過去
2週間が経った。既に世間はクリスマスムードに染まっており、駅前なんかは煌びやかなイルミネーションで彩られていた。しかし僕の心は依然薄暗いままだ。僕は未だに音無さんに病気について聞けずにいる。
今年最後のテスト期間に入り、それが一層僕の心を暗くした。自分で言うのも何だが僕は成績が悪い。そして遂にそれを音無さんに知られてしまい、テスト期間の練習禁止令を発令された。結果、僕は音無さんと顔を合わせる機会がなくなり、更に病気について聞きづらい状況になってしまった。
テスト勉強にはいつも以上に身が入らず、家で勉強しようとするとつい鍵盤に手が伸びてしまうことが多かった。家ではだめだと思い、僕は放課後に勉強できる場所を求めいつも演奏している公民館へ向かった。ピアノのためではない。あくまで勉強のためだ。
寒い中でも10分も歩くと身体が少し暖かくなる。そのせいか公民館の中の暖房は少し暑いくらいに感じた。勉強しているうちの学校の生徒が多く席はいつもより埋まっていたが一番奥のテーブルが空いていたので陣取り、マフラーを外して鞄から教科書とペンケースを取り出した。今回成績が悪いと次回更に練習時間が減らされてしまうかもしれないと考えて気合を入れなおす。教科書に向き合うとかなり集中できた。
しばらくして、数学の問題でつまずく。一度つまずくと集中力もどこかへ逃げてしまいそうになる。
「それはⅹをこの式に代入すればいいだけだよ」
悩んでいると急に背後から声がして驚いた。ぎょっとして見ると、知った顔がいた。
「こんにちは。いや、もうこんばんはか」
「……代々木さん」
音無さんの幼馴染、代々木あかりさんだった。お化け屋敷や野球応援の手伝いで何回か顔を合わせたことがあるが、直接話したことはない。代々木さん、と呼んだのもこれが初めてかもしれない。
「他の席空いてないから一緒に座ってもいい?」
言われて辺りを見回すと確かに他の席はすべて埋まっていた。勉強するだけだし別段断る理由もなかった。
「うん、大丈夫」
「ありがとう」
代々木さんはにこりと笑った。笑顔というか表情の機微というか、どことなく音無さんと似ている。幼馴染というより姉妹みたいだ。代々木さんはてきぱきと勉強道具を取り出して問題集に向き合い始めた。僕も再び勉強に戻った。
しばらくすると、たーん、とピアノの音がした。見ると小さな子供がきらきら星を演奏し始めた。とても愛らしい音だった。
「真白君もあそこで演奏するの?」
代々木さんに聞かれ、うんと頷く。少しの間、二人で子供が演奏している様子を眺めていた。
「奏にもあんな時代があったなあ」
代々木さんがぼそりと呟いて、気づく。代々木さんなら音無さんの病気について知っているのではないかと。
「ねえ、代々木さんは音無さんの病気について何か知ってる?」
僕が聞くと、代々木さんの眉間にしわが寄った。それを見て思う。そんなプライベートな情報を本人以外から聞き出そうとするのは倫理的にどうなのかと。思い付きのままに聞いてしまったからそこまで考えていなかった。不快な思いをさせたと慌てる。
「いや、ごめん。嫌なら答えなくて」
「知ってる」
僕の言葉をかき消す様に、代々木さんはそう言った。けれどそのまま次の句は継がず、依然ピアノを弾く子供を見たままだった。
「そっか」
「うん」
それなら教えてくれ、とは言えなかった。気まずい空気の中ピアノの音が止んだ。先ほどまでピアノを弾いていた少女は母親と手を繋ぎ公民館を出て行った。
「ねえ、真白君の音、聴かせて」
代々木さんは目を細めて笑った。僕は黙ってうなずいて、ピアノに向かった。
最後の一音まで切れると、公民館に割れるような拍手が巻き起こった。いつもより人が多かったが、そのほとんど全てが僕に懸命に手を叩いてくれていた。ただ、代々木さんだけは拍手をせず不思議そうな顔でじっとこちらを見つめていた。
「ねえ、最近奏に演奏について何か言われたりした?」
「いや。何も言われてないけど」
僕が席に戻るなり、代々木さんはそう聞いてきた。思い返すけど、特に最近言われたことはない気がする。
「そっか……。そろそろ帰ろうか。ちょっと話そう」
「あ、うん」
広げっぱなしだった勉強道具を閉まって外に出る。冬の刺すような冷たい風が身体にぶつかる。館内との温度差で余計に寒く感じる。代々木さんも慌ててマフラーの中に顎をうずめていた。二人で並んで夜道を歩く。話す、と言ったものの代々木さんは黙り込んだままだ。たまに白く可視化された吐息が漏れるだけで、言葉は出てこない。数分沈黙のまま歩き続けると、代々木さんは急に立ち止まって、何かを決めたように口を開いた。
「ごめん、やっぱり私から言うのは違うと思う。……でも、もし奏が言わなかったら私が教える。だから、先に奏に聞いてみて」
代々木さんは俯いたままそう言った。何の話かはすぐに理解できた。残念だとは思ったが当然のことでもある。分かった、とだけ返事をした。
「じゃあ、私家あっちだから。じゃあね」
代々木さんは胸元で小さく手を振って住宅街の方へと歩いて行った。やはり僕が音無さんに聞くしかないのだ。そしてもし音無さんが教えてくれなければ、代々木さんから聞くことができる。これで僕は確実に真実を知ることができる。
同時に、退路が断たれたとも言えるが。
テストはいつもより勉強した分、自分にしてはある程度良い点数で終わった。と言っても半分より下なのだが。今日から練習が再開だった。久しぶりに二人と顔を合わせる。
「何か久しぶりだなあ」
ピアノを弾き始めると水谷さんが呟いた。同意見だ。確かに数日しか空いていないのに随分久しぶりに感じる。
「テスト終わったしまたピアノ漬けだね」
音無さんが楽しげに言った。
「っていってもすぐに年末年始だけどね」
「そうだね。あー、音楽室使えたらここで演奏してもらいながら年越すのになあ」
「それはちょっと嫌かな……」
年末年始には学校が開いていないため音楽室も使えない。今日から一週間練習した後、再び一週間の間が空くことになる。つまり一週間以内に音無さんに聞くことができなければこのもやもやとした悩みを抱えたまま年を越すことになる。それは少し嫌だった。
「じゃあやろっか」
とりあえず練習しながら機会を探そう。そう思ってアップからいつも通りの練習を始めた。
「真白君、調子悪い?」
新しい楽譜の練習を始めてからすぐ、音無さんは怪訝な表情を浮かべた。
「いや、そんなことはないと思うけど」
「そう?何か違うんだよね……」
「テスト明けだから少し鈍ってるのかも。すぐに直すよ」
「うん」
自分で弾いていて違和感はないが、音無さんには分かるような僅かな技術の低下が出ているのかもしれない。いつも以上に丁寧に演奏を始めたが、そのまま音無さんの表情が晴れることはなかった。翌日も、その翌日も僕の演奏は鈍ったままだった。もしかしたら悩みが演奏に出ているのかもしれない。
「明日はちゃんとしてよー」
「うん。家でも練習しておく」
駅前でいつも通り音無さんと分かれる。駅に向かって、水谷さんと二人で歩いた。
「どうしたの?最近何か悩みでもある?」
「いや、悩みっていうか……。うーん」
水谷さんになら話してもいいか、と思い僕は正直に話した。師匠に言われたこと、そして代々木さんとのことを。
「そっかー。まあ繊細な部分だしね。中々聞きづらいよね」
私も聞いたことないなーと水谷さんは空に呟く。
「うん。あと、もし音無さんが弾ける、ってなったら」
「……確かに。真白君は奏ちゃんの代わり、だもんね」
皆まで言わなくても水谷さんは全てを察してくれた。
「でも聞かないとどのみち集中できないでしょ。私、明日練習行かないから聞いちゃいなよ」
うん、それがいい、と水谷さんは一人で納得するように頷いた。
「え、でも」
「大丈夫。奏ちゃんのことだしきっと喧嘩とかにはならないよ」
「…うん、そうだね。明日聞いてみるよ」
その後はいつも通り他愛ない話をして電車に揺られた。
翌日の放課後。水谷さんは用事があると言って音楽室に来なかった。二人で練習をしていると、音無さんがおお!と叫んだ。
「見て!雪だよ!雪!」
見ると外にはパラパラと、本当に微量ではあるが雪が降っていた。僕らの住む地域で雪が降るのは数年ぶりだった。
「すごい!綺麗!」
子供のようにはしゃぐ音無さんと降りゆく雪を視界の端に捉えながら、僕は練習を続けた。最初はまばらだった雪は段々と強くなり始め、雲も厚く陽を隠し続けていた。いつもより薄暗い音楽室に、無機質な練習曲の音だけが響く。
先ほどまではしゃいでいた音無さんが急に黙り込んだので再び様子を見ると、ジッと外を見つめて険しい表情をしていた。しばらくして音無さんは諦めるようにため息をついた。
「今日は早めに切り上げようか。電車止まると真白君帰れなくなっちゃうし」
「ああ、そうだね」
僕もそのことが少し気がかりだった。多少の雪でも電車が止まるのはこういう地域ではあるあるだと思う。
「おお、すごいね。雪だ雪だー」
外に出ると音無さんは再びはしゃぎ始め、雪を掌に乗せて観察したり、ゆらゆらと揺れる雪をキャッチしたりと遊んでいた。とてもじゃないが真剣な話を切り出せる雰囲気ではない。けれど今日を逃すと水谷さんの気遣いも無駄になってしまう。
「真白君」
「え、何?」
何も聞けないまま音無さんと分かれる場所に来てしまったところで、音無さんの方から声をかけてきた。雪にはしゃいでいた先ほどまでとは違う、神妙な面持ちだった。
「何か悩みでもあるの?最近ずっと暗い表情だし、練習も集中できてないみたいだけど」
音無さんにも見抜かれていたようだ。水谷さんもそうだったけど、僕はそんなに分かりやすいのだろうか。
「いや、悩みというか……」
「というか?」
音無さんは首を傾げる。さすがに自分のこととは気づいていないようだった。ここまで来たら言うしかないと意を決する。
「音無さんは、本当にもうピアノが弾けないのかなって。気になって」
僕がそれを口にした途端、音無さんがビクリと震えたのが分かった。
「えっと、最初に話さなかったっけ?私はもう病気で弾けないの」
気まずそうに目を逸らしながら音無さんは言った。触れないでくれ、と遠回しに言っているような表情。それを見ると申し訳なくて話を切り上げたくなる。進んで言いたいことではないだろうし当然の反応だ。でも僕はその先が知りたい。罪悪感を振り切って白い息を吐く。
「それは聞いたけど、詳しくは聞いてないっていうか。どういう病気なのかとか……。だから、もう一回ちゃんと聞きたいんだ」
「それは……」
音無さんは下を向いて言葉に詰まった。視界で雪だけが動いていた。
「ごめん!」
音無さんは逃げるように踵を返した。
「音無さん!」
呼んでも彼女の足は止まらなかった。
僕は一人、雪の中に立ち尽くした。
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