アメフラシ
フェリーの屋外ラウンジ。
湿っぽい風が吹き込み、波が船にぶつかってくるような荒々しい音だけが闇夜に響き渡る場所でカオルが金髪を靡かせていた。
なりゆきでホッカイドウ行きのフェリーに乗ってしまったが、自らの役割がどんなものなのかをカオルはすでに理解している。
久し振りに肩まで湯船に浸かって、バイキング形式の夕食を取ったことで身体はだいぶ元気になったことだけで、よしとするべきだと思っていた。
そろそろあいつを探しに行くか。
カオルは弟から託された役目を果たすために、どこまでも続いているかのように見える真っ暗な水平線に目を泳がせるのをやがてやめてしまう。
「あ、カオルさん。こんなところにいたんですか」
「おー、大塚セイジ。ちょうといいところに来たわね」
するとカオルの方へ、彼女と同じくらいの背丈をした少年が近寄ってくる。
それは風呂上がりらしきセイジで、どうしてか少し疲れたような顔をしていた。
「どうしたのよ少年。なんだか元気ないじゃない。あんたの待ち望んだホッカイドウまであともう少しよ? それなのにどうしてそんな情けない顔してるわけ?」
手すりの上に寄り掛かるようにするセイジは、元々そこまで活発な雰囲気の少年ではないが、それにしても普段より萎びた気配を漂わせていた。
「カオルさん、僕のしてきたことは本当に正しいことだったんでしょうか。僕は約束を言い訳にして、色々な人に迷惑をかけてきました。僕は全部自分の覚悟だと、覚悟さえ揺るがなければそれでいいと思っていました。でも本当にそこまでして貫き通す価値のある覚悟だったなかなって」
「なんだそんなこと。馬鹿ね、あんたのしてきたことが正しいことなわけないじゃない。自惚れないでよ。あんたはただの童貞。どうしようもないただの性犯罪者よ」
「うあぁ……そ、そうですよね。やっぱり僕は間違ってたんだ……」
内なる苦悩を吐き出したセイジのことを、あっさりとカオルは切り捨てる。
彼女からすれば法を破ってまでも童貞を守り続けるなど、完全に理解の範疇を超えていた。
今でもSeIReに出頭するのが最も正しい行為だと信じて疑わない。
「あんたの覚悟に価値があるかどうかなんて、正直あたしはないと思ってる。……でも、それがなんなの? あんたの覚悟に価値があるかどうかを決めるのはあんた自身。世界がどんなにあんたの選択を間違っていると言ってきたって関係ない。あんたがそうするべきだと決めたから、そうする。あんたの言う“覚悟”ってそういう意味なんじゃないの? 少なくともマモルはそう思ってたはずよ」
どこまでも深く広がる海に視線を落としていたセイジは、そこでゆっくりと顔を上げる。
彼の隣りで穏やかに笑うカオルは、金色の髪も相まってギリシャ神話の慈愛の女神のように見えた。
「それにあんたの覚悟はもう、あんただけのものじゃない。あんたの覚悟に価値があると思ってくれた人がいるから、今あんたはここにいられてるんじゃないの? ここで自分の覚悟を疑うことは、これまであんたを助けてくれた、あんたに賭けてくれた人たちを疑う事と同じ意味を持つわ」
「……それは、できないです。僕は、僕を信じてくれた人を裏切ることだけは絶対にしたくないです!」
「ならしゃきっとしてなさいよ。これまであんたが選んできた道は、同時にあんたのことを信じた人たちが選んだ道でもあるんだから」
きっと自分はどうしようもなく自己中心的な人間なのだろう。
しかし、今はそれでいいのだ。
そのままでいいと、前だけ見ていろと言ってくれた人たちがいる。
セイジは真の意味で覚悟を心に刻み、今度こそ二度と迷わないと誓う。
それが自らを信じてくれた人たちへの最大の恩返しとなると理解したからだ。
「やっとマシな顔つきに戻ったわね。ウミウシみたいな顔からアメフラシの顔に戻ったわ」
「え? ウミウシに、えと、アメフラシですか?」
「気にしないで。こっちの話よ」
セイジに生気が戻るのを確認すると、カオルはセンダイ港を出る前に弟にしたように頭をくしゃくしゃっと撫でまわす。
それは“別れ”の気配を感じた際に行うカオルの癖のようなものだった。
「それじゃあ、そろそろ明日の準備をしに行くわよ、大塚セイジ」
「明日の準備? なにをするんですか?」
すでに状況は最悪の場合に陥ってしまっている。
フェリーに乗り込む現場を貞操管理者に目撃されているのだ。
今頃トマコマイの港には大量の貞操管理者が待ち伏せていることだろう。
しかしこうなることを予想して、事前にマモルがとあるものを購入して備えていた。
その策を実行する役割が自分にあることを、カオルは直接は言われていないが理解している。
覚悟の価値を説いた後に、これはちょっと可哀想かもしれないわね。
でも乗り越えて貰わないと。
マモルが先に考えておいた作戦の内容を知らないまだセイジを、カオルは慈しんだ瞳で見つめる。
センダイ港で別れる時、マモルは船旅を楽しめよとカオルには言ったが、ホッカイドウを楽しめよとは言わなかった。
その意味をきちんとわかっている彼女は、名残惜しそうにセイジの黒髪から手を離す。
雲一つない夜空から照らされる果てなき海原は美しく、この景色を見れたのだったら愚かな童貞の覚悟を信じてやったかいがあるとカオルは思うのだった。
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