異世界の獣

 クラウスは足を止めたまま、遠くに見える獣の姿を観察する。

 その獣は狼に良く似ていた。

 違うところは頭に一本のつのが生えているところだろうか。

 体毛は灰色だった。

 大きさはどの程度なのか?

 ここからでは距離がありすぎて、その大きさまでは正確に測れなかったが、彼の知る狼と同じ程度のように思える。


 クラウスはその獣の様子をしばらく見ていたが、特に近付いてくる気配もない。

 このままただ黙って見ていても意味がないだろう。

 クラウスは再び歩き始めた。

 老人の言葉通りなら、あの獣もクラウスが不死身であることを知っているはずだった。

 獣からすれば、クラウスの身体は尽きることの無い食料となるのだそうだ。

 一度手に入れれば、二度と飢える事が無くなる食料。

 それを何としてでも手に入れたいと思うのは当然だろう。


 何度か足を止めて獣の姿を確認したが、獣は最初にクラウスが見つけた場所から動く様子は無かった。

 歩き続けるうちに、やがて獣の姿は見えなくなっていた。


 そうして一時間ほど歩き続けた頃。

 何者かの気配を感じて、クラウスは振り返った。

 そこには先程見た獣の姿があった。

 先程よりも随分とこちらに近付いている。

 全力で走れば五秒程で襲い掛かることが出来るであろう距離まで、獣は近付いて来ていた。


 獣は座った状態でじっとこちらを見ている。

 威嚇をしているわけでも無い。

 襲い掛かってきそうには見えなかった。

 だがクラウスはいつでも対応できるように、剣の柄に手を掛ける。

 獣は近付いてくることも無く、その場で値踏みするかのようにこちらを眺めている。


 遠くから眺めたときは分からなかったが、灰色の体毛に覆われたその体躯は彼が知る狼よりも一回り大きい様だ。

 クラウスはこのような獣と戦ったことは無かった。

 この獣が襲い掛かって来るとは限らなかったが、そうなった場合に対処できるように、彼は考えを巡らせる。


 あの体躯でどのように動くのか、頭の中で想像し、それにどのように対処するのかを考える。

 その姿の通り、狼や犬と同じように動くのだろうか?

 その爪と牙、そしてその頭に生えた角も武器として使うのだろうか?


 あれ一匹だけなら充分に相手取れるように思える。

 だが彼の知る狼は群れで行動する習性を持っていた。

 この獣も同じなのか?

 だとすれば、どれ程の数が集まってくるのか?


 もし群れで狩りをするのならば、今は獲物の品定めでもしているのかもしれない。

 しばらくそのまま様子を見ていたが、獣はただじっと座ってこちらを見ているだけだった。

 クラウスは一歩前に出て、獣に近づいてみた。

 その途端に獣は跳ねるように距離を取り、そのまま走り去っていった。

 その獣の姿が遠ざかり見えなくなってから、クラウスは踵を返して再び歩き始めた。


 あの獣は戻ってくるだろうか?

 彼が今歩いているのは平原で、ぽつぽつと木がまばらに生えているだけだ。

 見晴らしは良く、何者かが近付けばすぐにわかるだろう。


 歩いているうちに、遠くから獣が吠えているような声が聞こえてくる。

 それは狼の遠吠えにそっくりな声だった。

 声の聞こえてきた方角に目を向けてみるが、それらしい獣の姿は見えなかった。


「さて、どうなるか……」


 呟き、クラウスは再び歩きだす。


 それから三十分ほど経った頃。

 クラウスの視界の隅で何かが動いたような気がした。

 目を向けた先には、なだらかな斜面がある。

 その斜面の上に、少し前に見たのと同じ獣の姿が見えた。


「ああ、やっぱり来たのか」


 先程と違うのは、同じ姿が幾つもそこに並んでいることだった。

 そこには数十もの獣の姿があった。


 やはりあの獣はこちらの様子を窺っていたのだ。

 クラウスの身体……決して尽きることの無い食料を確保するために、仲間を連れて戻ってきたのだろう。

 居並ぶ獣は、ざっと見ただけでも三十匹はいるように見えた。


「随分集めてきたな」


 あの老人の言葉が脳裏をよぎる。

 この世界に生きる者たちに捕まればどうなるのか……それについて老人は語っていた。

 そうなったときのことを想像し、恐怖が芽生えてくるのが分かった。

 そしてクラウスは、笑みを浮かべる。


「……いいぜ、やろうじゃないか」


 口の端を釣り上げたまま、そう呟く。


 今の彼は頭を潰されない限り死ぬことは無いということだった。

 あの獣たちと戦ったとしても死ぬ可能性は低いのだろう。

 だが敗れれば、死んだほうがましだと思うような目に遭うことになる。

 その恐怖の感情を、クラウスは楽しんでいた。


 かつて皆が口を揃えて彼に言った。

 お前は狂っているのだと。

 他者からのその評価を、クラウス自身その通りであると納得していた。

 その自他共に認める狂った性癖は、一度死んだ程度では治らなかったらしい。


 恐怖、興奮、戦いを前にした緊張や高揚感……様々な感情や感覚が、彼の中で渦巻いていた。


 視線の先の斜面に、こちらを見下ろすように獣達が並んでいる。

 これからその数十匹もの獣が、群れを成して襲い掛かってくるのだろう。

 一匹だけを相手にするのであればおそらく負けることは無い。

 だがあの数が相手となると、手強い戦いになる。

 いや、手強いどころか不死という特性を持っていなかったなら、ほぼ勝ち目は無いように思える。


 これから始まる戦いで、クラウスは何度も死ぬほどの傷を負う事になるのではないか。

 クラウスは腰の剣を抜き放った。

 剣を握る手に力が入る。

 その手は恐怖と、戦いを前にした緊張感で小さく震えていた。


 獣たちの最前面に立つ一匹が、天に向かって吠え声を上げる。

 それを合図とするように、獣の群れが一斉にクラウスの元へと駆けてくる。


 恐怖と期待に身を振るわせながら、クラウスは自身に向けて殺到してくる獣の姿を目で追い続けた。


 彼我の距離はどんどん縮まっていく。

 数十匹もの獣が自身に向かって殺到してくる姿は壮観ですらあった。

 生物の持つ本能としての恐怖がクラウスの足を動かし、その場から後退あとずさらせようとする。

 それを意思でねじ伏せながら、彼は獣がやってくるのを身構えて待ち続ける。


 さらに距離が縮まる。

 あと数秒で、間合いに入る。


「ウフ…フフハ……」


 感情が声となって漏れ出す。

 群れの先頭を走る獣は、もう目の前まで迫っていた。


 先頭の一匹が走る速度を落とさぬまま飛び掛かってきた。

 クラウスはそれを迎え撃ち、剣で串刺しにする。

 その直後に別の獣がクラウスの右腕に食らいついたが、即座に剣を左手に持ち替えその獣を刺し貫く。

 獣たちは仲間の死に怯む様子も無く次々に襲い掛かってくる


「フフハハハッ!」


 狂ったような哄笑を上げながらクラウスは剣を振るう。

 飛びかかってくる獣を捌ききれず、その獣の牙をクラウスは左腕で受け止めた。

 牙が皮膚に食い込む痛みと共に、ゴキリと鈍い音がクラウスの耳に届く。

 獣の強靭な顎で、左腕の骨が砕かれたらしい。

 クラウスはその激痛にギリギリと歯を食いしばりながら、左腕に喰らいついた獣の喉を右手に持った剣で貫く。

 致命傷を負った獣を投げ捨てるように剣を振り、獣の死体から剣を抜く。

 まるでその隙を突いたかのように別の獣がクラウスに飛び掛かり、その喉に食らいついてきた。


「グッ、ガァッ」


 そうして食らいついたまま引きずり倒そうとする獣の動きに抗い、クラウスは踏みとどまった。

 激痛に顔を歪め、苦鳴を漏らしながら、クラウスはその獣の眼窩に左手の親指を突き入れる。

 眼球を潰された獣は、堪らず食らいついていた顎を開いた。

 クラウスは獣の牙が自身の喉から離れた瞬間を見逃さず、突き入れた親指を獣の眼窩にひっかけて喉から引き剥がし、そのままその体を地面に向かって投げつけた。

 目を潰された痛みに獣は苦しみながら転がり、のたうち回る。

 クラウスはその獣の頭を目掛けて全体重を乗せた踵を振り下ろし、その頭蓋骨を踏み砕く。

 それと同時に右手に持った剣を振り、飛び掛かって来ようとしていた別の獣の動きをけん制する。


 獣達はまだ退く気は無い様だった。

 クラウスは既に四匹の獣を倒した。

 あと何匹殺せば、こいつらは逃げ出すだろうか?


 クラウスは自身の状態を確認してみる。

 腕の骨折も、食い破られた喉の傷も治っていた。

 痛みも既に無い。

 全てあの老人の言った通りになっていた。


 斜め後方から獣が駆け寄ってくる足音が聞こえ、クラウスは振り向こうとする。

 だが間に合わず、その脇腹に衝撃を受けた。

 獣がその角を使って体当たりをしてきたようだ。

 脇腹を貫かれ激痛が走るが、それに耐えながら剣を振る。

 だが獣はすぐに身を離してそれを躱し、間合いの外に離れていく。


 それに気を取られていると、今度は背中に衝撃を受けた。

 腹部に激痛が走る。

 見ると、自身の腹から獣の角の先が飛び出していた。

 別の獣が背後から体当たりしてきて、その角で背中から貫かれたのだ。


 クラウスは痛みに耐えながら左手でその角の先を掴み、獣を逃がさぬようにする。

 獣は逃れようと暴れ、その角がクラウスの腹の中を掻きまわす。


「グウウッ」


 堪えきれずうめき声が漏れる。

 激痛で足が震え、膝をつきそうになる。

 それでも力を振り絞り、右手に持った剣を逆手に持ち替えて背後の獣に向けて突き刺す。


 獣の肉を貫いた感触が剣を通して伝わってくる。

 それと共に暴れていた獣の動きが鈍くなったのが分かった。

 掴んでいた角から手を離し、一歩前に出た。

 腹部に侵入していた異物が、ずるりと抜けていくのを感じ取る。

 腹に空いていた穴は数秒後には跡形も無く消え去っていた。


 クラウスは歯を食いしばりながら、荒く息を吐く。


「フフハッ」


 だらだらと脂汗を流しながら、それでも彼は笑っていた。

 元の世界であれば、もう何度も死んでいる。

 あと何度、死ぬような目にあうだろうか?


 やっと五匹の獣を倒した。

 だが、まだ二十匹以上の獣が残っている。

 余裕など無い。ある筈も無い。

 それでも笑いが止まらない。


 まともな人間であれば既に心が折れ、戦う意思を失ってしまっていてもおかしくないだろう。

 だがクラウスはまともでは無かった。

 これ程の目にあっても、彼はこの状況を楽しんでいた。


 獣たちもまだ諦めるつもりは無いようだ。

 尚もクラウスの周りを取り囲み、休むことなく襲い掛かってくる。

 それでもクラウスは持ちこたえ、戦い続けた。

 獣の角で身体を貫かれ、その牙で肉を食いちぎられ、骨を噛み砕かれながらも反撃し、獣の数を徐々に減らしていく。


 ギリギリの状況。

 その恐怖と緊張感。

 クラウスはそれらの全てを楽しんでいた。

 そして、この苦境を乗り越えた先に待ち受けているであろう達成感と高揚感……それを想像すれば、その楽しみはさらに増す。


「フフハッ、アハハハハッ!」


 哄笑を上げながら、クラウスは剣を振るい続ける。


 どれほどの時間そうしていただろうか?

 気付けば、獣たちの攻撃がやんでいた。

 クラウスは血塗れになって立っている。

 彼の足元の地面も大量の血を吸って黒く染まっていた。

 自身が流した血と、殺した獣の血、一体どちらが多いのか自分でもわからない。


 周囲に散らばる獣の死体を数える。

 十三匹だった。

 獣の半数近くが既に死んでいた。


 状況を確認し、落ち着いたクラウスの顔からは笑みが消えていた。

 笑う余裕が無くなったわけでは無い。

 むしろ逆だった。

 戦ううちに彼は気付いたのだ。

 おそらくこの戦いに負けることは無いだろうということに。


 あの獣たちにはクラウスを一撃で殺すような力はない。

 ここまでの戦いを見る限り、痛みに耐えて対処することさえ出来れば、クラウスが負けることは無いように思えた。

 獣たちが何度クラウスに傷を付けようとも意味は無い。

 次の瞬間には、その傷は跡形も無く消え去ってしまっているのだから。


 獣たちの側がクラウスに勝つ方法があるとすれば武器を奪うことだろう。

 一匹程度であれば素手でも何とか対処できるかもしれないが、複数を相手にするのは難しい。

 武器を失えば、クラウスはあの獣たちに対抗出来なくなってしまう。

 獣たちは相当に知恵があるように見えるが、そこまで頭は回るだろうか?

 もしそれほどに頭が回るとしても、獣に出し抜かれ武器を奪われるほど、クラウスも愚かではない。

 クラウスは疲れることも無い。

 長引けば長引くほど、こちらにとって有利になる。


 獣たちがどうするつもりなのか、クラウスはその様子を観察していた。

 やがて、獣のうちの一匹が吠え声をあげた。

 それを合図とするように、獣たちが走り去っていく。


 クラウスはその様子をしばらく眺めていた。

 ギリギリの状況を切り抜け、彼は生き延びた。

 だというのに、期待していた程の達成感や高揚感は湧いてこなかった。


 ……もう終わりなのか?


 クラウスは無意識のうちに足を動かし、駆け去る獣たちの後を追っていた。


 追う理由があるだろうか?

 戦う意思を失い、逃走している相手を追いかけて殺す。

 そこまでして、あの獣たちを殺したいわけでは無かった。


 だが、まだ終わりでは無い気がしていた。

 後を追えば、まだ何かあるのではないかと、何故かそんな考えが頭に浮かぶ。

 あまりにも高ぶり過ぎた感情のせいで、思考がおかしくなっているのかもしれない。


 それでも追うだけ追ってみようと思った。

 行ってみて何もなければ引き返せば良いのだから。

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