巨獣
クラウスは獣たちを追って走り続けた。
足はあの獣たちのほうが速い。
だがクラウスは疲れることが無い。
方角さえ間違っていなければ、いずれ追い付くだろう。
そのまま走り続けていると、なだらかな丘が見えてくる。
その丘を越えると、さほど大きくはない岩山があった。
その岩山には洞穴があり、その周りに幾匹かの獣たちの姿が見えた。
おそらくこの洞穴があの獣たちの巣となっているのだろう。
しばらくその様子を見ていると、洞穴の入口から一匹の獣が出てきた。
それは他の獣たちとはまるで違う、巨大な体躯を持った獣だった。
肩までの高さはクラウスの身長の一・五倍程度はあるだろう。
その頭には、クラウスの腕と同程度の長さの角が一本生えている。
先程まで戦っていた獣たちにはクラウスを殺すまでの力は無かった。
だがあの巨大な獣なら、クラウスを殺すことなど容易いだろう。
その爪による一薙ぎで、クラウスを肉塊に変えることも出来る筈だ。
あの巨大な獣と戦ったらどうなるかをクラウスは考える。
頭を潰されるか、武器を失いさえしなければ、クラウスは戦い続けることが出来る。
その条件を満たす以外に、クラウスが敗北することは無い。
何度肉体が破壊されようと……元の世界であれば即死しているであろう程に、致命的に肉体を損傷したとしても、数秒で元に戻る。
それを考慮に入れれば、勝ち目は薄くとも皆無では無いと考える。
無傷で勝てるような相手では無い。
不死の肉体を持っていなければ挑もうとすら思わなかっただろう。
先程の戦いと同じように、何度も死ぬような目に合うはずだ
心のどこかでは、さすがに無理かもしれないと思う自分もいる。
頭を潰され、死ぬかもしれない。
あるいは武器を失い抵抗することも出来なくなり、あの獣共の餌としてその肉を齧られ続けることになるのかもしれない。
それに恐怖を覚えながらも、その顔にはずっと笑みを浮かべていた。
「まあ……イカレてるよなあ」
手足が震える。
小さな獣共との戦いの最中に、おそらく負けることは無いと考え始めたところで一旦それは収まっていた。
だが今、それは先程より大きくなって再発している。
この場で自分は死ぬかもしれない。
その恐怖と緊張を彼は今、楽しんでいる。
クラウスは足を進め、丘を下りてゆく。
巨獣がそれに気付いた。
クラウスとその獣の視線が重なる。
獣は悠々とした足取りで、ゆっくりと近付いてきた。
あれはこの場所を住処とする獣たちの王なのだろう。
その足取りには、それを感じさせるような威厳があった。
クラウスと獣がほぼ同時に足を止めた。
それはクラウスにとっては遠い間合いであったが、獣にとっては即飛び掛かれる距離であるように見える。
獣が唇をめくりあげ、牙をむき出して唸りを上げる。
その声には並の人間であれば、それだけで戦意を喪失してしまうような迫力があった。
だが死の恐怖すら楽しむ狂人は、笑いながらそれを受け止める。
次の瞬間、獣が跳躍した。
その巨体には似合わない俊敏な動きで、それは飛び掛かってきた。
獣はその前足をクラウスの胴を薙ぐように、水平に振るう。
クラウスはそれを後ろに跳んで躱す。
巨獣は止まらず、さらに前進して、その爪でクラウスを引き裂こうとする。
その攻撃はクラウスの足元を狙っていた。
その一撃を跳躍して躱す。
だが、それは悪手だった。
宙に浮いて制御が効かなくなったその体目掛けて、巨獣が牙をむき、食らいつく。
その牙はクラウスの腹部を捕らえてその肉を引き裂き、肋骨を噛み砕く。
「ガアッ!」
クラウスは苦鳴を上げ、激痛に歯をギリギリと噛み締めながらも応戦する。
巨獣がその顎でクラウスの胴体を食いちぎるよりも早く、彼は手にした剣を逆手に持ち替え、それを巨獣の眼球目掛けて突き入れていた。
クラウスの胴体を噛みちぎろうとしていた獣は、喉からくぐもったような奇妙な声を発しながら、その顎を開く。
解放されたクラウスの身体はそのまま落下し、背中から地面にたたきつけられた。
クラウスはふらつきながらも、なんとか立ち上がり剣を構える。
数秒前までちぎれかけ、はらわたが零れだしていた胴体は既に元通りになっていた。
痛みもすでに消えていたが、その余韻のせいで呼吸は荒く、全身から冷たい汗を流している。
対する獣は震えるような唸り声を上げながら、残った目でクラウスを見つめていた。
他の獣たちも集まってきたが、巻き添えになるのを恐れているのか、一定の距離を保ち、それ以上は近付いて来ようとはしない。
巨獣がわずかに後ずさりした。
クラウスを見るその目には、わずかに恐怖の色が浮かんでいるようにも見えた。
その様子を見て、クラウスは苦笑を浮かべる。
「ああ……気持ちはわかるよ。頭を潰さない限り死なない……ふざけた体だよな? インチキにもほどがある。だがお前らは全て知った上で挑んできたんだろ? 悪いが最後まで付き合ってもらうぞ?」
おそらくこの獣はクラウスを小さく弱い、容易い相手と思っており、これ程に抵抗されるとは思っていなかったのではないか。
それが誤りであったことに気付き、自身の死の可能性を考え、恐怖が芽生えたのかもしれない。
だが、それに気付くのが遅すぎたようだ。
これは命を懸けた勝負なのだ。
お互いの命を賭け金として差し出し、勝った者のみがそれを取り戻すことが出来る。
生物であれば、死を前にして恐怖を抱くのは当然のことだ。
だがその獣の前に立つ男は、その感情すら楽しむ狂人であった。
巨獣はおびえた様子を見せながらも逃げたりはしなかった。
王であるこの獣は、配下の獣達を捨てて逃げたりは出来ないのかもしれない。
獣が生き残るためにはクラウスを戦闘不能にしなければならない。
それが容易い事では無いと、この獣も既に理解しているだろう。
ここから先は文字通り、死に物狂いでかかってくるに違いない。
そう、ここからが本番なのだ。
「フフフッ……ウフハハッ」
クラウスの口から声が漏れ出した。
今の不死身の肉体があれば勝てない相手ではない。
だがもし敗れたなら……おそらくはひと思いに殺してもらったほうががましだと思うような目に合うことになるのだろう。
あるいは頭を砕かれて死ぬことになるか。
その恐怖と困難を乗り越えたのちに訪れるであろう達成感と高揚感、それを彼は求めているのだ。
「さあ……続きをやろうぜ」
その言葉とともに、クラウスは自身の肉体を魔術で強化する。
対峙する巨獣は、口の端から泡を飛ばしながら唸りを上げていた。
巨獣が跳ねた。
跳躍しながら左前足を振り上げ、クラウス目がけて振り下ろす。
まともに食らえば上半身が丸々消し飛ばされるのではないかと思えるほどに、それは容赦のない攻撃だった。
思った通り、もはやクラウスを生け捕りにするような余裕は無いようだ。
振り下ろされた巨獣の前足に、魔術で強化した筋力で剣を叩き込みながら、クラウスは右方に向かって全力で跳んでその爪を躱す。
だが、それを完全には躱しきれなかった。
頭を潰そうとしていた巨獣の前足は、クラウスの左肩から先をその爪で
激痛が走る。
だがそれも一瞬だ。
ほんの数秒後には失った左腕は元通りになっていた。
それは冗談のような光景だった。
なんとふざけた世界だろうか。
即死の一撃を躱し、反撃を返したクラウスの頭の中では、緊張、恐怖、興奮といった様々な感情が入り乱れていた。
クラウスが獣の爪を躱しながら振るった剣は、巨獣の左前足を深く切り裂いていた。
獣は傷ついた前足を浮かせ、ぎこちない動きになりながらも、立ってこちらを睨んでいる。
獣の目に浮かぶ恐怖の色が濃くなったように見えた。
そのままクラウスと巨獣は、しばらくの間動かず睨み合っていた。
時間はクラウスに味方する。
時が過ぎるほどに、獣はその血を垂れ流し体力を失っていく。
クラウスはそのまま獣が動くのをじっと待つ。
やがて覚悟を決めたのか、獣が飛び掛かる準備をするようにその姿勢を低くする。
クラウスもそれに応じるように身構える。
次の瞬間、獣の体が放たれた矢のような勢いで、クラウス目掛けて突っ込んで来た。
その動きに素早く反応したクラウスは、身をかがめながら前に出る。
一瞬前までクラウスの上半身があった場所で獣の顎が閉じられ、嚙み合わされたその牙がぶつかる音が聞こえた。
クラウスの上半身を、その頭ごと噛み砕こうとしたのだろう。
クラウスは低い姿勢のまま巨獣の頭の下に潜り込んでいた。
そして自身の前にさらけ出された巨獣の首筋に、全力で剣を突き入れる。
さらに突き立てた剣を横に引き、そのまま喉を引き裂いた。
クラウスは噴き出した巨獣の血を全身に浴びながら、転がるようにしてその場を離れ、距離を取る。
巨獣の喉の傷からは大量の血が噴き出していた。
そして、口からはゴボゴボと血の泡を吐き出している。
その足はフラフラとおぼつかず、遂には立っていられなくなり倒れてしまう。
獣は必死に立ち上がろうともがくが、それも長くは続かない。
徐々にその動きも鈍くなり、やがて止まる。
クラウスはその様子を、じっと眺めていた。
その顔からは既に笑みは消えている。
戦いの興奮と高揚感のせいか、その呼吸は荒くなっていた。
彼の心は困難な戦いを乗り切った達成感、そして恐怖と緊張から解き放たれた解放感とに満たされていた。
大きく息を吸い、そして吐き出す。
それを何度か繰り返し、乱れていた呼吸を落ち着かせる。
戦いは終わった。
クラウスは動かなくなった巨獣に近付いて行き、それを見下ろす。
獣はまだ息があったが、それも長くは続かないだろう。
「ありがとうよ……楽しかったぜ」
口から出たその言葉には、心からの感謝の思いが込められていた。
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