サイレン



 セイジは海鮮丼を、マモルは豚骨ラーメンを綺麗に平らげた後は、数十分身体を休めた後、もうナスぽーとを出ることにした。

 急いではいるのだが、駐車場に直帰するのも何となくもったいない気がした二人は、無駄に遠回りをして軽く店を見て回ることにする。

 見て回るといっても実際に入ることはしない、冷やかし以下のウインドウショッピングである。


「こういうとこでデートとかしてみたいですね」


「男二人の時にそういうこと言うなよ。むなしくなるだろ」


 自分で自由にグミやキャンディーを袋詰めにして、計量した分の値段で購入できるタイプの西洋風駄菓子屋や、カップルがこぞって並んでいる湯葉みたいにひらひらとしていて虹の如くカラフルな氷片が特徴的なかき氷屋など、もしここを富岡ミユリと一緒に来れたらどれだけ楽しいかとセイジはついつい妄想してしまう。

 オーソドックスな味が好みの自分は一番人気と書かれているマンゴー味のかき氷を選んで、意外にちょっと天邪鬼なところのある彼女はタピオカ付きミルクティー味のかき氷を選ぶだろうな、とセイジが一人でニヤつき始めたその時、突然マモルが歩く速度を急激にペースダウンさせる。


「でへへ。一口ちょうだいとか言って、あーんしてくれたりするのかなぁ、でへへ」


「おい、セイジ、あれ見ろ」


「二人であれがいい、これがいい、とか言い合って、食べ切れないくらいのグミ買っちゃって、二人で笑い合うだろうなぁ、でへへ」


「おい! セイジ! だからあれ見ろって!」


「ウギョッ!? な、なんですかいきなりマモルさん!?」


 いつまでもファンタジーの世界から帰ってこないセイジの脇腹を小突き、強制的に現実に引き戻すと、マモルは顎で前の方を指し示す。

 そしてセイジも遅れて気づく。もはや幸せな妄想に浸っている時間はなくなっているのだと。


「……SeIRe、ですね」


 シックなタイトスカートにブラウス姿。

 そして何より特徴的な顔の上半分だけを隠した仮面を被った二人組の女。

 それは間違いなく貞操管理者であり、セイジの貞操を強制的に奪おうとする獰猛な政府の狂犬であった。


「どうする。ここでいきなり立ち止まったり、方向転換したら気づかれるかもしれない。だからといってこのまま歩いて行っても、バレずにすれ違える可能性も低いぞ」


「そう、ですね。どうしましょうか」


 さりげなく帽子を深く被り直しながら、セイジもマモルに合わせて歩く速度を落とす。

 通路には沢山の人がいるが、相手はSeIReだ。

 その身体能力、洞察力は常人の比ではない。

 少しでも怪しい動きをすれば彼女たちの目に留まり、捕まってしまうことはずだ。


「……僕がおとりになります。その間にマモルさんは駐車場に行って、車を外に出しておいてください」


「大丈夫なのか? 相手は国家有数のエリートだぞ? 撒けるのかよ?」


「なんとかしてみせます。童貞のプライドって奴を見せつけてやりますよ」


「世界で一番頼りないプライドだなそれ……」


 胃袋の中のイクラとマグロが驚かないように、セイジは腹部を手で何度かさする。

 これから息の続く限りの全力疾走タイムだ。

 自己ベストが出るであろうことは走り出す前から分かり切っていた。


「じゃあ東口から出たところの噴水あっただろ。あそこら辺で待ってる」


「わかりました」


「こんなところで捕まるんじゃねぇぞ」


「もちろんです」


 マモルが小さく拳をかざす。

 そこに力強く自分の拳を合わせると、数秒間の呼吸を置いてから、いきなりこれまで歩いていた方向と反対側にセイジは走り出した。

 その瞬間、後方から耳障りなサイレンが鳴り響き始めた。

 おそらく自分の存在に気づいた貞操管理者が一般市民に道を開けてもらうために、自前の警報器のスイッチを入れたのだろうとセイジは推測した。


「はぁっ……はぁっ……はぁ……っ!」


 ちらりと後ろの様子を横目で見てみる。

 すでに駐車場に向かったのであろうマモルの姿はどこにも見つからず、目に入るのは人混みを掻き分けて追いかけてくる二人組の女だけだった。

 それにしてもまさかここで見つかるとは。

 トウキョウシティの外に出たことすらまだ気づかれていないと思っていたにも関わらず、実際はこれほど近くにまで迫って来ている。

 どんな方法で場所を特定したのかは不明だが、さすがは政府公認の超人集団だ。

 セイジは相手を過小評価していたこと認める。


「そこの帽子を被った少年! 止まりなさい! 私たちは貞操管理機構の者です! もしこれ以上私たちの勧告を無視して逃走を続ける場合、公務執行妨害の罪に問われる可能性があります!」


 並んで走る二人の貞操管理者の内、背が高く赤縁眼鏡をしている方の女がよく通る声で叫ぶが、当然セイジは全く止まる素振りを見せない。

 口端に溜め込んだ泡をまるで気にもせず、一心不乱に走り続けた。

 何度か通路の人にぶつかってしまい、申し訳なさで一杯になるが、今だけは立ち止まることができなかった。

 できるのは口からシャボン玉みたいになった唾液を飛ばしながら、大声でごめんなさいを連呼することだけだ。


「無駄よ! 大塚セイジ! 私たちからは逃げられない!」


 あからさまに異様な逃げっぷりに、貞操管理者の女もセイジが件の指名手配童貞であるだと断定したらしく、サイレンのパターンがより間隔の短いものへと変化した。

 上階に続くエスカレーターをセイジは全て一段飛ばしで駆けあがっていく。

 昇り終わって方向転換をする際に、下の方を一瞥すると、そこにはもうエスカレーターの三分の一程度まで差し掛かっている貞操管理者の女が一人見えた。

 ウォーターメロンのように巨大な乳房をドゥルン! ドゥルン! と揺らす姿は非常に走りにくそうに見えたが、その速度は驚異的で確実に距離を縮めていた。


「ひぃっ……ひぃっ……ひぃいいっ!」


 空気が喉に貼り付き、痰を何度も飲み込む。

 元来運動が得意なわけでもない。

 セイジの足はすでに何度ももつれかけていて、腹部は激痛でいつ攣ってもおかしくない状態だった。

 まずい。

 このままでは非常にまずい。

 段々と音量を増しているサイレンは、貞操喪失のカウントダウン。

 ヒメグモのように生殖器官が二つあれば、その片方を千切って捨てたいくらいだった。

 しかし実際にはセイジの生殖器は一つしかなく、着脱式でもない。


「はぁ…っ! くそっ! あんなに海鮮丼食べるんじゃなかった! 身体中の穴からウニが出てきそうっ!」


 昼食の海鮮丼のせいか吐き気を催しながらもセイジは懸命に走り続ける。

 やがて映画館の横に差し掛かったところで、ある一つのアイデアが頭に浮かび、迷わず館内へ突っ込んでいった。

 キャラメルの甘い香りが充満する中、チケットもぎりの店員を完全に無視して奥へと駆けこんでいった。

 新設の劇場だけあって中は広々としている。

 一回角を曲がると、セイジはまだ貞操管理者の女が来ていないことを確認してから六番スクリーンの中に入り込んだ。

 すでに映画は上映中で、内部は暗闇となっている。

 一番後ろの最上部まで行くと、そこで身を屈めてセイジは息を潜めた。


『あん……だ、だめ、むりよ……こんな大きいモノ、入りっこないわ……』


『知ってるかい? ボクらフジツボ星人のオスのブツは生まれ育った場所で形が変わるんだよ』


『ああんっ……うっ……いあ……はぁ、はぁ……いやあ、入ってくる、固くて、太いのが、はいってくるンっ!』


『波の穏やかな場所で育ったフジツボ星人のオスのブツは細長いらしいけど、ボクは波が荒いところで育ったからね。もしかしたら君には刺激が強すぎるかもしれない』


『あっ……あっ……アアんっ! すごっ!すごぃクるぅっ! い、イクぅ! もうイっちゃううンっ!』


 パァン! パァン! と劇場内に響く映画の音声を耳にしながら、静かにセイジは時が過ぎるのを待っていた。

 十秒、二十秒、三十秒、四十秒、四十五秒、五十秒。五十一秒、五十二秒。五十三秒。

 腕時計にデジタル表記された数字がちょうど一周、すると、まだ平常時の半分程度しか整っていない肺で一度深呼吸してから、セイジは六番スクリーンから慎重に出ていく。

 抜き足差し足忍び足。

 こそ泥のように不審げな足取りで(事実指名手配中の犯罪者なのだが)ゆっくりと劇場の外へ向かう。

 見る限りでは貞操管理者の姿は見えない。

 無事撒くことができたのだろうか。

 セイジは早歩きでごったがえしの人混みに上手く紛れ込むと、そのまま映画館からナスぽーとの通路へと出た。

 これでやっとマモルと合流できる、そうほっと一息を吐いたその瞬間、ブィイイイイン! とのけたたましいサイレンが鳴り響いた。

 音の方に顔を向ければ、そこには真っ赤なルージュの塗られた口元をニヤリと笑わせる貞操管理者の女の姿。

 距離は数十メートル程度の差しかない。

 最終的に再び映画館の外に出てくることを見透かされ、待ち伏せされていたのだ。


「くそおおおおおっっっ!!!!!」


 踵を返し、再び全力疾走。

 せっかく整えた呼吸はコンマの間に乱調塗れになり、もう自分が息を吐いているのか吸っているのかすらわからなくなった。

 だが貞操危機を知らせる警報の音はこれまで以上に傍に感じ、その音も加速度的速さで大きくなっていく。

 数十秒後には、追いつかれる。

 絶望的な焦燥感に支配されたセイジはとにかく貞操管理者の女の視界から消えようと、曲がり角の細い通路に勢いよく突っ込む。

 すると目の前に表記されたのは“REST ROOM”の文字。

 青と赤で分けられたこれまでの人生で何度も自らの膀胱と肛門に救済を与えてきたヒエログリフに、ここまで絶望を感じたのは生まれて初めてのことだった。


「終わった……」


 男子トイレと女子トイレ。

 そのどちらを選んでも、自分が逃げ切る未来を見ることはできない。

 男子トイレに入れば当たり前のように追い詰められ、女子トイレには入れば追い詰められることに加え求刑される性犯罪の種類が一つ増えることになる。

 万事休す。

 もはやこれまでか。

 もう音圧を感じる程迫って来ているサイレンを背中に受けながら、セイジは茫然と立ち尽くすことしかできなかった。


「——こっち来て!」


 とうとうSeIReの手に落ちるというその寸前、突如セイジの肉のほぼ付いていない業務用スーパーで売られているフライドチキンのように細い腕が力強く引っ張られた。


 いったい何が起きている?


 あまりに突然の出来事で全く現状を理解できないまま、セイジは狭く息苦しい場所に閉じ込められたのだった。




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