久々の食事

 その日の夜、クラウスとローザは食事のために街の中心部にある酒場を訪れていた。

 その酒場は、評判の良い店を尋ねたローザに宿の主人が勧めてきた店だった。


 丸テーブルに向かい合って座った二人の前に、様々な料理が並んでいた。

 クラウスの目の前には、とろみのある焦がれ色のスープで満たされた皿があり、その横にはかごに入ったいくつかのパンとサラダが並べられている。

 スープの中には、ゴロゴロとした野菜やキノコ、そして肉の塊が浮かんでいた。


 クラウスはそれらを口に運び、時間をかけて味わい、そして飲み込む。


 彼はその食事を楽しんでいた。

 スープを口の中に含んだ時に広がる濃厚な味わい。

 野菜のサクサクとした歯ごたえ。

 柔らかい肉を噛んだ時の触感と、あふれ出る肉汁の旨味。

 そういったものを、ゆっくりと時間をかけて楽しむ。


 そうやってクラウスが料理を口にする様子を、ローザが興味深げに眺めていた。


「どう? おいしい?」

「ああ……うまいな。本当にうまい」


 クラウスは感慨深げに、そう答える。

 そのクラウスの反応に、ローザは驚いたような表情を浮かべていた。


「そんなに?」

「ああ、久しぶりだってのもあるんだろうがな」

「確かに、あんな格好で放浪してたんだものね。まともな食事が久しぶりなのもわかるけど、そんなに喜ぶとは思ってなかったわ」


 そう言ってローザは嬉しそうに笑みを浮かべた。


 どうやら、彼女はクラウスの言葉を勘違いして受け取っているようだった。

 粗末であるとか、まともであるとかは関係無いのだ。


 最後に食物を口にしたのはいつだっただろうか?

 その時は何を食べただろう?

 考え、思い出そうとして、すぐに諦めた。

 それはクラウスにとって、思い出すことすらできない程に遠い昔の事であったからだ。

 そのいつ以来かもわからない食事を、彼はゆっくりと味わい楽しんだ。


「宿屋の主人の言葉通りの良いお店だけど、帝都に戻ったら、もっと美味しい物が食べられるわ」

「帝都に行くのか?」

「ええ、そうね。別に急ぐわけでは無いけど。普段は帝都を中心にして活動してるからね」


 アリエニブ帝国。

 それが今彼らがいる国の名だ。

 大陸の西側の大半をその領土としている、広大な帝国である。

 その帝都の近くには、竜が住まうと言われる山があるらしい。


「帝都に行ったことはある?」

「いや、無いな」

「そう。帝都のことなら詳しいから、いろんなお店に連れて行ってあげられるわ」

「そいつは楽しみだな」


 本当に楽しみだと、そう思った。

 それが表情に出ていたのだろうか?

 クラウスの顔を見ながら、ローザも楽し気な表情を浮かべていた。


 その後もクラウスはゆっくりと料理の味を楽しんだ。

 スープを口に含んで味わい、肉や野菜を何度も噛み締め、充分に時間をかけてからそれらを飲み込む。


 そうして、やっと料理を半分程消費した頃。

 クラウスは料理を口に運ぶのを止めて、溜息をついた。

 手にしていたスプーンを置いて立ち上がりながら、ローザの後ろからその肩に触れようとしていた男の手首を掴む。


 ローザ自身もその男の行動に気付いていたようだ。

 ならばクラウスが手を出すまでも無いかとわずかに迷ったが、彼女の護衛も仕事のうちだ。

 そう考え、クラウスは手を出していた。


 男はおそらく冒険者か何かなのだろう。

 腰には幅広の剣を帯びている。

 男は不機嫌そうな顔で、酒臭い息を吐きながらクラウスの顔を睨みつけてきた。


「おう、なんだ? てめーには用はねーんだ。俺はこっちのキレイなねーちゃんに用があんだよ」


 そう言って冒険者らしき大男はクラウスの手を振りほどこうとする。

 男の体格はクラウスよりも一回りは大きい。

 クラウスも長身なほうではあったが、男はそのクラウスよりもさらに背が高く、その横幅は倍近い。

 だがその手はぴくりとも動かない。


 クラウスはその掴んだ腕にかける力の方向を変え、男の体を誘導する。


「あっ? な、なんだ? クソッ!」

「おい、何やってんだ?」


 おそらく仲間なのだろう。

 戸惑う大男の後ろにいた、二人の男が声を上げる。

 一人は細身で、その見た目からおそらく魔術師か何かだろう。

 もう一人は腰に細身の剣を吊るしており、斥候か何かのように見える。


 大男は捕まれた腕をピンと伸ばし、まるで背伸びするような姿勢で固まり、身動きできなくなっている。

 必死になって力を入れているようだが、その状態から脱することは出来なかった。


 その状態から、クラウスは男の腕にかけていた力の方向をわずかに変える。

 次の瞬間、男の巨体は一回転して床に叩きつけられていた。


 男は悪態をつき、ふらつきながらも立ち上がる。


「ガッ……クソがっ! やりやがったな!」


 そう言って、大男は腰の剣を引き抜いた。

 それを見た周囲の客がざわめく。

 大男の仲間らしき二人も武器を手にして身構えた。


 クラウスはそれを見て眉を寄せた。

 街中で、しかも人で賑わう酒場の中で彼らは武器を抜いて身構えている。


「剣を納めるつもりは無いか?」


 クラウスが発した言葉をどう受け止めたのか、大男は歯をむき出しにして笑みを浮かべる。


 彼らは武器を手にして戦う意思を示した。

 それは命を懸けて戦うと宣言したのと同じであると、クラウスはそう思っていた。


 目の前の男たちは、女に声を掛けようとして邪魔をされたという、ただそれだけの理由で剣を抜いている。

 そんな事のために、彼らは自身の命を懸けようとしているのだろうか?


 クラウスがこの連中に負けることはおそらく無い。

 だが、もし負けたとしてもクラウスはそれを受け入れ、自身を倒す程の力量を持ったものに対する敬意を胸に死んでいくだろう。

 この男たちも同じなのだろうか?


 ……いや、そうか。


 クラウスは一人納得し首を振る。

 自身にとってどれ程下らない理由であったとしても、目の前にいる男たちにとってもそうであるとは限らない。

 人が何に命を懸けるのか。

 そんなものは人それぞれだろう。

 彼らにとって、これは命を懸ける価値がある程に重要な事なのかもしれない。


 手を抜くつもりは無い。

 相手に情けをかける理由も無い。

 クラウスが腰に吊るした剣の柄に手を伸ばそうとした時、彼の背後から声が上がった。


「あなたたち、私に用があったの?」


 そう言って、ローザがクラウスの横に進み出てくる。


「なら、私と力比べをしてみない? それで私に勝ったら、あなたたちの要望を聞いてあげてもいいわ」

「力比べだと?」


 剣を手にした大男が怪訝な表情を浮かべながら、問いかける。


「ええ、そうよ。腕相撲で私に勝ったら、あなたたちの言うことをなんでも聞いてあげるわ。どう?」


 大男は一瞬あっけにとられたような顔をしたが、すぐに馬鹿にしたような笑いを浮かべる。


「お嬢ちゃんが? 俺らと力比べしようってのか? 本気かよ? まさか勝てるとでも思ってんのか?」

「ええ、もちろん。あなたはどうなの? もしかして、自信が無いのかしら?」

「はぁ? 本気なのかよ? ああ、いいぜ、やってやるよ!」


 大男は馬鹿にしたような笑みを浮かべ、近くの空いたテーブルに向かって歩いていく。


「後ろの二人はどうするの?」

「勿論やるぜ!」

「ああ、いや俺は……やめとくよ」


 後ろの二人のうち、斥候らしき男は威勢良く参加を表明したが、魔術師らしき男は辞退した。


 辞退したほうの男は何かを察したのだろう。

 この少女が、傍目には到底勝ち目が無さそうに見える勝負を、なぜ挑んできたのか。

 何かあると警戒するのは当然だ。

 その男は、それくらいの判断が出来る程度の理性は残していたらしい。

 それに引き換え、残りの二人は何の警戒もしていないように見えた。


 ローザと大男は空いたテーブルに向かい合って座る。

 そしてテーブルの上で二人は手を握り合う。


「へえ……」


 男の力が思った以上に強かったのか、ローザが感心したような声を出した。

 大男はローザを馬鹿にするように口の端を釣り上げて見せる。


「お嬢ちゃん、身体強化の術を使えるんだろ? それで自信満々だったんだろうがな。俺は冒険者だ。その程度の術は俺にだって使えるんだよ」

「そう、スゴイのね」


 ローザは何の感情も含まない声でそう答える。


 男はニタニタといやらしい笑みを浮かべたまま、その腕に力を入れた。

 ただでさえ太い上腕が、力を込めた事によりさらに大きく膨れ上がる。

 だが、ローザの腕はその場に静止したままでピクリとも動かない。


 男の顔から笑みが消える。

 ローザはその男に対して蔑むような視線を向けていた。


「満足した?」


 そう口にした次の瞬間、ローザはその男の手をぐしゃりと握り潰していた。

 そうしてから腕を傾け、男の潰れた手のひらを勢いよくテーブルに叩きつける。


「アアアガァァアアッ!」


 男はそのまま椅子から転げ落ちて、潰れた手を押さえ、じたばたともがき苦しみ始める。


「次はあなたね」


 そう言って、ローザはもう一人の男に目を向けた。


「……あ、ああ、悪い……俺はやっぱりいいや」

「ダメよ、座りなさい。逃がさないでね、クラウス。逃げたら腕の一本くらいは切り落として構わないわ」

「ああ……まあ、了解した」


 クラウスは苦笑を浮かべながら、彼女の言葉に頷きを返す。


「いや、待ってくれ! 俺が悪かった、許してくれ!」

「謝罪は受け入れましょう。それはそれとして、勝負は受けてもらうわ。座りなさい」


 男は狼狽うろたえ、助けを求めるように周囲を見回した。

 だが彼に助け舟を出そうとする物好きは何処にもいないようだった。


「ねえ、クラウス。さっき私が割り込まなければ、彼らを殺すつもりだったでしょう?」

「……ああ、そうだな」

「聞いた? 私の相手をするのが嫌なら彼と勝負する? その場合、右手だけじゃなくて命を失うことになると思うけど」


 手を潰されるか、命を失うか。

 ローザは表情一つ変えないまま、男に対して選択を迫る。


「クソッ、クソッ!!」


 男は怯えながらも、観念したのかテーブルに着く。


「あなた、金貨は持ってる?」

「ああ、えっ? なんでだ?」

「持ってるなら机の上に出しておくと、良い事があるかもしれないわ」

「え? いや……それで見逃してくれたりはしないのか?」

「それは無いわ」


 ローザは、そう冷淡に言い放つ。

 男も、これ以上ローザの機嫌を損ねたくは無いのだろう。

 素直に金貨を一枚取り出し、机の上にそれを置く。


「クソッ、頼むよ、許してくれ!」

「ダメよ。早くしなさい。さっさと終わらせないと料理が冷めてしまうわ」


 男の顔はおびえ切っていた。

 男の目の前に座る少女は表情一つ変えず、さっさとその手を握りつぶして食事の続きがしたいなどと言っている。


「どうぞ。力を入れていいわよ?」


 男はローザの手を握っても、ずっとそうしているだけで力を入れようとはしなかった。

 その男の様子に、ローザは呆れたように溜息をつく。


「もう始めてもいい?」

「待て! 待ってくれ! ほん…グアああああ!」


 男が何かを言おうとしたが、それを言い終わる前にローザに手を握り潰される。

 そして先程の男と同じように、その手をテーブルに叩きつけられていた。


「グッウウウウッ」


 男は手首を掴んだまま机に突っ伏して、うめき声を上げている。

 ローザが立ち上がり、その男の手首を掴んで引っ張る。


「な、なんだよ! 待ってくれ!」

「いいから、じっとしていなさい」


 そう言ってローザは怯える男の手首を左手で掴み、もう片方の手のひらをかざす。

 ローザの手が淡い光に包まれ、その光が男の手に降り注ぐ。

 数秒後、男の潰れた手はすっかり元どおりになっていた。

 男は口をぽかんと開けたまま、元通りになった自分の手を眺めている。


 ローザは男の手を放し、机の上に置いてあった金貨を拾い上げた。


「これは治療費として貰っておくわね。そこのあなた。あなたも金貨一枚で治療してあげるけど、どうする?」


 そう言ってローザは手首を抑えて床にうずくまっていた、一人目の犠牲者である大男に声を掛ける。

 大男は痛みに耐えながら、金貨を一枚取り出し、ローザにそれを差し出す。

 ローザはそれを受け取り、男の手にも先程と同じように治癒の術を掛けて傷を癒す。


「これに懲りたら意味も無く人に絡んだりしないことね。相手を見た目で判断することもやめておきなさい。軽率に剣を抜いたりするのもね。わかったら、行きなさい。ああ、もちろんお店の勘定をきちんと済ませてからね」


 男たちは怯えたような表情を浮かべながら、逃げるように立ち去って行った。


 ローザはそれを見送り溜息をつく。

 そして元いた席へと戻っていき、クラウスもそれに続く。

 元のテーブルに戻った二人は席に着き、残った料理と向かい合う。


「クラウス、一つ聞いてもいい?」


 食事を再開しようとしたクラウスに、ローザが話しかけてきた。

 クラウスは手を止め、ローザを見る。


「なんだ?」

「さっきも聞いたけど……あなた、彼らを殺すつもりだったでしょう?」

「ああ、そうだな」

「理由を聞いてもいい?」

「戦士が武器を手にして戦う意思を示した。なら命を懸けるのが当然だと思ったんだが、おかしかったか?」

「そうね、おかしくは無いかもしれないけど……あなたなら殺さない様に手加減して勝つことも出来るでしょう?」

「出来ただろうな」


 ローザの言う通り、手加減は出来ただろう。

 あの連中も、手加減をして貰えるものだと期待して戦いを挑んできたのだろうか?

 たとえそうだったのだとしても、それは愚かな期待だ。

 もしクラウスがもっと弱く、手加減が可能な程の余裕が無かったならどうするつもりだったのか?

 そして何より、自ら戦いを挑んでおきながら、劣勢になった途端に命乞いをするような連中をクラウスは好きになれなかった。

 ローザはしばらくじっとクラウスの表情を窺っていたが、やがて大きく溜息をついた。


「街中の、こんな人の多いところでは店にも他の客にも迷惑がかかるし、他にも色々と面倒なことになるわ。手加減できるなら、して貰えると嬉しいの」

「ああ、確かにそうだな。悪かった」


 ローザの表情を見る限り、怒っているようには見えなかった。

 どちらかと言えば困惑しているように見える。


「……まあいいわ。食事の続きをしましょうか。さすがにもう邪魔はされないでしょう」

「ああ、そうしよう」


 そうして、ようやくクラウスは食事の続きにありつくことが出来た。

 料理は少し冷めてしまっていた。

 それでも彼はそれをゆっくりと味わい、時間をかけて平らげたのだった。

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