もう一度聴きたい音色①

 

 夏休み。既に蝉は忙しく鳴き始め、うだるような暑さはいくら窓を開けても変わらない。演奏をするとシャツがべたつき、二人がいなければシャツも脱いでしまいたくなる。夏休みに入ってからも音無さんが楽譜を作り、僕が練習する。そして完成したら公民館で弾く。そのサイクルを繰り返していた。

「よし、じゃあ公民館行こうか」

 暑さが本格的になり始めてから、公民館に行くのも一苦労だった。暑い暑いと三人で話しながら歩く。オアシスのような涼しさの公民館に到着すると、弾く前に少しの間涼むのが習慣となっていた。

「そろそろ弾こうか」

「うん」

 腰を上げてピアノに向かう。結婚式、文化祭と、観客の多い演奏をこなしてきたからだろうか。緊張もあまりしなくなっていた。スムーズに椅子を整えて、ゆっくりと座る。呼吸の乱れもなければ指の震えもない。リラックスした中で、最高の演奏をと鍵盤を叩いた。


 演奏を終えると大きな拍手が巻き起こった。自分の演奏で感動して、手を叩いてくれる人たちがいる。そのことがとても嬉しかった。これは緊張とは違って、何度体験しても喜びが減ることはないだろう。いつも通り拍手に礼をして立ち上がる。その時、視界の端で何かが倒れたのが見えた。振りむくと、お婆さんが倒れていた。傍にいた人がすぐに駆け寄る。僕もすぐにお婆さんの近くへ向かった。

「大丈夫ですか!」

 小さな公民館が不穏などよめきに包まれる。お婆さんは両手で顔を抑えていて、その表情を窺うこともできない。すぐに公民館の職員が来て、そのままお婆さんは支えられながら歩き始めた。とりあえず歩けている様子を見て安心する。

「大丈夫かな」

 水谷さんが心配そうにその小さな後ろ姿を見つめていた。

 僕たちはしばらくロビーで待っていた。お婆さんのことが気がかりで、帰るに帰れなかった。

 10分ほど待つと、お婆さんは職員と一緒に戻ってきた。今度は支えられず、一人でしっかりと歩いていた。お婆さんは僕の姿を捉えると、まっすぐに向かってきた。

「ごめんね、心配かけて」

 柔らかい声だった。少ししゃがれたその声に、僕は自分の祖母の姿を思い出した。落ち着く声色だった。

「いえ、大丈夫ですか?」

「大丈夫。ちょっと感動して疲れちゃっただけだから」

「それなら良かったです」

 三人でホッとして胸を撫で下ろす。

「いい演奏だったよ。ありがとう」

 お婆さんは笑顔でそう言った。

「また弾くので、ぜひ聴きに来てください」

 僕が言うと、お婆さんは何も言わず、ただ微笑んで公民館を出て行った。悲しそうな、寂しそうな微笑みだった。なぜそんな表情を浮かべるのか分からなくて、胸が苦しくなった。その小さい背中が去って行くのを見届けると、職員の人が話をしてくれた。

「あの人、最近亡くなった旦那さんがピアニストだったんだ。だから君の演奏を聴いて旦那さんのことを思い出しちゃったんじゃないかな。中ですごく泣いていたよ」

「そうだったんですね……」

「うん。早く元気になってくれるといいけど」

 僕たちは何も言えなかった。去り際の悲しそうな微笑みだけが、僕の中でぐるぐると渦巻いていた。


 翌日、いつものように音楽室に来た。まだ音無さんも水谷さんも来ていなかった。特に珍しいことでもないのでそのままピアノに向かう。しばらくして、水谷さんが一人で来た。

「あれ、一人?」

 これはあまりないことだった。

「うん、奏ちゃんはちょっと遅れるって」

「そうなんだ」

 水谷さんはいつも通り椅子に座って演奏を聴き始めた。しかし何かソワソワとしているようで、ちらりと見ると目が合った。

「どうしたの?」

「いや、あのお婆さんのこと、気になっちゃって」

「ああ」

 脳裏にあの去り際の表情が浮かんだ。

「また聴きに来てくれるかな……」

 水谷さんがぼそりと呟く。僕は珍しく、毎日やっている練習曲でミスタッチをした。どうやら僕も気になって集中できていないようだ。ため息をつくと、立て付けの悪いドアが開いた。

「おまたせ。ねえ、今日も公民館行かない?」

 音無さんはその場で止まって言った。

「昨日のお婆さん、気になっちゃって」

 僕と水谷さんは顔を見合わせて頷いた。

 昨日と同じ職員の人に話を聞いた。今日は来ていないとのことだったのであきらめようと思ったところ、音無さんは食い下がって住所を聞きたがった。

「いや、そういうのを教えるわけには……」

 渋られたが音無さんは粘り、ここだけの話だと言って教えてもらうことができた。そのまま三人で向かう。公民館からほど近い公園の前に、お婆さんの家はあった。吉原、というお婆さんの苗字の表札を見つけ全体を見る。純和風の平屋で、古いけれど気品のあるいい家だった。インターホンを鳴らすと、中から昨日も聞いたしゃがれた声が聞こえた。そしてパタパタとスリッパが床を蹴る音が聞こえる。

「どちら様でしょうか」

 ガラガラ、と引き戸が開く。昨日のお婆さん、吉原さんは僕らの顔を見て驚いていた。

「あら、昨日の……」

「あの、少しお話がしたくて」

 音無さんが言うと、吉原さんは「上がっていって」と優しい口調で僕らを招き入れてくれた。

「何もなくてごめんね」

「いえ、こちらこそ突然すみません」

 家に入ると、仄かに懐かしい線香の匂いがした。辺りを見回すと茶色や漆色の家具が多くて、初めて来たのに落ち着く雰囲気だった。祖父母の家、という感じだ。テレビからはやや大きめのボリュームでニュースが流れていて、開け放した窓からはセミの鳴き声と涼しい風が入ってきていた。促されソファに座る。吉原さんはテレビを消すと、ふうと息を吐きながら僕らと対面のソファに腰を下ろした。

「昨日はごめんね。せっかくいい演奏だったのに、台無しにしちゃって」

「いえ、そんなことないです」

 そう答えると、吉原さんは少し考えてから、昨日職員の人が話してくれたことを、より具体的に話してくれた。旦那さんが趣味でピアノをやっていたこと、吉原さんはその音が大好きだったこと、そして旦那さんが数年前に病で倒れ最近病床で息を引き取ったことを。

「旦那はね、病院のベッドでずっと言っていた。帰ってピアノが弾きたい、お前に聴かせてやりたいよって。でも、叶わなかった」

 吉原さんはティッシュを一枚とって、目元を拭った。

「もう一回、あの演奏が聴きたい」

 虚空を見つめて吉原さんは呟いた。その言葉の、願いの重さはまだ若い僕らには計り知れないものだった。そしてそれが分かっているから、何も言えなかった。長い沈黙の中、吉原さんがごめんねと言った。

「こんな話されても困るわよね」

「音源は残っていますか」

 吉原さんの言葉を遮るように、音無さんが口を開いた。

「いや、本当に趣味で弾いていただけだから、ないと思うわ」

 急な音無さんの言葉に吉原さんは驚いていた。しかし音無さんはお構いなしに質問を続ける。

「そうですか……。何か演奏の癖とかそういうのが分かれば教えてください」

「えっと、私は音楽に詳しくないからよく分からないけど……。どうしてそんなことを聞くの?」

「私が、旦那さんの音を再現してみせます」

 音無さんは、吉原さんを見つめてそう言った。

「奏ちゃん、そんなことできるの?」

 水谷さんが焦るように聞いた。僕も同じことを思った。

「分からない。やったことはない。でも、できると思う」

 音無さんは言葉の弱さとは裏腹に、堂々とした口調だった。確かに、音無さんの音楽センスがあればできるかもしれない。けれど、あくまで可能性があるというだけだ。

突拍子もないことを言われた吉原さんは驚いて呆けていた。そして、しばらくしてからふふふと笑った。

「もし聴けるなら、ぜひ聴かせてほしいわ」

「任せてください。絶対に再現します」

 音無さんの言葉を聞いて、吉原さんはうんうんと頷いた。

「楽しみにしているわ」

 その後吉原さんと少し話をした。が、結論から言うと、旦那さんの演奏に関する情報はほとんど得られなかった。正直絶望的だと思う。音源もない、演奏の癖も分からない。そこから一度も聞いたことのない演奏を再現するなんて。

家を出ると既に辺りは夕焼けに包まれていた。蝉の声もいつの間にか止んでいる。水谷さんは不安そうにもう一度聞いた。

「さっきも言ったけど、知らない人の音の再現なんてできるの?」

「うーん。やってみないと分からないけど、できないことはないと思う」

 音無さんも先ほどと同様の言葉を返す。

「でも、音源も何もないんじゃ」

「……うん。正直自信はない。でも、やる。吉原さんを救ってあげたいから」

 音無さんは自分に言い聞かせるように、鼓舞するように言った。その真摯な覚悟を、熱意を、僕は信じようという気持ちになった。きっと水谷さんも同様だったと思う。

「分かった。協力するから何でも言って!」

 水谷さんは元気に言った。僕も同意見だと意思を込めて頷く。

「ありがとう。よろしく」

 音無さんは僕らを見て微笑んだ。そしてすぐまた、険しい表情に戻った。既に方法を考えているのだろう。

翌日から一週間、音無さんは音楽室に来なかった。

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