なるほどな。話は分かった。お前の覚悟がどれくらいのもんなのかもな」
「え? じゃあもしかして——」
「だが俺は明日大学の一コマの授業が出席日数ギリギリなんだ。俺はもう食べたら寝る。お前も今日はうちに泊めてやるから食べ終わったら適当なところで寝ていいぞ」
「——そう、ですか。わかりました。ありがとうございます。それでは少し寝かせて貰います」
一瞬セイジは声を張り上げようとするが、すぐにそれは沈み込んでしまう。
それからは黙り込み、残ったエビフライをやけにゆっくりと咀嚼しては、満腹状態のオランウータンのような動作で白米を口に運んでいった。
「明日は八時には家を出るからな。寝坊すんなよ」
「はい。わかりました。それまでには起きて出ていきますね」
「なに言ってんだ。一緒に家でなきゃ意味ねぇだろ」
「え? どういう意味ですか?」
少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべるマモルはヒレカツをさっさと平らげると、炭酸水をゴクゴクと飲み干し、ハイボールの缶を“未開封”のまま冷蔵庫にしまうのだった。
「決まってんだろ。明日ホッカイドウに行くからだよ。大学の授業の出席確認はICカードをタッチするだけでいい。数秒大学に立ち寄ったら、そのままの足でホンシュウを出るぞ」
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