楽譜


 家に着くとすぐに鞄にしまった楽譜を引っ張り出してピアノに向かった。三か月ぶりに見た自宅のピアノは雪化粧のように埃を被っていて、弾きたい気持ちを抑えてまずはそれを掃除することにした。埃を払っている時も、あの楽譜で頭がいっぱいだった。抽象的な指示が多すぎる。「爆発するように」とか「曲げるように」とか、正直訳の分からないところも多い。でもその指示が単なる滅茶苦茶などではないというのは直感的に理解できた。

 掃除を終えるとすぐに椅子に座る。家族で僕以外にピアノを弾く人はいないから、高さはぴったりにあったままだ。久々に対面したピアノは以前より大きく感じられたけど、同時に懐かしさも感じた。切り替えて楽譜と睨み合い、指示の条件を満たすよう解釈して鍵盤を押し込む。その一音だけで、その楽譜への不信感は露程もなくなった。

 すごい。

 とても豊かな音が奏でられる。次の指示を読み、指を押し込む。そして二つを繋げる。自分のピアノとは思えない音に歓喜を覚えた。

 僕は数年ぶりに、寝食も忘れてピアノに没頭し続けた。


 黙々とピアノ、そしてあの楽譜に向き合った。学校では授業中も机の下で楽譜を読み込み、家ではひたすら実践した。反復練習をして大量の指示を身体に覚えさせた。たまにあの少女、音無さんの姿を見かけたりもしたが、何も聞かなかった。それをしたら何かを裏切ることになってしまうような気がしたし、何よりあの難しい楽譜を、自分の力だけでどれだけものにできるか試したかったのだ。


 あっという間に一週間は過ぎた。これまでにないくらい濃密な時間だった。

「一週間ぶりだね」

 彼女は音楽室前の壁に寄りかかり、鞄をふらふらと揺らして僕を待っていた。彼女の姿を見ると、自然と手に力が入った。

「そんな怖い顔しないでよ。私はただ確認したいだけだからさ」

 彼女はそう言って、一週間前のように微笑んだ。

「確認って何を?」

「相応しいかどうか」

 もったいぶるように、わざと核心に触れない彼女に、若干の苛立ちを覚える。気が高ぶっているのが自分でも分かった。こんな緊張感も久しぶりだ。

「とりあえず、ここは相応しくないから移動しようか」

 彼女は僕の横を通り過ぎて階段を下りていく。僕は黙って着いて行くしかなかった。学校に他にピアノを弾ける場所があるのだろうか。

 廊下は既に夕焼け色に染まっていた。眩しいくらいの夕日が時折目に痛い。下駄箱に近づくと、下校する、あるいは部活動に向かう生徒たちの声で急激に騒がしくなる。音無さんは何も言わず靴を履き替えはじめた。学校を出るのか、と少し驚いたが、置いて行かれないよう僕も急いだ。お互い黙り込んだまま、僕は彼女の数歩後ろを歩く。二人のローファーが地面を蹴る音が徐々に大きくなった。

「ねえ、どこに向かうの?」

 校門から数分歩いたところで、何も言わない彼女に遂にしびれを切らして聞いた。

「近くの公民館。そこに古いけど立派なピアノがあるの」

 彼女はこちらを振り向かずそう答えた。

 公民館って、人前で弾くのか…。途端に憂鬱になったが、今更引き返すことはできなかった。

「ほら、ここ」

 公民館には十分ほどで着いた。中に入ると、ロビーの中央に場違いなくらいに大きいピアノが一台どっしりと腰を下ろしていた。そしてピアノを囲うように作業や雑談用の小さなテーブルと椅子が複数個置かれている。確かに古く立派なピアノだが、周囲との雰囲気のミスマッチで、良くも悪くも目立っている。

 ピアノに目を奪われていると、音無さんはいつの間にか受付に向かっていた。

「使っていいって」

 彼女は確認を取り、近くの空いていたテーブルに鞄を置いた。僕も同じテーブルに鞄を置いた。

「じゃあ、聴かせてもらおうかな」

「…うん」

 6つあるテーブルは4つが使われていて、ザッと目視しただけでも公民館の中には10人以上の人がいた。それぞれが勉強をしていたり世間話をしていたり別のことをしていたが、僕がピアノに近づくと、それだけで意識がちらりとこちらに向いたのが分かった。緊張しつつも椅子に座る。高さを調節しようとすると、キリキリ、と金属のこすれる高音が鳴った。余計に注目が集まる。

 はあと、大きくため息をつく。緊張している時の癖だ。知らず知らずのうちに呼吸が滞っている。思考も途切れ途切れで、力を抜こうとすると逆に力が入っていることを自覚してしまって余計固くなってしまう。

「大丈夫だよ」

 音無さんはいつの間にか僕の横に立っていて、優しい声で囁いた。

 一週間前の音楽室でも思ったが、彼女とピアノの組み合わせはとても美しかった。二つを同時に視界に入れると分かる。単体で見ても美人な彼女だが、そこにピアノが加わるとよりその美しさが際立つのだ。そしてその逆も。ピアノも、彼女と一緒にいることで、触れられることで息を吹き返したように活き活きして見えた。彼女とピアノ、二人はお互いに持っていない部分を補完し合うように持ち合わせていて、同じ場所に存在すれば不可能などないような、そんな万能感あふれる光景が完成するのだ。

 素直に、羨ましいと思う。

 音無さんは鍵盤を数秒見て、そっと指を置いた。その時、まだ公民館の中には沢山の音が溢れていた。小学校低学年くらいの子の甲高い声や、その親と思しき主婦の姦しい話し声。スリッパのパタパタという空気の抜けるような音。パソコンのキーボードの沈む音。機械的に動作する空調の音。僕は確かにそれらを認識していた。

 しかし、彼女が鍵盤を押した瞬間、何の意味も持たないドの単音以外が消え失せた。いや、明確には消えていない。彼女の音で空調の電源が切れるわけがないのだ。音は鳴り続けていたはずだ。でも、消えたように錯覚した。ピアノから鳴ったドの音を聴こうと、脳が、聴覚が他の音を全て切り捨てたのだと思う。

 ただのドの単音が、僕だけではない、その場にいた全ての人を魅了した。機械の音だけが無粋に鳴り続けている。

 彼女は雑然となっていた音を、一瞬で整えて見せた。

「これで大丈夫だね」

 周囲の人はこの異常で、よりピアノに注目した。しかしこの静寂をもたらした本人はそれに一切驚くこともなく、うんと頷くだけだ。彼女にとってはこんなことはできて当たり前なのだろうか。周囲の音をかき消すこと。自分に注目を集めることも。

 数秒呆気に取られて、直後に自身がリラックスできていることに気が付いた。あまりの驚きに、緊張などどこかへ飛んで行ってしまったようだった。

 今なら弾ける。

 鍵盤を見つめ、楽譜を頭の中で再生した。

 最初の一音を鳴らした瞬間、音無さんの作った静寂を、最高の形で破ることができたと分かった。心音すら消え失せ、ただ自分の鳴らすピアノの音だけが耳に入ってくる。今、音無さんが鳴らした時と同じだ。他の音を聴く必要がないくらい、僕はピアノの音に価値を与えることができている。

 不思議な感覚だ。自分が鍵盤を叩いているのは分かる。ペダルを踏む足も微妙な調整で忙しくて、手の先から足の先まで少しも気が抜けない。楽譜の指示が頭を次々と流れて、それを高速で捌き続けるのに必死だ。少しでも意識が逸れたら、この音の価値を損ねてしまうだろう。全神経がピアノに集中していた。はずなのに、それとは別のイメージが頭の中にある。

 外が昼なのか夜なのかも分からないような暗い部屋に閉じこもっている自分。三角座りをして、子供みたいに拗ねている。その目は何かを諦めて何かを憎んでいるように曇っている。何も見えないし、何も聞こえない。そんな部屋にいる自分の耳に、微かなピアノの音が入ってくる。どこから聞こえるのだろう。そう思って、興味本位で立ち上がる。そしてドアに手をかけ、恐る恐る外を見る。するとそこには満開の星空が広がっていた。わあと息を吐いて、ドアを全開にする。光る空に夢中でいると、目の前には音無さんが立っていた。彼女は優しく微笑み、無言で僕の手を掴んで外へと連れ出していく。

 あくまでもそれはイメージだ。でも僕は、それまで僕が抱えていた何かが、この演奏で確かに消えていくのを感じていた。


 呼吸が乱れていた。汗が頬を伝い、背中はじんわりと湿っている。割れるような拍手が耳に入ってきて、ああ、僕は演奏を終えたのだなと気づいた。

「すごかったよ!」

「感動した!」

「ありがとう!」

 拍手と一緒にそんな声も聞こえてくる。まるで世界を救ったヒーローにでもなった気分だ。演奏の余韻が少しずつ抜けると、途端に照れくさくなって、数回数方向にお辞儀をしてから急ぎ足でピアノを離れた。音無さんも他の人と同じように手を叩いていたが、皆が恍惚とした表情をしている中、彼女だけはポカンと口を開けた間の抜けた表情をしていた。

「……どうしたの?」

「いや、想像以上だったから」

 彼女は呆けた表情のまま言った。


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