亜人

 クラウスがこの世界に放り込まれてから、既に三ヶ月程が経過していた。

 彼は今日も日の昇る方角に向かって歩き続けている。

 その足取りはゆっくりとしたものだったが、それでも相当な距離を歩いてきているはずだった。

 だが最初に出会った老人の語っていた山は、未だに姿も見えない。


 これまでに、この地に住む獣たちから何度も襲撃を受けた。

 巨大なワニに似た生物。

 巨大な牙を持った虎に似た生物。

 奇妙な角の生えた鳥。

 人を丸呑みできるほどの体躯を持った蛇。

 様々な生物が彼に襲い掛かってきた。

 そして、クラウスはそのことごとくを撃退してきた。


 それらの生物との戦いは、クラウスが死を覚悟するほどのものにはならなかった。

 死ぬかもしれない、あるいは捕らえられ、永遠に餌としてその身を喰われ続けるかもしれない……そんな危機感と恐怖を覚えるほどの相手はいなかった。

 この世界に来て、最初に襲い掛かってきた相手である狼に似た獣達……それを率いていた、あの巨大な獣に比べれば、大したことが無いと思える程度の敵であった。


 最後に襲われたのは二週間程前のことだ。

 それからここまでは平穏に旅を続けることが出来ていた。


 ついこの間まで、平穏な時間などというものは、彼にとってただ退屈なものでしかなかった。

 だが最近は、そのような時間に周囲の風景を眺め、それを楽しむようになっていた。


 クラウスは、そんな自分自身の姿を滑稽に思っていた。

 彼はこれまでずっと、戦い以外に興味を持ったりすることが無かった。

 生きるか死ぬかのギリギリの状況に己の身を置くことを楽しんでいた。

 そのせいで周囲の人間に狂人と呼ばれていた自分が、静かに景色を眺め、それを楽しんだりしている。

 それは彼のような人間には似合わない時間の過ごし方であるように思えていた。

 だからといって、その新しい楽しみを捨てるつもりも無い。

 似合わない趣味を楽しむ彼の姿を見て、笑うような者もこの世界にはいないのだ。


 彼は今、小川のほとりを歩きながら、その周囲の景観を眺めていた。

 穏やかな川のせせらぎと、鳥や虫の鳴き声を耳にしながら、ゆっくりと足を進める。

 そうして歩いているうちに、腰掛けるのにちょうど良い大きさの石を見つけた。

 彼は立ち止まり、それに腰を下ろした。

 そして風に揺られる木々の葉と小川の水の流れを眺めて過ごす。

 そうやってしばらく周囲の景色を楽しんだ後に、剣の鍛錬をするのがここ最近の習慣になっていた。


 クラウスがいつものように、そろそろ鍛錬を始めようかと思い始めた頃だった。

 何やら動く者が彼の視界に入ってきた

 視線を向けると、離れた場所に人に似た姿をした者達がいた。

 距離は百歩程だろうか。


 おそらく亜人なのだろう。

 人数は四人。

 クラウスは苦笑を浮かべ、大きく息を吐く。

 どうやら、静かに景色を楽しむ時間は終わりのようだ。


 亜人達はまだこちらに気づいてはいないようだった。

 クラウスは彼らを観察し、その脅威がどれほどのものになるかを推察する。


 人に似た姿をしていても、あれは味方にはなりえない存在だ。

 この世界にクラウスの味方になる者など存在しない。

 いるとすれば彼と同じ、さまよい人と呼ばれる者達だけだろう。


 人に似ているがその顔は豚にも似ている。

 口の中に収まりきらないのだろう、下顎からは鋭い牙が上に向けて伸びている。

 肌は灰色で、その身は岩のようにたくましい筋肉で覆われている。

 その腰には毛皮を身に着け、縄をベルトのようにして巻いていた。

 そして、四人全員が腰に武器を吊るしている。

 三人は棍棒、一人は剣を持っていた。


 その姿は元の世界でオークと呼ばれていた亜人によく似ていた。

 その体格を見ただけで、人間などより余程優れた膂力りょりょくを持っているであろうことが分かる。


 彼らが身に付けている戦士としての技はどの程度の物なのだろう?

 身体強化の術は使えるのか?

 仲間はどの程度の数が存在しているのか?


 剣を持っているということは、金属器を作る技術があるということだ。

 当然、相応の知恵も持ち合わせているのだろう。

 クラウスは尚も思考を巡らせ、亜人たちの力量を推し量る。

 そして最終的に、あの亜人たちは大した脅威にはならないだろうという判断を下す。


 彼らの身のこなしを見る限り、戦うための技に長けているようには見えなかった。

 もう少し人数が多ければ違っていたかもしれないが、四人程度であれば十分に相手取れるだろう。

 とはいえ、もちろん油断は出来ない。

 クラウスの推量が間違っている可能性も十分にある。


 逃げてしまっても良いのかもしれない。

 あの亜人たちは、それほど足が速そうには見えない。

 疲れることの無いこの体なら、十分に逃げ切ることは出来るだろう。

 だが、クラウスはそうするつもりは無かった。


 この世界に生きる者たちにとって、さまよい人の体は尽きることの無い食料となるのだ。

 一度手に入れれば、二度と飢えることの無くなる資源。

 亜人にとっては、さらにそれ以上の価値があると聞いた。

 それを見逃すとは思えない。

 いずれ襲い掛かってくるだろう。

 ならば早めに撃退しておいたほうが良いと、クラウスはそう考えていた。


 亜人たちの一人と目が合った。

 ようやくこちらに気づいたようだ。

 クラウスはその場で立ち上がり、亜人たちがどう動くのかを観察する。


 この場で今すぐ襲い掛かってくるだろうか?

 あるいは仲間を呼びに行くのか。


 考えながら、クラウスは戦いの前に周囲の状況を今一度確認しようと、辺りを見回した。

 その目に、つい先程まで静かに鑑賞していた景色が映る。

 戦いになれば、この場所を血で汚すことになるだろう。

 それを想像して、少しだけ嫌な気分になった。


 その自身の感情の動きに、クラウスはかすかな驚きを覚える。

 何故そんなことを気にしているのか?

 戦いになれば、必ず血は流れる。

 これまで、流れた血で周囲が汚れるのを気にした事など、一度も無かったというのに。


 クラウスは頭を振って、その雑念を追いやった。

 そして再び亜人たちに注意を向ける。

 彼らはお互いに何か言葉を交わしているように見えた。


 亜人たちはしばらくの間、こちらをちらちらと窺いながら何かを話していたようだったが、やがて逃げ出すようにその場を去っていった。

 おそらく仲間を連れて戻ってくることにしたのだろう。


 とりあえず、今すぐ戦う必要は無くなった。

 クラウスは大きく息を吐き、先程まで座っていた石の上に再び腰を下ろす。

 彼らは、どれ程の頭数を揃えて来るだろうか?


 彼らの力量に対するクラウスの推量が当たっていたならば、十人程度までなら問題なく相手に出来ると考えていた。

 たとえそれを越えるほどの人数を揃えてきたとしても、うまく相手を誘導し同時に相手取る人数を調整できれば、何とかなる気もしている。

 疲れることの無いさまよい人の特性を利用し、走り回って相手を振り回すことも出来るだろう。

 やり方次第でどうとでもなる気はしていた。


 それもあくまでクラウスの推量が当たっていればの話ではあったが。

 もし、あの亜人たちの戦士としての力量がクラウスと同程度であったなら、相手が三人でも厳しいだろう。


 だがそれはそれで悪くないとクラウスは考えていた。

 生死の狭間に己の身を投げ出す。

 死を身近に感じることによって得られる恐怖と緊張感を、彼は求めていた。


 そうして色々と考えているうちに、剣の鍛錬をするつもりであったことを思い出す。

 あの亜人たちに気を取られたせいで、そのことが頭から消えてしまっていた。


 クラウスは大きく息を吐き、気持ちを切り替えて立ち上がる。

 そして剣を抜き、鍛錬を始めた。

 基本的な動作や、体裁き、足裁きの鍛錬を行う。

 それをしばらく続けた後に、今度は頭の中で思い浮かべた仮想の敵を相手にした鍛錬を行う。

 敵として想定する相手はベルントや、この世界で出会った獣たちだった。


 この三ヶ月間、ずっとそんなことを繰り返していた。

 あの巨大な獣とも、頭の中で何度も戦ってきている。

 所詮は頭の中で思い描いた相手であり、本物ではない。

 それでも初見で戦った時よりは、ましな対応ができるだろう。

 あれらと再び遭遇しても、以前よりは楽に勝利できる気がしていた。


 そうしてしばらく鍛錬を続けたのちに休憩し、再び景色を眺めて過ごす。

 しばらくののちに、また鍛錬を行う。

 そんなことを何度か繰り返しているうちに、夕方になり、夜になった。

 すっかり日が暮れてしまっても、あの亜人達は戻って来なかった。

 当然戻ってくるだろうと考え、この場所にずっととどまっていたのだが、どうやら無駄になってしまったようだ。


 夜の闇に紛れて襲い掛かってくる可能性もあるかもしれない。

 だが少し考えた後に、それはおそらく無いだろうと結論付ける。

 クラウスがずっと同じ場所に留まり、亜人たちを待ち続けていることを彼らは知らないはずだ。

 移動する人間を夜の闇の中で探すのは簡単では無いだろう。

 戻って来るなら、もっと早い時間……まだ明るいうちに戻ってきていたはずだ。


 必ず襲い掛かってくるだろうと思っていた。

 尽きることの無い資源を手に入れる機会を、見逃すとは思えなかった。

 だが実際に彼らは立ち去ったまま、戻ってくることは無かった。


 クラウスは夜空を眺めながら、笑みを浮かべる。

 戦う気満々で一人待っていた自分が滑稽に思えていた。


「まあ、そういうこともあるのかもな」


 自身の間抜けさについて言い訳するかのように、一人呟く。

 これ以上この場に留まっていても、おそらく亜人たちが戻ってくることは無いだろう。

 別にあの亜人たちに恨みがあるわけでも無い。

 自分から彼らの住処に出向いて行って襲い掛かるような、そんな真似をするつもりもない。


 彼は立ち上がり、日の昇る方角に向けて歩き始めた。

 歩きながら考える。

 何かが心に引っかかっていた。

 何か大事なことを見落としているような気がしている。

 しばらく考えてみたが、その違和感を拭い去るような答えに辿り着くことは出来なかった。

 まあ、そのうちわかるだろうと考え、彼は歩き続ける。


 そうしてしばらく足を進めた後に、ふと思い出した。

 この世界で出会い、自身の手で殺した女のことを。

 そして、自身が何に違和感を覚えていたのかも理解した。


 この世界で最初に襲いかかって来た獣の群れ。

 あの獣たちは既にさまよい人を捕らえていたにもかかわらず、クラウスに襲い掛かってきた。

 一人いれば十分であるはずなのに、獣たちはクラウスを襲い、そのせいで群れの大半を失った。

 欲を掻き、クラウス相手に必要の無い勝負を挑んで、死んでいった。


 クラウスはさらに考える。

 あの亜人たちは何故戻ってこないのか?

 既にさまよい人を捕らえているのだとしたら?

 そのせいで、クラウスに手を出す必要が無かったのだとしたら?

 あの亜人たちが他の誰かを既に手に入れているのであれば、わざわざクラウスに襲い掛かってくる必要は無いだろう。


 クラウスは亜人たちが去っていった方角に目を向けた。

 あの女を自身の手で殺した時の感情が蘇る。

 あれと同じような目にあっている者がいるのかもしれない。

 考えているうちに、あの亜人たちの後を追って行きたいという衝動に駆られる。

 だがそれに、自身の心の声が疑問を投げかける。


 行ってどうするのか?

 自分は見ず知らずの相手を救いに行くような人間だっただろうか?

 いるかどうかすらもわからない誰かのために、亜人の集まる場所に姿を見せるような間抜けな行動を取るつもりなのか?


 そうやってしばらくの間、クラウスは自分自身との問答を繰り返した。

 だが、やがて我に返って苦笑を浮かべ、その問答を打ち切った。


 何故わざわざこんな、自分を納得させるための言い訳を考えているのか?

 理由などどうでも良いのだ。

 そうしたいのならすればいい。

 ただそれだけの事ではないか。


 自身の手で、心を失くした女を殺した時の事を思い浮かべる。

 クラウスは一人溜息をつき、再び亜人たちの歩き去った方角に視線を向ける。


 まだわずかに残っている躊躇いが、歩きだそうとするその足を止める。

 クラウスの想像は杞憂で、誰も捕らえられてなどいないのかもしれない。

 だがそれならそれで、少しの時間を無駄にするだけだ。

 何もせず、このよくわからない心苦しい感情を抱えたままでいるよりは、ずっとましなように思えた。


 クラウスは亜人たちの去って行った方角に向けて歩き始めた。

 歩きながら考える。

 実際にさまよい人が捕らえられていたならどうするか。

 もしあの女のように、心を失ってしまっていたらどうするのか?

 考え、そして溜息をつく。

 もしそうなっていたとしても、あの女と同じように苦しみから解放してやる程度のことは出来るだろう。


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