亜人の子

 その日、クラウスはいつものように、丘の上でアディメイムと剣で打ち合っていた。


 この世界でアディメイムに出会ってから、既に十年が経っている。

 時折、この世界で最初に出会った老人の言葉を思い出す。

 日の昇る方角に歩き続ければ、元いた世界に帰る事ができる。

 それを忘れたわけでは無いが、元々帰りたかったわけでも無い。

 彼は今のこの毎日を……アディメイムと共に過ごす日々を楽しんでいた。


 楽しく充実した時間というものは、過ぎ去るのが早く感じられると言うが、彼はまさにそれを実感していた。

 アディメイムに出会ったのも、ついこの間の事のように思える。


 一日の大半を鍛錬に費やし、その合間の息抜きに周囲の景色を眺めて過ごす。

 変わらぬ日々を、彼はこの十年間ひたすらに繰り返してきた。

 そんな彼の日常に、突然変化が訪れた。




 その日、太陽が中天を少し過ぎた頃、クラウスとアディメイムの暮らす丘の上に、一人の亜人の子どもがやってきた。

 この近くでよく見かける、犬に似た頭を持った亜人だ。

 その子供は木の陰に隠れて、こちらをじっと覗き見ていた。

 だがクラウス達が視線を向けると、素早く木の後ろに身を隠してしまう。


 亜人達をたまに見かけることはあった。

 だが、彼らはクラウスたちに近付いて来たりすることは無かった。

 彼らは明らかにさまよい人を恐れている様子で、こちらに気付くと素早く逃げ去って行く。

 だが、この子供は自分から二人に近付いてきていた。

 剣の技に興味があるのだろうか?

 その子供は木の影に隠れたまま、じっと二人が剣で打ち合う様子を眺めていた。


 当然、アディメイムもその亜人の子の存在に気付いていたが、クラウスと同じように特に気にしている様子は無かった。

 鍛錬の様子を見られたからと言って、別に困るような事も無い。

 目が合うと隠れてしまうので、出来るだけそちらに視線を向けないように気を付けることにした。


 その子供は二時間程すると、その場を離れて去って行った。


 その日以降、その亜人の子は毎日丘の上に姿を現わすようになった。

 いつも決まった時間……太陽が中天を過ぎて少し経ったくらいの頃にやって来る。

 そして、木の後ろに隠れたまま、二人が剣を交えるのを覗いていた。


 それが一週間ほど続いた頃、クラウスはアディメイムに一つの提案をしてみた。


「あの子供、毎日来てるよな? 今度来たらこっちに来るように誘ってみるか?」


 そのクラウスの言葉に、アディメイムは楽し気な笑みを浮かべ頷いた。

 あの子供は二人がやっている鍛錬に興味があるのだろう。

 もしかしたら、剣を習いたいと思っているのかもしれない。


 その翌日も、亜人の子はその丘の上にやって来た。

 いつも通りに、木の陰から二人の様子をじっと見ている。


 その亜人の子と目が合った。

 途端にその子供は木の陰に身を隠してしまう。

 それもいつも通りだ。


 しばらくして、おそるおそるといった様子で再び顔を出したその子供に対して、クラウスは手招きをしてみた。


 それを見た亜人の子は、驚いたように目を見開いてこちらを凝視していたが、やがてきびすを返して走り去ってしまった。


「ああ、逃げちまった。また来るかな?」


 苦笑を浮かべながら呟き、クラウスはアディメイムに視線を向ける。

 そのクラウスの言葉に、アディメイムは笑みを浮かべ、わからないというふうに首を振って見せた。


「まあ、また来たらもう一度誘ってみればいいか」


 クラウスは気を取り直し、アディメイムといつも通りの鍛錬に戻っていった。




 次の日、あの子供はまたやってきた。

 今日はいつもと違い、その手に木の棒を持っている。


 そして、いつものように木の陰に隠れてこちらを見ていたが、しばらくすると、木の陰から出てきて二人のほうに近付いてきた。

 クラウスの近くまで歩いてきたその子供は、手にした棒を持ち上げ、クラウスに向かって構えを取って見せた。

 緊張しているのか、あるいは恐怖の故か、棒を持つ手は小刻みに震えていた。


「ハハッ」


 クラウスは笑い、その亜人の子に向かって昨日と同じように手招きをして見せた。

 子供は目を見開き、それから笑みを浮かべた。


 亜人が笑うのを見たのはそれが初めてだった。

 笑うとこんな顔になるのかと、奇妙な感慨を覚える。


 その亜人の子の様子を見る限り、やはり剣の技に興味を持っているようだ。

 クラウスは手にしていた剣をアディメイムに手渡して、その辺に落ちている木の枝を拾い、亜人の子と向かい合う。


「打って来てみろ」


 そう口にするが、亜人の子はきょとんとした表情で、じっとこちらを見ていた。

 その様子に、クラウスは苦笑を浮かべる。

 やはり言葉は通じないようだ。


 クラウスは手に持った棒を振り下ろす動作をしたのちに、亜人の子に向かって手招きをする。

 それを見た亜人の子は近づきながら、手にした棒を振り下ろす動作を真似していた。

 クラウスはそれに対して、何度も頷きを返し、再度打って来いと手招きをする。

 それを見た亜人の子は戸惑いながらも、手にした棒をクラウス目掛けて振り下ろしてくる。

 クラウスは自身の手にした棒でそれを受け止めた。

 そして、もっと打って来いと、なおも手招きする。


 そうして亜人の子の打ち込みを受けながら、その技量を観察する。

 当然だが、基本的な体捌たいさばきや足捌あしさばき等は身に付いていない、素人の動きだった。


「足は滑らせるように……って言っても伝わらないんだったな」


 クラウスは苦笑を浮かべ、亜人の子に身振り手振りで動作を教えていく。


 そうして、クラウスは子供の打ち込みを受け止めながらも、たまにそれをわざと受けたりした。

 子供は攻撃が当たるたびに驚き、嬉しそうな表情を浮かべている。


「まず基本の動きを身に付けないとだめだろうな」


 そうアディメイムに視線を向けながら口にする。

 アディメイムもそれに頷きを返す。


 そこで、クラウスは亜人の子の打ち込みを受けるのを止めた。


 そして基本的な動作を教えはじめる。

 手にした棒を上段に振りかぶり、前方に一歩踏み込みながら、振り下ろす。

 ただそれだけの動作を、何度も繰り返しやらせてみた。


 移動時は足を滑らせるように、頭は上下させないように等、基本的な動きを身振り手振りで教えようとする。

 だが、言葉が通じない状態で教えるのは簡単では無かった。

 この亜人の子に技を教えるのは、一筋縄ではいかなそうだ。


 たいして激しく動いているわけでは無いが、普段全くしないような動きなのだろう、亜人の子はわずかな時間でかなり疲れているように見えた。

 あるいは疲れを知らぬさまよい人になってから、自身の感覚がおかしくなってしまっているのか。


「今日はこれくらいにしておくか」


 亜人の子を手招きし、地面を指差し座るようにうながし、三人で輪になって座る。

 それからクラウスは自身の顔を指差し、亜人の子に語りかけた。


「クラウス」


 自身の名を口にした後に、今度はアディメイムを指差し、その名を口にする。


「アディメイム」


 クラウスは、それを何度か繰り返した。


 それからまた自身を指差し、亜人の子に手招きするような仕草を見せた。

 亜人の子は戸惑いながら、クラウスを指差して口を開く。


「クラウス?」


 それにクラウスは笑顔でうなずく。

 亜人の子が今度はアディメイムを指差した。


「アディメイム?」


 クラウスは再び頷きながら、その亜人の子の肩を叩く。

 それからまた自分を指差し、その名前を口にする。


「クラウス」


 それからアディメイムを指差し、その名を口にする。


「アディメイム」


 そして、最後に亜人の子の顔を指差した。

 亜人の子は戸惑ったような表情を浮かべている。


 クラウスはもう一度、自身とアディメイムを指差しながら、名前を口にすることを繰り返す。

 それからまた、最後に亜人の子を指差す。


 そこで亜人の子はクラウスが何を求めているのかに気づいたようだった。


「ッ……ティルヤ。ティルヤ」


 亜人の子はそう言って自身の顔を指差した。

 クラウスは笑みを浮かべ、亜人の子を指差しながら、その名を口にする。


「ティルヤ」


 亜人の子……ティルヤは笑みを浮かべ何度も頷いて見せた。


 今日教えてみてわかった。

 言葉が通じない状態で技を教えるのは相当に骨が折れるだろう。

 少しずつでも、意思を疎通させる為の努力をするべきだ。


 クラウスは次に、目の前に落ちている石を拾い上げ、それをティルヤに見せる。

 それからまた、さっきと同じことをした。

 クラウス、アディメイム、ティルヤの顔を順に指差してその名を口に出し、最後に手にした石を指差す。

 そして、ティルヤに対して小さく手招きするような仕草をする。

 ティルヤはそのクラウスの意図に、すぐに気付いて言葉を返す。


「エヴェン」

「エヴェン?」


 ティルヤの口にした言葉をクラウスが確認のため繰り返す。

 するとティルヤは頭を上下させて何度も頷いた。

 彼らの言葉で、石はエヴェンと呼ぶようだ。


「ん?」


 アディメイムが手にしていたクドゥリサルが、突然声を上げ、何かを話し始めた。

 それはクラウスの知らない言語だった。

 それを聞いたティルヤが驚いたような表情を浮かべ、それからそれに答えるように話し出す。

 その様子を見る限り、二人の間では意志の疎通が出来ているようだった。


 クラウスは驚き、その様子をただ眺める。

 やがてクドゥリサルがクラウスにもわかる言語で話し始めた。


「どうやら、古代語に近いみたいだな」

「古代語?」

「ああ、かつて神々が使ってた言葉だ。おそらくこいつらが使ってるのは、そこから派生した言語なんだろうよ。全く一緒ってわけじゃないが、ある程度の意思の疎通は出来そうだ」

「ホントか?」


 クラウスは驚きの声を発したのちに、苦笑を浮かべる。

 言葉の問題は無くなったようだ。

 こんなに簡単に解決するとは思っていなかった。

 意思の疎通が必要なときはクドゥリサルに通訳をして貰えば良いだろう。


 それからクラウスはアディメイムに視線を向けた。


「お前もわかるのか?」


 クラウスのその問いに、アディメイムは頷きを返す。


「じゃあ言葉が通じないのは俺だけになるのか?」

「まあ、そうなるな」

「そうか……クドゥリサル、あとで俺にも教えてくれないか?」

「覚えるつもりか?」

「ああ、言葉が通じないと不便だろ?」

「そりゃそうだが……そこまでするのか? ちょっとした気紛れで声をかけたのかと思ってたがな」

「まあ、そうなんだが……面白そうだしな」

「なんだそりゃ? 別にいいけどよ。そんな簡単なもんじゃねえぞ?」

「まあ、実際に使ってりゃ嫌でも覚えるだろ?」

「そりゃそうだけどな」


 そこからは、クドゥリサルに通訳をしてもらいながらティルヤと会話する。


「お前は剣を習いたいって事でいいんだよな?」


 そのクラウスの言葉を、クドゥリサルがティルヤに伝え、それを聞いたティルヤが何事かを答えた。


「強くなりたいんだそうだ。そのためなら何でもやりたいんだとさ」

「そうか。また明日も来るのか?」


 クドゥリサルがティルヤにその言葉を伝えると、彼は頷き何事かを口にした。


「明日以降も教えて欲しいそうだぜ」

「そうか、じゃあまた明日だな」


 そういって、クラウスは立ち上がった。

 遅れてアディメイムとティルヤも立ち上がる。


 クドゥリサルがティルヤに何事かを伝えた。

 ティルヤはそれに笑みを浮かべて何事かを口にして、それからクラウスとアディメイムに向けて手を振って見せた。


 アディメイムがそれに応えるように手を挙げて、笑みを浮かべる。

 ティルヤが何と言っているのか、クラウスにはわからなかったが、同じように手を挙げる。


「なんて言ったんだ?」

「ありがとう、だとさ」

「ああ、そうか」


 クラウスは笑みを浮かべ、挙げていた手を振りティルヤを見送った。


 それからアディメイムと二人で、ティルヤについての話をした。

 明日から何を教えるのか。

 それについては話し合うまでも無く、二人の意見は一致した。

 まず基本的な動きを身に付けさせること。

 単純な動作をひたすら繰り返すような鍛錬をやらせることになるだろう。

 もしかしたら、短期間で嫌気がさして、ここに来なくなってしまうかもしれないが、それならそれで仕方がない。

 武術に限らない、何らかの技術を会得しようと思うなら、まず基本を身に付けなければならない。

 その初歩の段階で脱落してしまうようであれば、何を得ることも出来ないだろう。

 ある程度それらの基本が身に付いたら、またその先のことを考える。


 話し合いを終えた後に、二人はちょうど良い太さの木の枝を探し、それを削って木剣を数本作った。

 それらのティルヤへの教えに対する準備を終えたのちには、いつもと同じようにアディメイムと剣を打ち合って過ごした。




 次の日の午後、再びティルヤはやって来た。


 そこで、鍛錬は彼に取って厳しいものになるかもしれないが、それでもやる気があるかを確認する。

 ティルヤはすぐに頷き、それを受け入れた。


 その日は摺り足での移動や素振り等の、基本的な練習をひたすらやらせた。

 そういった動きを自然に、意識せずに出来るようになるまで、繰り返して体に覚えさせなければならない。


 それからクラウスとアディメイムが交代で相手をしながら、軽く打ち合いもした。

 クラウス達は当然ながら手加減をして相手をしていたが、ティルヤには全力で掛かってくるように言っていた。

 単純な体力不足もあるのだろう、数分で息が上がり始めた。


 そのまま数時間ほど鍛錬を続けた。

 まだそれ程厳しい鍛錬をしているわけでは無かったが、終わる頃にはティルヤはフラフラになっていた。

 基本的な体力の増強も必要なようだ。


 家に帰ってからも基本の反復練習だけは続けるようにと教え、帰らせる。

 昨晩作った木剣は、練習用に一本持って帰らせた。

 家路を辿たどるその後ろ姿からは疲れ切った様子が見て取れた。




 それから毎日、ティルヤは休むことなく二人のいる丘の上に通ってきた。

 大半の時間を、基本の動作を反復するだけの鍛錬に費やしていたが、ティルヤは不平を漏らしたりせず、真面目に鍛錬に打ち込んでいた。


 二人の言いつけをきちんと守って、帰ってからも練習をしているのだろう。

 日を追うごとに、その動きが良くなっていくのが見て取れた。


 そのようにして、クラウスの日常に少しだけ変化が加えられた。


 アディメイムとの鍛錬、ティルヤの指導。

 それらの合間に、周囲の景色を眺めて過ごす。

 あとは、クドゥリサルに言葉を教わる時間も増えた。

 クラウスの日常は、それまでよりも少しだけ忙しいものになった。

 それでも彼は、それらの全ての時間を楽しんでいた。

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