音色少女と白い代奏者

山奥一登

プロローグ

 

 人生の転機は突然訪れるものだ。

 夕暮れ時、友達と遊んだ後の少し寂しい帰り道に、僕の人生の転機は聴こえてきた。それが僕の人生の一つ目の転機。

 そしてこれは、僕のもう一つの転機となった出会いの話だ。




 音無奏おとなしかなでに憧れていたのはきっと私だけではない。初めて見た時、私は彼女を「女神だ」と思った。神秘的で、何者にも汚すことのできない聖域のような美しさが当時の彼女にはあった。

 音無奏はピアノの天才だった。私が初めてピアノ教室に行ったその日、奏はピアノを弾いていた。彼女は4歳とは思えないほど情感豊かな音を出していて、既に世界の全てを見てきたような全能感に溢れていた。大人が、4歳の少女の奏でる音をまるで神のお告げのように聴いていた。誰をも引き寄せる、そんな引力が当時の彼女には備わっていた。

 奏との交流は今でも続いている。同じ幼稚園、小学校中学校を卒業した。そして明日、同じ高校に入学する。


「これでいいかな」

 持っていくもののリストと鞄の中身を一つずつ照らし合わせ、最後まで確認し終えるとそのプリントも鞄に突っ込んでベッドに寝転んだ。枕元のスマホを手に取ると、通知が1件。

『必要なものが書いてあるプリントなくしちゃった』

 泣き顔の顔文字とともに送られてきたそのメッセージを見て、相変わらずだな、とため息をつく。起き上がって、今しまったばかりのプリントを引っ張り出して写真を撮る。

『ありがとう!高校でもよろしくね!』

 今度は満面の笑みの顔文字とともに送られてきたその文を見て、切り替えの速さに思わず笑った。アラームの設定をしっかりと確認してスマホを充電する。電気を消すとすぐに眠ることができた。


「行ってきます!」

 翌朝、家から徒歩5分の距離にある奏の家へ向かった。引っ越す前から奏を迎えに行くのが私のモーニングルーティンに組み込まれている。インターホンを鳴らしても、奏はすぐには出てこない。これもいつも通りだ。

『ごめん、ちょっとだけ待って!』

「はーい」

 インターホン越しに聞こえる慌ただしい声に、分かっていたので大丈夫ですよーという意図を込めてわざとらしく延びた返事をする。スマホを取り出して、真っ暗な画面に映る自分の前髪を整えて待った。

「ごめん!遅れた!」

 3分ほどで奏は出てきた。

「いつものことじゃん」

 意地悪く言うと、奏はごめんって!と手を合わせた。二人でひとしきり笑い合うと、奏は真剣なまなざしで私をジッと見た。

「な、何?」

「あかり、制服似合うね」

「ああ、ありがとう」

 奏は真顔のままそう言った。天然なのか何なのか、そんな真剣な表情で言うことじゃないだろ、と心の中でツッコミを入れてから歩き出す。

 横にいる奏をちらりと見る。当然だけど奏も私と同じ制服を着ている。黒を基調としたブレザーと胸元のリボン。黒と赤のチェックスカート。この辺で一番可愛いと噂の、同じ制服だ。けど奏の方が可愛いものを着ているように見えてならない。さらさらで艶やかに光る黒髪。徐々に大人っぽくなっているもののまだ子供のような無垢さも残す大きな輪郭。まっすぐ伸びた背筋にキュッと締まったウエスト、スカートから伸びる細く長い脚。

 完璧だ。素材が良いと着ている服までよりおしゃれに見えてしまうということか。思わずため息が漏れる。

「どうしたの?」

「なんでもなーい」

 私が拗ねた子供のように言うと、奏は不思議そうな顔をした。

 学校に近づくと桜並木が現れる。満開の桜は入学する私たちを歓迎してくれているようだった。そよ風が花びらを舞わせ、やがてコンクリートの上を滑るように着地する。校門に着く頃、奏の頭に花びらが一枚乗っているのを見つけた。

優しい春の日だった。




「はあ」

 真白創真ましろそうまは大きなため息をついた。入学式という晴れの日に相応しくない、腹の底の深い憂鬱を孕んだため息だった。

 真白創真には生来友達が少ない。そして同じ中学からこの高校へ入学した友人は0だった。部活動もやらず塾にも通っていなかった創真に学外の友達などおらず、クラスメイトの名前を何度見返しても、知っている名前などあるはずがなかった。一から友達を作らなければならない。自分から声をかけ、気を遣いながら他愛ない質問を繰り返して、見誤らないよう慎重に距離を縮めていく。その過程の面倒くささを想像してもう一つ大きなため息をした。

騒々しい人混みをかき分け、下駄箱から廊下を通り教室に入る。とりあえず近くの人に話しかけよう。創真が意を決した瞬間、先生が来てそのままホームルームが始まってしまった。


創真は一度も口を開くことなく帰りのホームルームを迎えていた。

周りでは沢山の会話が交わされている。創真は現在それを聞くだけの装置と化している。何とかどこかの会話に入れないかとアンテナを張り巡らせるが、みんな共通の友人や部活の話をしていて、入り込む余地はまるでないように思えた。今日はもう無理だなと諦め、鞄を肩にかけた。

 とぼとぼと一人廊下を歩いていると、足音と会話で溢れる中に、聞き慣れた、けれどこれまで聞いたことのないような不思議な音が耳に入ってきた。創真は瞬時にその音に興味を惹かれ、出どころを探るためにきょろきょろと辺りを見回した。近くではない。かなり遠いところだ。

 立ち止まって神経を集中する。

「あっちか」

 誰にも聞こえないような声で呟いて人混みを抜けていく。会話の声も足音も、いつしか聞こえなくなっていた。




 隣の席の子が可愛い。

 私は正面で話している先生そっちのけで、左隣に座る美少女を見ていた。まっすぐ綺麗な黒髪に、大人っぽく、けれど年相応のあどけなさも兼ね備えた目鼻立ち。スッと伸びた背筋からはお嬢様のような品位も感じる。

 うん、どこをどう見ても可愛い。そして私の直感が告げている。絶対性格のいい子だと。ぜひお友達になりたい。そう思って話しかけるチャンスを窺うけど、美少女は私と違って先生の話をちゃんと聞いている。ここで話しかけたりしたら「こら」と優しく窘められてしまうだろう。やっぱりホームルームが終わってから話しかけよう、と仕方なく私も前を向いた。


「私の顔に何かついてた?」

 ホームルームが終わると、なんと美少女の方から私に話しかけてきた。どうやら見ていたことに気づかれていたようだ。

「え、あ、その、話しかけようと思って見ていたの」

 急なことに焦ってありのままを答えた。嘘は苦手だ。

「そうだったんだ。えっと、水谷さん?」

 美少女は首を傾げながら私の苗字を呼んだ。あれ、自己紹介したっけ?

「何で私の苗字知ってるの?」

 どこかで会ったかな、と記憶をたどっていると、美少女は口元を抑えて笑った。そして胸元をちょいちょいと指した。

「あっ」

 胸元には入学式の前に着けた、煌びやかな造花のついた名札があった。そこにはばっちり、私のフルネームが書いてある。私は自分の早とちりに赤面した。そしていそいそと美少女の名札を見る。

「えっと、おとなし、さん?」

「うん、音無奏です。よろしく」

 音無さんはにこりと笑った。かなで、という響きは彼女の雰囲気にとても合っていると思った。

 音無さんは想像よりも気さくな子だった。数分話すだけですぐに打ち解けられて、上品な見た目とは裏腹にとても等身大な人懐っこさを持っている子だった。

「ねえ、音無さん」

「奏でいいよ。私もカレンちゃんって呼んでいい?」

「もちろんいいよ。奏ちゃん」

 私が呼ぶと、奏ちゃんはにこりと微笑んだ。とても可愛らしい笑顔で、自分が男なら絶対惚れていただろうなと思った。

「奏ちゃん。この後どこか遊び行かない?」

「いいね!行こう行こう!」

 私の、初対面では少し攻め過ぎかな、とも思える提案も奏ちゃんは二つ返事で承諾した。

「あ、でも用事あるから少しだけ待ってもらっていいかな」

「うん、分かった」

「ありがとう」

 奏ちゃんは荷物を持って教室を出て行った。スマホを取り出して帰りを待つ。


 数分すると、奏ちゃんの席の前に誰かが立ったのが視界の端に見えた。もう戻ってきたのかなと思い顔を上げると、そこには奏ちゃんとは別の美人が立っていた。奏ちゃんを少女的美人と表現するなら、この人は女性的美人とでも言うべきか。胸元のリボンが赤色だから一年生だ。とても同い年には見えないくらい大人っぽい。

「すみません、ここの席の子どこ行ったか分かります?」

 美人は奏ちゃんの席を指して私に尋ねた。

「あー、何か用事があるとかでどこかに行っちゃいました。すぐ戻ってくるみたいですよ」

「そうですか、ありがとうございます」

 美人は上品に微笑んでお礼を言った。その微笑み方が奏ちゃんによく似ていた。それを見て私は、この人は奏ちゃんととても近しい間柄なのだと直感で理解した。そして奏ちゃんと同様にいい子だということも。

顎に手を当てて考え事をしている美人に、私は何となく話しかけることにした。彼女ともお友達になりたかった。

「奏ちゃんのお友達ですか?」

 私が聞くと美人は少し驚いて、でもまたすぐに上品な微笑みを浮かべた。

「はい。幼馴染です」

 美人はそう言ってから奏ちゃんの席に座った。私とその美人、代々木あかりちゃんは奏ちゃんが戻ってくるまで話をした。二人は幼稚園からずっと自他ともに認める親友なのだという。私の直感は的中したわけだ。けど、こんな美少女二人がずっとセットでいたのかと思うと周囲の女子の苦労を想像してしまって少し参った。二人とも可愛いうえにコミュニケーション能力も抜群に高い。才色兼備とはまさにこのことだろう。

 5分ほど話していると、奏ちゃんが戻ってきた。私とあかりちゃんが話しているのを見て、奏ちゃんは驚いていた。

「何話してたの?」

「ひみつー」

 二人で笑い合ってそう答えると、奏ちゃんはむーと子供のように頬を膨らませた。

「奏こそ、どこ行ってたの?」

 あかりちゃんが聞くと、奏ちゃんはやり返す様に言った。

「ひみつー」

 子供のようなやり取りに三人で笑って、私たちは近くのスタバに向かった。



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