オンジン



「ふふっ、ばかな子。その先は正真正銘の行き止まりよ」


 焦って周りの見えなくなったセイジがトイレの案内板が書かれた方向に消えた瞬間、彼をずっと追い続けていた貞操管理者の女——武久井レンカは強制貞操管理権施行中を知らせるブザーのスイッチをオフにする。

 数分間全力疾走を続けていたにも関わらず身体には汗一つかいておらず、心肺もすぐに普段通りのペースに戻る。

 獲物はすでに袋の鼠だ。

 レンカは余裕の態度でトイレへと繋がる細道へ進んでいく。

 セイジの姿はまだ目に入らない。

 何とも往生際の悪い少年だとレンカは失笑した。

 まずは当然、男子トイレの方に入っていく。

 唐突にグラマラスな美女が闖入してきたことに小便器で用を足す一人の中年男が驚いていたが、それを完全に無視してレンカは個室の方へ進んでいく。

 だがそこで不可解な事に気づく。

 個室の扉は全て開かれていて、誰も中に入っていないのだ。


「まさか……っ!」


 血迷った童貞は何をしでかすかわからない。

 危険な二次被害が起きているかもしれないと急いでレンカは女子トイレの方へ向かう。

 女子トイレ内は閑散としていて、一見目立っておかしな点は見当たらない。

 ただ幾つかある個室の内、一つだけが扉が閉まっていて、使用中の状態になっていた。

 レンカは確信に口角を上げる。

 間違いなくセイジはこの中にいる。

 この切迫した状況下であえて女子トイレに入るという勇気は評価するが、それは悪手だ。

 ただの悪あがきにしかならない上に、余計な罪を一つ増やすことになってしまう。

 さっさと捕まえて、さっくり童貞を奪って、SeIRe本部に送り届けて、それで仕事が終わる。

 レンカは今晩は自分へのご褒美でジョボォ苑の焼肉でも食べようかと考えながら、その唯一扉の閉められた個室をコン、コンと二度ノックする。

 こうして扉を叩き、返事がなければ貞操管理者権限でむりやり扉をこじ開けてそれで終わり。

 その、はずだった。


「……すいませーん。まだ入ってまーす」


「え?」


「ごめんなさーい。もう少しかかりそうなんで、急ぎなら他の人か、別の場所のトイレにお願いしまーす」


「あ、ごめんなさい。その、えーと、どうぞ、ごゆっくり」


「はーい。どうもでーす」


 しかし扉の内側から返ってきたのは、明らかに若い女性のものと思われる声。

 セイジがむりに裏声で女性のふりをしてるとも到底思えないものだった。

 混乱に陥ったレンカは数秒の間茫然と立ち尽くすが、すぐにショックから立ち直り、急いでトイレの外に出た。

 男子トイレ、女子トイレ共にセイジの姿はなかった。

 考えられる可能性は一つだ。

 先に男子トイレの中を調べていた時に、どうやったのかは知らないが自分の動きを読み切り、すれ違うようにして先に通路の方へ戻ったのだ。

 出し抜かれたことに歯噛みをしつつ、レンカはセイジの逃走方法をそう断定し、自慢の脚力で再び走り出す。

 まだそこまで遠くには行っていないはず。

 出口に繋がる方に向かってレンカはそのままその場を去って行くのだった。





 ドクン、ドクンと胸が高鳴っているのが分かる。

 緊張に生唾を飲み込む。

 それはもうこの数秒間で二桁にものぼる回数。

 ただでさえ息苦しい四方を壁に囲まれた空間にも関わらず、さらに今は物理的にも精神的にも窮屈な状態におしやられている。一秒が永遠にも感じられる時間だった。


「……もう行ったみたい」


 鼻頭に甘い吐息がかかる。

 酩酊しそうになる香りに平常心を保ちながら、セイジは自分の窮地を救ってくれた相手に対して感謝の言葉を伝えることにした。


「あ、ありがとうございます。助かりました」


「にゃはは、だからタメ口でいいって言ってるのに」


 互いにしか聞こえないような囁き声で会話をする男女。

 彼らが今いるのは女子トイレのとある個室だった。

 セイジがレンカに追い詰められ、トイレの前で案山子カカシのように立ち尽くしていると、その時どこからともなく一人の少女が現れ、セイジを女子トイレの個室に匿ったのだった。

 レンカが数秒の間を置いて女子トイレにやってきたが、個室がノックされた時にその少女が返事をしてくれたおかげでやり過ごすことができた。

 その中に一緒にセイジが入っていたとはつゆも思わなかったはずだ。


「あ、そう? なら砕けた口調でいかせてもらうけど……その、君ってフードコートで会った子だよね?」


「わーい。お兄さん、覚えていてくれたの? うち、嬉しい」


 危機一髪のところを救ってくれた桃色の髪をした少女の記憶はセイジにとって新しい。

 彼女はまさに三十分ほど前にマモルと昼食をとる前に、うっかりぶつかって水をかけてしまった相手だった。


「ほら、服も乾いたんだよぉ」


「ううんっ!? そ、そうみたいだねぇ!」


 少女はシャツの襟を両手で摘まむと、セイジによく見えるように前の方に引っ張ってみせる。

 ただし小柄な体躯のわりにオーバーサイズの服を着ているので、その際に胸元が大きく開いてしまい、かなりの至近距離にいるということもあり鮮やかな色の下着が視界に入ってしまう。

 これでセイジがその少女のブラジャーを見るのは二度目だ。

 今回はブラジャーのレースの形状まで確認することができた。


「なぁにぃ? どうして顔が赤くなってるのお兄ぃーさん?」


「い、いや見てないから! たとえ網膜にそれが映ってたとしても、短期記憶だからすぐに忘れるよ! だから大丈夫!」


「それってなによ。にゃはっ、やっぱりお兄さん面白い人だね」


 短期記憶だからといって何も大丈夫ではないし、そもそも完全に長期記憶として海馬の皺底にその華麗な刺繍は刻み込まれていた。

 そんなセイジのことをヘーゼルアイで真っ直ぐと見つめる少女は、十代半ばに差し掛かるかどうかという外見にそぐわない妖艶な笑みを浮かべる。


「そ、それで、君に助けて貰ったことは大変ありがたいんだけど、僕、急いでるから、その、なんというか、そろそろ行かないと……」


「ふーん?」


 そしてセイジはそろそろ女子トイレの個室から出たいという旨を桃髪の少女に伝える。

 中に入った時からずっとそうなのだが、今はセイジが便座の上に座り、そのさらに彼の上に向かい合うような体勢で少女が座っている状態だった。

 マモルの下へ行きナスぽーとから離れるという理由以上に、自制心的な意味でも限界を迎えつつあった。


「さっきの女の人、SeIReの人だよね? なんでお兄さん追われてたの?」


 ムチィ! ムチィ! と二回ほどセイジの膝の上で少女は謎にバウンドする。

 ホットパンツを履いているため露わになっている瑞々しい太腿の肉感が、ダイレクトに伝わってきてしまう。

 その弾性力抜群の刺激に局部のアムステルダムが決壊し大洪水を引き起こしてしまいそうになるが、アンネ・フランクがオランダで過ごした亡命の日々を思い出しセイジは何とか心を鎮める。


「それは、ちょっとあんまり他人に言えない事情があって……」


「えー? うちが助けてあげたのに、教えてくれないの? ふーん、そういう態度なんだ。どうしよっかなー、今ここでうちが悲鳴を上げたらどうなると思う?」


 天使のように可憐な顔を悪魔のように残酷に歪ませ、少女はセイジの薄っぺらな胸板を指でなぞる。

 触っているのか触っていないのか絶妙なラインのタッチングで読み取れない文字を臍まわりに書かかれ、セイジは駄馬のようにヒヒン! と嘶きそうになるがそれも耐えた。


「わ、わかった。正直に言うよ。君を驚かせるというか、怯えさせたくなくて言いたくなかったんだけど……実は僕、童貞なんだ」


「ふーん? 童貞、ねぇ?」


「童貞って言っても、ただの童貞じゃない。十八歳を超えた、正真正銘の童貞。国家の敵だよ」


「ふーん? そうなんだ」


「僕が怖くないの? 童貞の僕が?」


「怖くないよ、童貞なんて」


 覚悟を決めて童貞であることを告白したが、少女は興味深そうに口角を上げるだけで、驚愕や動揺の気配は見て取れない。

 目の前に童貞がいるのに、この落ち着きよう。

 童貞が怖くない若い女の子がいるなんて。

 その少女のあまりに淡泊な反応に、むしろセイジの方が驚いてしまう。

 僕は指名手配中の性犯罪者なんだぞ、もっと警戒しなさい、と親心のようなものから逆に説教すらしたくなった。


「それで? なんでまだ童貞なの? 早く捨てればいいじゃん」


「えぇっ!? い、いや、まあ、普通はそうなんだけど、その、僕にはどうしてもSeIReで貞操を捨てられない理由があって……」


「どんな理由? 教えてよ。言っておくけど、ノーの選択肢はないから」


 ぐいっと少女はさらに顔を近づける。

 淡褐色の瞳はセイジを捉えて離さず、ほんのり赤みを帯びた唇は少し口をそぼめれば触れ合える距離にある。

 なぜまだ童貞なのか。

 そのシンプルな疑問に答えを貰うまで、どうやら少女はここから動かないらしかった。

 どうしてこの少女はそこまで自分に関心を持つのか、そもそも何者なのか。その全てはわからないままだった。

 それでもセイジに選択肢は存在しない。

 彼を生かすも殺すも、この場においては全てまだ名前すらわからない少女次第だった。


「……僕、約束したんだ、ずっと前に。もう十年以上も前のことだけど、コイビトになるって。一人の女の子と、約束したんだよ」


「約束、ね。その子以外には、童貞を捧げないって決めてるわけ?」


「そういうことになるかな。きっと皆は僕のことを馬鹿だと思うんだろうけど、どうしてもこの約束だけ守りたいんだ」


 とある少女と約束をした事、その子と次会う日までは絶対に童貞を捨てないと決めていることをセイジは告白する。


「でも十八歳なのにまだ童貞ってことは、その子とは会えてないってことでしょ? もう諦めたら?」


「つい最近、やっとその子がいる場所が分かったんだ。だから、あともう少しだけ、ほんの数日あれば僕は約束を果たすことができる。また彼女に、逢えるんだよ」


 なるほどね、とセイジの熱い思いが届いたのか、少女はゆっくりと顔を離すと何かを考え込むように顎に手を当てた。

 見ず知らずの年下の少女に童貞であることを知られ、さらに約束の事まで話すのはどことなく恥ずかしい気分になった。


「……お兄さん、名前は?」


「え? あ、僕の名前はセイジ。大塚セイジ」


 唐突に名前を訊かれ、反射的にセイジは答える。

 セイジの名を知った少女は勝手に彼の手を取り、猫のような目を細めて笑うのだった。


「うちの名前は石沢セナ。“これから”よろしくね、セイジ?」





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