真白創真②


 技術指導を一時間ほど行った。まだ幼い子どもたちばかりだったから基礎的な指導だ。みんな先生の教え子だけあって素直でいい子たちばかりだった。覚えもよく教え甲斐もある。その後、先生に言われた通り演奏をした。音無さんの音色は子供たちの心も例外なく魅了し、中には感動で泣き出した子供もいた。大きな拍手の中、先生は嬉しそうだけど泣き出しそうな複雑な表情をしていた。僕の演奏から何かを感じ取ってくれたのかもしれない。

 教室が終わると子供たちを見送って、先生と僕ら三人は話をした。主に僕の昔話で、変な話はなかったかと戦々恐々していたが大した話は出ず安心した。

教室を出て中を見る。夕暮れに包まれる教室は初めて来たときと何も変わっていなかった。師匠の音に導かれるようにここにたどり着いたあの日。僕のピアノ人生が始まった。


 師匠は当時、高校生にして既に世界で活躍するピアニストだった。僕はそんなこと一切知らずに、師匠のような音が出せるようになりたい、とその場で教室への入会を決めたという(もちろん正式に入会したのは後で親と話し合ってからだったが)。師匠は自由奔放で掴みどころのない人だった。まるでフィクションの世界の人物のように浮世離れした雰囲気を持っていて、僕は師匠の音だけでなくその人間性にも憧れていた。けれど師匠は国内外を飛び回っていたので会えるのは月に1回あるかないか。僕はその少ない機会を逃すことのないようにと毎日教室に通って、師匠が演奏をしている時にはそれを一音も聞き逃さないようにしていた。

「師匠みたいになりたい」

 当時の僕は口癖のようにそう言っていたらしい。そして師匠はその度に「なれるものならなってみな」と大人気なく僕をからかっていた。師匠は数年後に本格的に海外に拠点を移すことになった。キャリーバッグを引っ張り遠くへ行く師匠を、僕は泣きながら見送った。

「自分の音を弾きなさい」

 師匠は泣いている僕に、最初で最後のアドバイスをくれた。

 それから僕は誰かの真似をするのをやめた。

 自分の「音」を探す日々は過酷だった。出ない結果。すべてが徒労に終わっていく感覚。小手先の技術だけが向上していき、僕は精巧な機械のような演奏を身につけた。無味無臭。無着色の真っ白な演奏。誰も僕の演奏など望んでいないのに、技術はあるから優勝してしまう。減点はないが加点もされていないのは分かった。自身でもつまらない演奏家だと思っていた。悪評は広まり、心ない言葉は僕にも聞こえるようになってきた。

「つまらない」

「機械の演奏」

「技術だけのピアニスト」

 僕は一度、ピアノをやめた。

 そしてその数か月後に音無さんと出会った。あの出会いがなければ僕は今ピアノを弾いていなかったと思う。音無さんには感謝してもし切れない。

 音無さんの代奏になったことを後悔はしていない。人を感動させることのできない僕に、唯一残された使命が音無さんの再現だと本気で思っている。だから、僕はもう自分の音を弾くことはきっとない。

 さっきの演奏で、先生はそんな僕の覚悟を感じ取ったのかもしれない。


「よっ!久しぶり!」

 思い出に耽っているとバンと背中に紅葉型の衝撃を受けた。驚いて振り返ると、満面の笑みを浮かべた師匠がいた。突然のことにフリーズしてしまう。

「…師匠?」

「そうだよ。おい、どうした。そんな顔して」

師匠は昔よりも大人っぽくなっていて、長かった茶髪が短く黒くなっていた。写真はネットで見て知っていたが、実際に会うとやはり昔との違いに驚く。雰囲気も以前より鋭くなっていて、きっとピアニストとしても昔とは全然違うのだろうなと感じる。キッチリとスーツを着た師匠は、宝塚の男役のように凛々しかった。

「麗!てっきりもう東京に行ったものだと」

 先生も驚いていた。神出鬼没も相変わらずのようだ。

「いや、東京に行く前に挨拶に来たら見たことのある顔がいて。創真、久しぶりだね」

「お久しぶりです…」

「そんなに驚かなくても。何年ぶりだっけ?大きくなったなあ」

「痛いです師匠」

 師匠は僕の肩を叩く。結構容赦なく。

「真白君の師匠って、虹村麗(にじむられい)さん?」

 音無さんは僕に言いながらも視線は師匠に釘付けになっていた。

「あ、うん。言ってなかったっけ?」

「聞いてないよ!え!すごい!」

 音無さんは大興奮で師匠に近づく。

「有名な人なの?」

「有名も何も!今海外の人に日本人ピアニストといえば?って聞いたら一番に名前が上がる人だよ!」

「へえー、そんなすごい人が真白君の…」

 水谷さんも音無さんの説明を聞いて驚いていた。

「私、麗さんのファンなんです!」

「そうなの?ありがとう。えっと、創真の彼女?」

「違います。音無さんは、その…」

 何て言えばいいか分からず言い淀む。

「私、音無奏といいます。真白君に演奏してもらっているものです」

「創真に?」

 音無さんの言葉に一瞬空気がひりついたのが分かった。僕と先生は、師匠がそれを知ってどういうリアクションをするか想像ができなかった。もちろん音無さんはそんなこと知る由もない。

「そうなんです。私、病気でピアノが弾けないので代わりに」

「なるほど…」

 師匠はちらりと僕を見る。その目つきは鋭く、僕は身をすくめて怒られる覚悟をした。

「聴かせてよ」

「え?」

「聴かせてよ。その子の音」

「あ、はい」

 師匠は微笑みながらそう言った。予想と違うリアクションに拍子抜けしてしまう。

 僕たちは再び教室の中に入って演奏をした。

 ちょうどいい。師匠にも僕の覚悟を聴いてもらおう、そう思った。

 演奏を始めてすぐに、自分の調子がいいことに気が付いた。音がいつもより大きく鳴る。指が早く動く。なぜだろうか。師匠に会えて嬉しいから?小さい頃から慣れ親しんだ場所で弾いているから?まあ何でもいい。この演奏で、師匠に今の僕を伝えよう。今の僕の覚悟、そして幸せを。師匠の演奏に導かれてここに来て、自分の演奏に絶望したこともあったけど、音無さんに出会ってからは色々な人に喜んでもらえて、とても幸せだと。

 すべては師匠の音のおかげだ。ありがとう。そんな想いも演奏に乗せて。

 今までで一番いい演奏ができたと思う。心地いい汗と疲労。出し切った、という自信があった。

「すごいじゃん」

 師匠はそう言って手を叩いてくれた。

「これだけいい音なら、創真のやってることは間違いじゃないと思う。あんたにしかできないことなら、やり抜きなさい」

「はい…!」

 師匠が認めてくれた。その言葉を聞いて、僕は一つ抱えていたしがらみを下ろすことができたような気がした。ちらりと師匠は音無さんと水谷さんの方を見た。それを見て、水谷さんは何かを察したように頷く。

「ほら、奏ちゃん。私たちはそろそろ行こう」

「え、でも麗さんが」

「行くよ。じゃあ真白君、私たち帰るから、のんびり昔話でもしてから帰りな。失礼します」

「麗さーん…」

 水谷さんは音無さんを引っ張って帰って行った。なんだか気を遣わせてしまったみたいだ。

「いい子たちだね」

「そうですね。いつも助けられています」

「そっか…」

 師匠は何かを考えるように外に視線を外す。そして逡巡して、何かを決めたように僕を見た。

「うん。演奏から創真の覚悟は伝わってきた。きっとこれは創真にしかできない役割で、それを全うしようと思うのは当然のことだとも思う」

「……はい」

 師匠が何の話を始めたのか、ピンと来ない。

「けど、もしあの子が弾けるようになったらどうするつもり?」

「え?」

 師匠のその問いに、僕は言葉に詰まった。

「あの子がどんな病気かは分からない。けど医療は凄まじい速度で進化しているし、あの子の病気が突然治る可能性だってある。その時、あんたはどうするの?」

「それは…」

 それは考えてこなかった、いや、ずっと目を逸らしてきたことだった。誰かの代わりと言うのはその人がいれば必要のない役割だ。もし音無さんが自分で弾けるようになったら、僕は。

「まああくまでもしもの話だけどね。その感じだとあの子がどんな病気なのかも知らないんでしょ。一回確認しておいた方がいいと思うよ。創真のためにも」

「…そうですね」

「うん」

 師匠はこの話は終わり、という風にいつもの飄々とした態度に戻り、僕の肩を叩く。けれど僕はそんな風に切り替えることはできなかった。

「これ、登録しておいて。何かあったら力になってやるから」

 師匠は名刺をポケットから出した。裏には師匠の電話番号が書かれていた。

「じゃあまたね」

「はい!ありがとうございました」

「また帰ってきなよー」

 僕は先生と一緒に師匠を見送った後、家へと帰った。

 師匠の問いかけは頭の中で何度も反芻されていた。

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