奏の願い
帰り際、演奏を聴いた人たちからまた来てねとありがたい言葉を受けた。こんなことを言われると演奏した甲斐があった、と思わず表情が緩む。
外の景色は既に橙色から紫色に移っており、街灯もぽつぽつと灯り始めていた。桜を散らす涼しい風が、汗の引いた身体に心地よかった。
「すごかったよ、君の演奏」
改めて、という風に咳払いしてから音無さんは言った。
「ありがとう。……でもすごいのは僕じゃなくてあの楽譜だ」
「いや、そんなことないよ」
音無さんは下を向いたまま言う。
「あの楽譜は音無さんが作ったの?」
「うん、そうだよ」
彼女はあっさりとそう答えた。だとしたらとんでもない才能だ。
「やっぱり。……すごいよ!あんなすごい楽譜が作れるならきっと最高の作曲家になれる」
僕の本気の賞賛に、音無さんは顔を上げて苦笑した。
「ありがとう。でも、作曲家かー」
音無さんは何か考えるように俯いて顎に手を当てた。
「真白君はさ、弾けない楽譜に意味があると思う?」
「弾けない楽譜?」
「そう、弾けない楽譜」
僕はその問いについて考えた。考えたことがなかった。弾くのが難しい楽譜、とか人間には不可能、みたいなものは聞いたことがある。でも今では機械を使えば音なんていくらでも複合して出すことが可能だろうし、まるきり弾けない楽譜、というのは考えられなかった。でも、もしもそんなものがあるなら。
「意味ないんじゃないかな。目的が果たせない」
あくまで演奏するため、演奏されてこその楽譜だ。演奏ができないのではそんな楽譜は存在しても無意味だろう。僕がそう答えを出すと、音無さんはうんと頷いた。
「そう思うよね。私の楽譜はそれだったんだ。誰もその通りに弾くことができない」
「……えっと、どういうこと?」
今さっき自分は完璧に弾いたつもりだったのだが。やはり解釈の違いで上手くいっていなかったのだろうか。でもそれだって、音無さんに意図を聞いて修正していけば確実に弾けるようにはなると思うのだけど。
「うーん、正確に言うと、楽譜の指示を守ったとしても狙い通りの音が出せないってことかな」
何度かその言葉を脳内で反芻するも、上手く飲み込めずに首を傾げた。説明不足を感じたのか、音無さんは考えながら、たどたどしく補足をした。
「例えば、顔とかって人それぞれ違うじゃない?双子とかどんなそっくりさんでも、やっぱりどこか見分けられる部分がある」
「うん」
「それと同じで、音にも人それぞれの特徴があるの。私はその、人それぞれの音の個性のことを『音色』って呼んでる」
「音色……」
「そ、音色。みんながそれぞれ違う音の特徴、色を持っている。音色があるから、同じ楽譜を同じように弾いても、それぞれ別の音になる。分かるかな?」
「何となくは」
「で、もちろん私には私の音色がある。そして真白君に今日弾いてもらった楽譜には、私の音色も全て書き起こしてあったの」
「音無さんの音色を…」
説明について行くのがやっとで、僕はその言葉をどうにか解釈しようと反芻した。
「それで、もちろんみんなには自分の音色があるから、私の音色付きの楽譜を演奏しても、音色同士が混ざっちゃうの」
「混ざる」
「そう、混ざる。薄まることもあるし、濃くなりすぎることもある。私とその人の色が混ざっちゃうの。絵の具みたいに」
「なるほど……」
絵の具の説明でようやく少ししっくり来た。彼女の言うことを完璧に理解できているのかは定かではないが、何となく自分の中で納得はできた。
「だから、私の楽譜は私以外誰にも弾けない」
そう言ってから、音無さんは僕の目を見た。
「でも、真白君は弾けた」
音無さんが足を止めた。僕もそれを見て止まる。音無さんは街灯の真下で、ちょうどスポットライトに照らされた舞台女優のようだった。真剣な表情。ジッと僕を見る音無さんに聞いた。
「自分では弾けないの?」
音無さんはそれを訊くと、悲しそうに、自嘲するように笑った。そして僕の知りたかった、核心の部分について語り始めた。
「病気で弾けなくなっちゃった。ちゃんと弾こうとすると一分保つかどうか。だからコンクールとかコンサートは絶対無理」
音無さんは足元に目を落としていた。表情は見えないが、その顔が決して明るいものでないことは、声色から理解できた。こんなまどろっこしいことをするのだ。何か訳があるのは当然だと思っていたし、それが良いことではないというのも何となく理解はできていた。軽い気持ちで聞いたことを途端に後悔した。
「ごめん、嫌なこと聞いちゃって」
「ううん、いいの。気にしてない。……私、自分で言うのもなんだけど、自分の音色には自信があるんだ。沢山の人たちが私の音色で喜んでくれたし、また聴きたい、聴かせてねって言ってくれていた。だから、私が弾けなくなっても、この音色はどうしても残さないといけないって思って」
「だから楽譜に」
「うん、そうなの」
音無さんは再び顔を上げた。潤んで揺らいでいるその目には不思議な力があって、僕はそれに釘付けになる。彼女の心中の覚悟、願いが目から溢れているようだった。
「だから、私の代わりに私の音色を弾いてください!」
音無さんが思い切り頭を下げる。長い髪がふわりと一瞬浮いて、音もなく落ちて彼女の顔を隠す。
代わりに弾く。
僕はその言葉に動揺してしまった。
「自分の音を弾きなさい」
僕の人生を変えた人の言葉が記憶から呼び起こされる。そしてその後に思い出すのは、辛くて苦しい時間。周囲からの酷評。結果の伴わない努力。理想と現実の差に打ちのめされた日々。
自分の音を弾けたとは到底言えない。音無さん風に言えば、自分の音色。もしかしたら僕にはそれがないから、音無さんの音色を正確に再現できたのかもしれない。その可能性は極めて高い。
「機械の音」
「つまらない」
「何も感じない」
過去に浴びせられた心無い言葉が、僕の仮説の根拠になっていく。きっとそうなのだと思う。僕の音色が真っ白だからこそ、音無さんの音色を濁すことなく弾けた。それは、もしかしたら幸せなことなのかもしれない。本来誰も感動させることのできない僕の音を、彼女は必要としてくれている。そして彼女の音色は、誰しもを感動させる力を持っている。彼女の代わりに弾けばきっと僕は自分の理想を叶えられる。
さっきの、聴いてくれた人たちの表情。どんな形であれ、僕の演奏であんな感動を生むことができるのなら。そして、それが僕にしかできないのならば。
ごめんなさい、師匠。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
僕は大きく頭を下げた。入れ替わるように、音無さんの頭が上がる。
「……いいの?」
僕も顔を上げて、その大きな瞳を見つめた。
「うん。僕が、音無さんの代わり、代奏をする。皆に音無さんの音色を届けよう」
そう言うと、音無さんの表情はぱあっと明るくなった。
「よろしく!真白君!」
音無さんはそう言って僕の手を強く握った。こうして春の夕闇の中、僕たちは一つの契約を交わした。
翌週の月曜日から音無さんとの練習が始まった。音楽室は音無さんが使用許可をもらっているらしい。
「はいこれ。新しい楽譜」
「ありが、とう……」
僕はそれをファイルから取り出してすぐに、陰鬱な気分になった。
「これは……」
びっしりと書き込まれた文字の量は最初に貰ったものよりも多く、ところどころ紙に入りきらず付箋に書かれているものもある。どんな腕のあるピアニストがどんな荘厳な覚悟を決めていても、これをもらったら気分は落ちるだろう。
「この前は自由度高めの簡単なやつだったからね。次からはガチのやつやってもらうから」
音無さんは窓を開けながらさらりと言った。あれで簡単だったなんて。果たして彼女について行けるか、僕は早くも不安になった。とりあえず貰った楽譜は置いておき、指のウォーミングアップから始める。ピアノの音がすると音無さんはすぐに駆け寄ってきて、ジッと指の動きを見つめる。
「やっぱりすごい技術だね。指が躍っているみたい」
「そんなすごいことじゃないよ。結構鈍ってるし」
「へー、鈍ってこれか……」
ひとしきり見た後、音無さんは音の響きの確認とかで音楽室の中を歩き回り始めた。僕はアップを済ませた後に先ほど貰った楽譜を読み始めた。以前より指示が多く、読むのにも一苦労だ。だが今回は制作者が目の前にいる。抽象的な指示は聞けば意図は理解できるし、スムーズにいくと思っていたのだが。
「ここさ、こんな感じ?」
「うーん、ちょっと違うかな」
僕が鳴らした音に、音無さんは納得がいかないようだった。
「じゃあこう?」
「いやー、違うなあ」
「じゃあこう?」
「違う。さっきの方がよかった」
「こう?」
「違う。ずれた」
「……もう少し具体的に言えない?強くとか弱くとか」
「うーん、そういうの苦手なんだよね。強いて言えば、ドガーって感じかな」
音無さんは至って真剣にそう言った。
「ドガー?」
「うん、ドガー。具体的じゃない?」
音無さんは至って真面目なようだ。もしかして僕が知らないだけでそういう音楽用語があるのか?と一瞬疑うが、絶対に違うだろうと首を振る。これはあれだ。聞いても無駄なやつだ。そう諦めて、試行回数を増やす方向に切り替える。
音を鳴らす。
「それじゃガーだよ」
音を鳴らす。
「それだとズガーだよ」
音を鳴らす。
「それじゃズザーだって」
音無さんは笑い出した。
「分かるか!」
思い切りツッコむと、音無さんはまた笑った。わざとやってるんじゃないか。思わずため息が漏れた。
音を鳴らす。
「それだとドターだって」
先は長そうだ。
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