出会い①

 

 創真は人気のなくなった廊下を歩いていた。教室のある東棟から中央廊下を抜けて西棟の特別教室棟に入ると、人っ子一人いない。東棟の騒がしい音はボリュームを捻るように徐々に聞こえなくなっていく。反対に、創真を引き寄せるあの音は大きくなっていく。

 ドドソソララソ ファファミミレレド

 ドドソソララソ ファファミミレレド

 きらきら星の初めだけを繰り返し続けるピアノの音が延々と聞こえた。音楽室の場所など知らない創真は、音だけを頼りに歩いていた。階段を登り三階に上がると、一番奥に音楽室の表示を見つけた。近づくにつれ、音はその輪郭を明確にしていく。

 そっと中を覗くと、一人の女子がピアノを弾いていた。ピアノはここまで一切変わることなく一定のリズム、一定の音量で鳴り続けている。それ自体は別段すごいことではない。ただ、それが全く耳障りにならないことに驚いた。反対の棟まで聞こえるほどの大音量。鍵盤を強く叩いていることは間違いない。しかし、それをこれだけ近くで聞いても不快感が一切ない。そして実際に弾く姿を見て更に驚いた。その女子が、大きな音を鳴らそうとしていなかったからだ。ただ目を瞑って、微笑みながら左手の人差し指一本だけで弾いていた。創真はその姿に目を奪われた。

 ドドソソララソ ファファミミレレド

 ドドソソララソ ファファミミレレド

 ひたすら機械のように弾き続けている。いや、機械のようなんて言ったら失礼だ、と創真は首を振る。彼女の音にはとても優しい温もりを感じる。音量もリズムも機械のように一定のはずなのに、感情的要素は一切失われていない。彼女の持つ心の温かみがそのままピアノに入って、音に変換されて伝わってくるようだった。

 ジッと壁に隠れて聴いていると、突然演奏が終わった。最後のドの音が、ピアノから音楽室、音楽室から廊下、そして僕へと伝播してくる。僕はその時、反射的に息を止めた。この音の伝達を妨げてはいけないと身体が自動で判断したようだった。

 音は僕を通り抜け、後には空気がろ過されたような清潔な静寂が残った。

 ピアノを弾いていた少女は目を開け、鍵盤を優しく撫でた。そして伸びをしてから立ち上がって窓を開ける。長い黒髪が風で靡く。ピアノ、陽光、そしてピアノを弾いていた少女。その光景は奇跡のように美しく、僕の胸を震わせた。恋ではない。羨望が胸を震わせたのだ。

 この子はピアノに愛されている。

 直感的にそう思った。

「耳がいいね」

 少女はこちらに振り返って言った。ぎょっとして辺りを見回すけど、当然僕以外の人はいない。彼女は僕に話しかけているのだと理解して、観念するように音楽室に入った。僕を見て微笑む少女の胸元には赤いリボンがあった。

「一年生……」

 驚いた。ピアノの技術の高さから、とても同い年とは思えなかった。

「うん、一年C組の音無奏です」

「えっと、一年A組の真白創真です」

 彼女に釣られるように自己紹介をすると、音無という少女は何かに納得するように頷いた。

 数秒沈黙が続く。何か話さなくてはという気持ちになる。

「す、すごい演奏だったね。東棟まで聞こえてきたよ」

「ありがとう。……でも、君ならもっと上手く弾けるかもしれない」

 音無さんは優しい声でそう言った。

「え?」

 言葉の意味が分からなかった。彼女は僕のことを知っているのだろうか。でもそれなら……。単なる皮肉だろうか。意外と意地の悪い子なのか?

 思考がぐるぐると回る。言葉の意味を考えているうちに音無さんは足元にあった鞄を肩にかけ、中からクリアファイルを一つ取り出した。

「はい、これ」

 急にそれを目の前に差し出されて、されるがまま受け取った。

「なにこれ?」

「一週間後にまたここで」

 音無さんは僕の問いには答えず音楽室を去って行った。パタパタと足音が遠ざかっていく。彼女が開けた窓から暖かい風が入って、カーテンを揺らしていた。突然のことに呆気にとられて彼女を追うこともできなかった。手元に残ったファイルを見る。透明なファイル越しに五線譜が見えた。見ていいのだろうかと少しためらったが、試しにと一枚を取り出した。

「これは……」

 何だ、という言葉が継げないくらいに驚いた。中に入っていたのはきらきら星変奏曲というタイトルのついた楽譜だ。それだけなら驚きはしない。しかしその楽譜には夥しい量の指示やメモが追記されていた。これまで何百、何千という楽譜を見てきたが、こんなに真っ黒な楽譜は初めてだった。その書き込みの量には恐怖すら覚えたほどだ。読んでいいのかと逡巡したけど、興味が勝りその楽譜を読み始めた。


 全てを読み終える頃には一時間が経過していた。立ちっぱなしでいた疲労がドッと押し寄せてきて、近くの椅子に座った。

「すごいな……」

 思わず独り言が漏れる。一音につき少なくとも5つ、多いものでは10以上の指示やメモが書き込まれていた。具体的な音楽用語を使った指示よりは抽象的な指示の方が多く、こんなものを作者の意図通りに弾ける人がいるのだろうかと疑問に思うほどだ。

 これを作ったのは彼女なのだろうか。もしそうだとしたら、なぜ僕に渡したのか。ファイルに収まった楽譜をジッと見ながら、彼女の言葉を思い出す。

「君ならもっと上手く弾けるかもしれない」

「一週間後にまたここで」

 脳内に残るその言葉と手元にある楽譜を照らし合わせれば、コミュニケーション能力の低い僕でも彼女の意図は理解できた。

 僕に、この楽譜を弾け、と言っているのだろう。

 だけど何で他人に、僕に弾かせる必要がある?

 そもそも彼女は僕を知っているのか?

 疑問は残る。クラスも名前も分かっている以上、これを返すこともできる。けれどそうはしなかった。一度リタイアしたとはいえ、ピアニストの端くれとして、この恐ろしい楽譜を弾いてみたいという気持ちが勝った。僕は楽譜を鞄に入れた。




 奏が戻ってくると、私と奏と、今さっき仲良くなったばかりの水谷カレンちゃんとスタバに向かった。しかし奏はどこか上の空で、楽しみにしていた新作もあまり進んでいないようだった。

「奏ちゃん、どうかしたの?」

 カレンちゃんも奏に違和感をおぼえたのか、心配そうに聞く。しかし奏はうーんと唸るばかりで、カレンちゃんの質問も右から左状態だ。カレンちゃんは困ったように私を見るが、私もこんな奏はあまり見たことがないので対処に困る。基本的に奏は悩まない。人間関係も、勉強も、運動も。悩むくらいなら行動!というのが奏の質だ。だけど、奏が悩む問題に一つだけ心当たりがある。数か月前、受験終わりに聞いたあの言葉。

「もしかして、見つかったの?」

 私は思い切って聞いてみた。

「うん。やっぱり同じ学校だった」

 今度はすっぱりと答える。分かりやすい。やっぱりそのことか。

「それで、どうなの?」

「うーん、期待してはいるけど、こればっかりは実際に聴いてみないと分からないな」

 奏は頬杖をついたままそう言った。カレンちゃんは何のことか分からないようで、首を傾げていた。


「彼なら私の代わりになれるかもしれない」

 奏は数か月前、そう言っていた。



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