諦め

 数分程走ったところで、木の根元にうずくまっているエメックを見つけたクラウスは、走る速度を緩めて彼に近付いていった。


「エメック!」


 クラウスの呼びかけに、エメックは驚いたように跳ね起き、そのまま走って逃げようとする。


「待て、エメック! 俺だ!」


 エメックは恐怖で錯乱しているのか、尚も逃げようとする。

 だが余程慌てているのだろう、途中で派手に転び、そのせいですぐに追い付くことが出来た。


「エメック!」

「ヒッ、ヒイィッ!」

「おい、俺だ! しっかりしろ!」


 呼びかけられたエメックは、恐怖に引き攣った表情でクラウスの顔を凝視する。


「もう大丈夫だ。奴らは逃げていった。もう大丈夫なんだ、エメック」


 そのクラウスの言葉を聞いたエメックは、しばらく呆けたような表情を浮かべていた。

 その目には恐怖の色が浮かんでいたが、見ているうちにそれも少しずつ消えていく。

 しばらくして、彼は笑みを浮かべ、涙を流し始めた。


「ごめん……ごめんよ」

「別にいい。さっきも言ったが、奴らはもういないからな。安心していい」


 エメックはその場に座り込み、俯いて涙を流し続けた。

 クラウスも、その場に腰を下ろす。

 そうやってすすり泣いていたエメックは、しばらくすると静かになった。

 様子を見てみると、彼は虚ろな眼差しでじっと地面を見つめていた。


 どう見てもまともな状態ではないが、クラウスにはどうする事も出来なかった。

 何と声をかければ良いのかもわからない。

 以前に見つけた女のように、心が完全に死んでしまっていないだけ、まだましなのだろうとは思う。

 だとしても、あまり良くない状態なのは間違いない。

 その場に座ったまま、クラウスはエメックが落ち着くのをただじっと待ち続けた。


 それからどれ程時間が経っただろうか。

 ずっと地面を見つめていたエメックが顔を上げて、ポツリと呟くように言葉を発した。


「クラウス……一つ聞いてもいいかな?」

「ああ、何だ?」


 エメックはしばらくじっとこちらを見ていたが、やがて弱々しい笑みを浮かべる。


「君は……君は、どうしてそんなに強くいられるんだい? どうして、あの亜人の群れにたった一人で立ち向かって行ったりできるんだい?」

「ああ……前に言ったろ? 元々戦士だったってな。それで、元居た世界では頭がイカレてるって皆に言われてたって話もしたよな? 以前から生きるか死ぬか、そのギリギリの状況を楽しんでた。まあ、そういうことだよ。俺は別に強いわけじゃない。ただイカレてるだけだ」

「そうか……君にとっては何でも無い事なのかもしれないけど……だとしても、僕みたいな足手まといを抱えて、あの人数に向かって行ったり出来るのは、やっぱり凄い事だと僕は思うんだ」


 クラウスはそのエメックの言葉になんと答えていいかわからず、曖昧な表情をその顔に浮かべる。

 エメックは躊躇いがちな様子を見せながらも再度口を開き、問いを投げ掛けてくる。


「僕を助けてくれた時……あの亜人の集落に近付いたのも、その……君がさっき言ってた、ギリギリの状況を楽しむために亜人と戦おうとか、そういう気持ちも少しはあったりしたのかい?」


 問われたクラウスは、僅かな時間考え、それから首を振る。

 何故エメックを助けたのかと以前に問われたが、その時はそれに曖昧な答え……偶然通りかかったとも取れるような答えを返していた。

 だが今のエメックには、そんなごまかすような事を言ってはいけないような気がしていた。


「いや。実はお前を助ける少し前にあの亜人たちに会っててな。当然襲いかかってくるもんだと思ったんだが、奴らは何もせず立ち去った。それが意外でな。何故かって考えた。それで疑問を持ったんだよ。もしかしたら、既にさまよい人を手に入れてるのかもしれないってな。既に手に入れてるのなら、わざわざ俺に手を出す必要は無いだろ? それが気になって、あの亜人たちのあとを追って行ったんだ」

「それは……じゃあ、最初からさまよい人がいるかもしれないと思って、あの集落に来たって事? それで僕がいたから助けてくれたの?」

「まあ、そんなところだ」

「……そうか。凄いな、君は……本当に」


 そう呟くように口にするエメックに、掛ける言葉を見つけられないまま、クラウスは空を仰ぎ見た。

 太陽は既に中天を過ぎていた。

 逃げ出した亜人たちが戻ってくる可能性は低いのではないかとクラウスは思っていたが、念のため出来るだけ先に進んでおきたいと考える。

 エメックの精神状態は気がかりではあったが、この状況で再度襲撃を受けたなら、さらにその状態は悪化することになるだろう。


「奴らが襲ってくることはもう無いとは思うが、念のためもう少し距離を取っておきたい。どうだ? 歩けそうか?」


 そのクラウスの言葉を聞いたエメックは力ない笑みを浮かべ、首を横に振った。

 その表情を見たクラウスの心に、奇妙な感情が湧き上がっていた。

 それはわずかな悲しみと憐れみ、そして諦めが入り混じった感情だった。


「……お願いがあるんだ、クラウス」 


 エメックがポツリと呟くように口にした言葉を聞いて、クラウスは溜息をついた。

 その願いというのが何であるのか、彼にはなんとなく予想がついてしまっていた。


「ああ、なんだ?」


 クラウスは答え、続くエメックの言葉を待った。


「僕を……僕を殺して欲しいんだ」


 その言葉をクラウスは黙って聞いていた。

 エメックの精神が限界に近付いているのはわかっていた。

 あの亜人たちを見たときのエメックの反応、そして再度合流したときの反応、それらを見て、こうなってもおかしくないだろうという予想はしていた。


 それは仕方が無い事なのだと、そう思う。

 だというのに、どうしてこんな気分になるのだろうか。

 重く沈む感情を隠すように、クラウスは大きく息を吐いた。

 その様子を見たエメックが哀し気に眉を寄せる。


「駄目かい?」

「いや……大丈夫だ」

「……ごめんよ」


 エメックが申し訳なさそうに呟く。

 クラウスは諦めの感情を抱きながらも、何かを言わなければと思った。

 思いとどまらせるための言葉を探す。

 だがそれを見つけることは出来なかった。


 エメックを思いとどまらせようというその試みに、意味があるとは思っていなかった。

 彼はあの亜人たちに囚われている間、ずっと自身の肉や皮、骨や内臓を資源として利用されてきたのだ。

 おそらく、その苦痛に満ちた日々の記憶を忘れることなど出来ないのだろう。

 この先ずっと、その苦痛と恐怖の記憶を持ち続けたまま、彼は生きていかなければならない。

 そして、またそのような目に遭うかもしれないと恐怖し続けることになるのだ。

 それに耐え、生き続けるように説得するような言葉……そんな言葉は浮かんでは来なかった。

 エメックにとって、生き続けるということはそれらの苦痛を長引かせるという事に他ならない。

 それでも何か言葉を口にしなければと思った。

 何故そう思ったのか、自分でもわからない。


「自分以外のさまよい人に会うのはお前で二人目だったんだ」

「そうなの? ……その一人目はどうなったんだい?」

「俺の手で殺した」


 何故こんなことを話したのだろう?

 今話すような事では無いのはクラウスにもわかっていた。

 それは言葉に詰まり、それでも何かを話さなければと焦って苦し紛れに出てきた言葉だった。

 それを聞いたエメックは、クラウスを憐れむような表情で見つめた。


「そうか、ごめんよ。本当に」

「いや……いいさ」


 クラウスはゆっくりと立ち上がった。

 そのクラウスの顔をエメックはしばらくじっと見つめていた。

 それから、申し訳なさげに笑みを浮かべる。


「ごめんよ、せっかく助けてもらったのに。君には本当に感謝してるんだ……だからそんな顔をしないでくれ」


 そんな顔とは、どんな顔なのか?

 こんな場所に鏡などある筈も無い。

 クラウスは今自分がどんな表情を浮かべているのかわからなかった。

 エメックの目に、自分の姿はどう映っているのだろうか?


 エメックがクラウスの前にひざまずいた。

 そして差し出すように、そのこうべを垂れる。


「助けてくれてありがとう。君に出会えて本当に良かった」


 その言葉に、クラウスは答えを返すことが出来なかった。

 何と答えればいいのか……その言葉が思い浮かばなかった。


 クラウスは腰の剣を抜き放つ。

 それから一度目を閉じ、大きく息を吐いた。


「ごめんよ、最後まで。本当にありがとう」


 エメックの謝罪と感謝の言葉を聞きながら、クラウスはもう一度ゆっくりと息を吸った。

 そして、ゆっくりと吐き出す。

 それから手にした剣を振り上げ、エメックの頭目掛けて、それを振り下ろした。

 頭を砕かれたエメックの姿が、光に包まれながら消えていく。

 それは以前に一度見た光景だった。


 クラウスは剣を鞘に納め、大きく息を吐く。

 そしてその場の草の上に座り込み、空を見上げた。

 虚無感が心を満たしている。

 何もする気になれなかった。

 眠れるなら眠りたいと、そう思った。

 一度眠って目が覚めれば、このやるせない気持ちも少しは薄れるのではないだろうか。


 空を眺めながら、何故こんな気持ちになるのだろうかと考えた。

 しばらく考え、思い至った答えは余り認めたくないものだった。


 きっと自分は人恋しかったのだ。


 元居た世界で、傭兵仲間と意気投合し仲良くなることもあった。

 だがそういった仲間たちも皆、戦いの中で散っていった。


 それが彼の日常であり、そういうものなのだと思っていた。

 戦いを……殺し合いを生業としているのだ。

 彼らが死んだとしても、ああ、死んだのかと……それを当然のこととして受け入れていた。

 そんな自分が、まだ会って数日しか経っていない相手の死のせいで、これ程に心が落ち込むとは思ってもみなかった。


「そうか……そうなのかもな」


 クラウスは一人呟き、自嘲するように笑みを浮かべる。

 この世界に来てから過ごしてきた孤独な時間に、気が滅入ってしまっていたのではないだろうか。

 この世界での数少ない味方、同じ世界から来た同朋を失った。

 彼の心は今、その喪失感で一杯になっている。

 それは狂人と呼ばれていた彼には、随分と似合わない感情であるように思えた。


 この程度のことで心が揺れる事など無いと、彼はそう思っていた。

 だが、そうでは無かったのだ。

 この世界に来る前からそうで、ただ気付いていなかっただけなのか。

 あるいはこの世界に来てから、変わってしまったのか。


 かつてのクラウスであれば、その弱さを恥だと思っただろう。

 だが彼のその弱さを見て、それを笑うような相手すらも、この世界には存在しない。


 地面に座り込んだまま、クラウスはずっと景色を眺めていた。

 やがて日が傾き、夜になっても、彼はその場から動こうとはしなかった。


 草の上に横になり、空を見上げる。

 深い藍色の夜空には白銀の月が輝いていた。

 その周囲を彩る星々もまた、神秘的な光を放ちながらまたたいている。


 流れる雲の表面を月の光が明るく照らし出していた。

 薄く透き通った雲はその光を柔らかく散らして、優雅な波紋を描いているかのように、優しく揺らめいている。

 それらの雲の隙間から漏れた光が降り注ぎ、夜の草原を幻想的に輝かせている。


 相変わらず、この世界は美しかった。

 それを眺めていると、胸に満ちた虚無感が和らいでいくような気がしていた。


 クラウスは横になったまま、時が経つのも忘れて、その景色をじっと眺め続けた。


 朝になって、ようやくクラウスは身を起こし、立ち上がった。

 日の昇る方角にあると言われた山。

 いつたどり着けるかもわからない、その場所に向かって、彼はまた歩き始めた。


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