出会い②


 ようやく高校生活にも慣れてきて、同時に少し気が緩み始める四月の下旬。既に私はいくつかの授業で爆睡をしてしまっていて、その度に隣の奏ちゃんに優しく起こされている。ある日、朝のホームルームで先生は部活動の本入部期間の開始を連絡した。

「何か部活入る?」

「うーん、私は入らないかな」

 奏ちゃんの答えに、もったいないなと思う。体育で奏ちゃんはずば抜けた運動神経を見せていたし、美人だからマネージャーとかでも引っ張りだこだろうに。

「じゃあバイト?」

「バイトもいいかな。そのうちやるかもしれないけど、今は考えてない」

「へえ、意外」

 奏ちゃんは積極的に色々やる子だと思っていたからどちらにも意欲を示さないのは意外だった。

「カレンちゃんは部活入るの?」

「いや、私もやらないかな。バイトはやろうと思ってる」

 正直バイトもやるか分からない。お金をそれほど使う方ではないし、何よりめんどくさいなと思ってしまう。部活も中学の頃の先輩にテニス部に誘われてはいるけど、中学の時点でテニスに飽きていたので入る気は起きない。


 熱中できないのだ。何事にも。それが私の、一番のコンプレックス。


「…あかりちゃんは吹奏楽部だっけ?」

「そうだよ。もう練習参加してるみたい。昔から色んな楽器やってたから」

「へー、あかりちゃんが楽器……」

 すごく似合う。パンクな衣装でバンドをやっている姿も、上品なドレスを着てバーでジャズを演奏している姿も、はたまたスーツに身を包みオーケストラで金管楽器を吹いている姿も容易に想像ができた。

 予鈴が鳴って、奏ちゃんが教科書を取り出そうと机に手を入れた。私も準備をしようとした時、奏ちゃんの机からするりとクリアファイルが落ちたのが見えた。床を滑って、私の足元に止まる。

「はい」

「ごめん、ありがとう」

 拾い上げて渡すと、少し中身が見えてしまった。細い5つの線。私にはあまり縁のないものだった。

「楽譜?」

「うん。楽譜」

「奏ちゃんも楽器やるの?」

 訊くと奏ちゃんはうーんと少し考えた。

「私がやるっていうか、やってもらってるって言うのかな。私が楽譜を作って、それを別の人に弾いてもらうの」

「楽譜を作って弾いてもらう、か。……何かすごいね!」

 私が身も蓋もない感想を言うと、うんうんと頷いた。

「確かに真白君はすごいよ」

「真白君?」

 奏ちゃんの口から男子の名前が出るのは初めてだった。

「そう、真白君がこの楽譜を弾いてくれるの」

 奏ちゃんは楽譜を取り出した。その楽譜には見たことのないくらいびっしりと書き込みがしてあって、素人の私には詳しいことはちんぷんかんぷんだけど、それが普通でないことは一目で分かった。

「それを全部弾くの?」

 奏ちゃんは頷いた。私は俄然その真白君という男子に興味がわいた。ピアノが上手、そして奏ちゃんが唯一名前を呼ぶ男の子。友人として、奏ちゃんにお近づきになった男子がどれほどのものか見なくてはと思った。

「それって次はいつ弾くの?」

「今日の放課後だよ。最近は毎日弾いてるから」

「毎日?……二人きりで?」

「うん。二人しかいないよ?」

 放課後に毎日二人きり。奏ちゃんと。こんな美人と。なんて贅沢な男子なのだろう。

「私も聴きに行っていい?」

 奏ちゃんはうーんと唸った。

「どうだろう。彼、すごく人見知りそうだから。後で聞いてみるね」

 チャイムが鳴る。あの奏ちゃんがすごいと言う男子。一体どんな人なのだろうか、とミーハーな私の中で期待が膨らんでいった。


 放課後、私と奏ちゃんはA組の教室に向かった。奏ちゃんは件の真白君をすぐに見つけ、教室に入っていく。私は廊下で待機していた。

「大丈夫だって!」

「ほんと?ありがとう」

 奏ちゃんが駆け寄ってきて、真白君とやらも少しして追いつく。

「C組の水谷カレンです。よろしくお願いします」

 私の自己紹介に、真白君は軽く会釈をした。

「A組の真白創真です。こちらこそよろしくお願いします」

 奏ちゃんの言う通り人見知りなのか、私とはあまり目線を合わせてくれなかった。正直な話、私は少しがっかりした。どこからどう見てもどこにでもいそうな男子だったからだ。とてもじゃないが彼が何かの分野の超一流で、奏ちゃんとそう言った仲になる男子には見えなかった。いや、でも奏ちゃんは変わったところがあるし、逆に普通の人の方が好みなのかも。ととても失礼なことを考えていた。

「じゃあ行こうか」

 奏ちゃんが歩き出して、私たちは後に続いた。

「あれ、音楽室じゃないの?」

 下駄箱まで来たところで私は聞いた。

「あ、ごめん。言ってなかったね。今日は公民館で弾く日なの」

「公民館?」

 そういえば近くにあったな、と思い出す。

「うん。毎週金曜日に行くの。ピアノもあるし人もいるから、聴いてもらって確認のために」

「確認?」

「うん。どれだけ人を感動させられるか」

 奏ちゃんが言って、真白君は頷いた。ピアノでそんなに人を感動させることなんてできるのだろうか。真白君への期待値がぐんと下がってしまった私は、またもそんな失礼なことを考えていた。でも正直、歌詞ありの曲ならともかく、ピアノの演奏で感動なんてしたことはなかった。楽器をやっている人なんかは「あんな技術ができてすごいな」とか思って感動するのかもしれないし、いっぱい聴いてきた人は「そんな解釈もあるんだ」なんて思えるかもしれないけど、何の知識もない人は演奏で感動できたりしない。自分にできないことをできるのはすごいとは思うけど、感動するかしないかは別の話だ。


 公民館に入るのは初めてだった。学校から近いとはいえ何か特別なことがない限り公民館なんてそう来るところではない。あまり大きいところではないから、大きなピアノの存在は異常に目立っていた。しかも配置はど真ん中。弾こうとすればたちまち注目されてしまうだろう。まばらではあるが人はいる。こんな中で弾くなんて私なら絶対嫌だ。この中で、真白君は弾くのだろうか。冴えない彼にそんな度胸があるのかと、私は自分のことのようにハラハラし始めた。

「使っていいって!」

 受付に向かっていた奏ちゃんから声が聞こえる。真白君はそれを聞いてすぐにピアノに向かって行った。

「こっちに座ろうか」

 そう言われて、私は奏ちゃんの隣に座る。真白君がピアノの椅子の高さを調整し始めると、やっぱり周りの人たちは彼に注目し始めた。私ならこの時点で緊張してしまうだろう。真白君はようやく座って、リラックスするように肩を上下させる。ピアノに指を乗せて、一つだけ音を鳴らした。たーん、と何でもない音が鳴ったはずだった。でも私は、いや、その場にいた全員がその音に吸い込まれた。皆、息を殺してその音が終わるのを待っていた。

「はあ」

 音の余韻が完全に消えると、そこかしこで呼吸を再開する音が聞こえてきた。隣にいた奏ちゃんだけが、「ほほう」と感心したような声を出す。けれど、私は奏ちゃんに今の何?と聞けない。ピアノから目が離せない。何だろう、これ。感じたことのない感覚に私は驚いていた。頭の整理がつかないうちに、真白君の指が再び動き出す。

 ぞわぞわと全身に鳥肌が立った。否応なしにピアノの音に集中してしまう。強い力で引っ張られるみたいに、音楽に意識を持っていかれる。ピアノ以外の音は消えて、ピアノの音はどんどんと大きく聴こえてくる。真白君が演奏している曲はどこかで聴いたことのあるクラシックだった。どこだろう、と回らない頭で考えて思い出す。中学の頃、掃除の時間に流れていた曲だ。曲名は知らないけど結構有名なやつ。でもこれ、本当にあの曲?同じ曲でこんなに変わるものなの?音楽に詳しくなくても、きっと今私がすごい体験をしているというのは分かる。真白君の力なのか、奏ちゃんの力なのかは分からないけど、きっとこの二人はとんでもないことをしている。それだけは理解できた。演奏に引き込まれた私はその流れに身を委ねるしかない。次々に流れてくる音の一つ一つに、私の心は歓喜していた。

 演奏が終わる。最後の音の余韻まで余すことなく聴き終えると、私は天を仰いだ。夢のような時間だった。それを全身で感じる。恍惚、というのはこういう状態のことを言うのだろう。達成感と喪失感。綯い交ぜになった感情が血とともに全身をめぐる。静かになった公民館の中に、ものすごい勢いの拍手が巻き起こった。中心にいた真白君は数回お辞儀をして、照れくさそうにこちらに向かってきた。

「お疲れ!」

「うん、ありがとう」

 奏ちゃんはいつの間に買ったのか、スポーツドリンクを真白君に渡す。受け取る彼は汗だくになっていて、もらったそれを浴びるように飲んでいた。

「カレンちゃん、どうだった?」

 奏ちゃんはニヤニヤしながら聞いてくる。

「……すごかった。本当に」

「それなら良かった」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「これもイメージ通りだった。やっぱりこの前のはまぐれじゃなかったね」

「まぐれだったらどうしようと思ってたよ……」

 二人はあんなすごい演奏をしたのに、結構いつも通りって感じだ。やっぱりこの二人、本当にすごい人たちだ。

「次の楽譜いる?」

「うん、お願い」

 真白君が受け取った楽譜は、今朝私が見たものだった。

「二人ともすごいね」

 私は我に返ったところで、もう一度心を込めて言った。

「いや、弾くのはそんなに難しくないよ。すごいのはこれを作れる音無さんだよ」

 真白君が言う。

「いやいや、これを忠実に弾きこなせる真白君がすごいんだよ」

 奏ちゃんが言った。

 二人で「いやいや」「いやいや」と言う姿を見て、私はフッと吹き出してしまった。

「カレンちゃん、何かおかしいところあった?」

「いや、何でもない」

 訝しげな奏ちゃんに笑って答えた。二人して首を傾げる様子を見てまた笑った。何が可笑しいのか自分でも分からない。演奏の余韻がまだ残っていて、感情が高ぶっているのかもしれない。

「ねえ、また聴きに来てもいい?」

 二人はもちろん、と口を揃えた。私は帰り道、真白君に心の中で謝罪をした。


 家に帰ってから私はすぐにベッドに寝転んだ。目を瞑るとさっきの演奏が流れ始める。

 あの演奏は、きっと特別なものだ。改めてそう思う。ピアノの演奏なんてろくに聴いたことないけど、音楽に興味がない人でも、きっとあの演奏を聴けば興味を持つに違いない。現に私は今、演奏のことで頭がいっぱいだ。そこまで考えて、あることを思いついた。月曜日に会ったら話してみよう。そう思って私は眠りについた。


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