音無奏①

 

 雪は夜のうちに雨に変わって、わずかに積もっていた雪を洗い流した。その雨も朝には止んでいたが、空はまだ粘土で固めたような厚い雲で覆われていた。

「今日、奏ちゃん休みだった」

 音楽室に入ってきた水谷さんは暗い表情で乱雑に鞄を置いた。

「昨日はちゃんと聞けたの?」

「うん」

「喧嘩とかした?」

「いや、そういうことは」

「そっか」

 水谷さんは、音無さんが休んだのは僕と何かあったからだと考えているのだと思う。実際そうなのかもしれない。僕は昨日あったことを話した。

「そうだったんだ。……やっぱり、何かあるのかもしれないね」

「うん。昨日の音無さんの様子、いつもと違った。よっぽど言えない事情でもあるのかな。まずいこと聞いちゃったな……」

 今更ながら後悔する。

「いや、真白君には知る権利があると思うよ。これからもやっていくつもりならなおさら」

 水谷さんはそう言ってくれるが、このままでは何も分からないまま冬休みを迎えてしまう。どんよりとした空気が流れ練習をする気も起きなかった。どうしたものかと考えていた時だった。

「あ、そうだ!」

「何?」

「代々木さん!」

 僕は代々木さんに言われたことを思い出した。水谷さんに連絡を取ってもらうと、代々木さんはすぐに来てくれた。

「奏に聞いたんだね」

 僕の姿を捉えると間髪入れず、代々木さんはそう言った。

「うん。でも教えてくれなかった」

「やっぱりそうだよね。うん、じゃあ私から話す」

「あ、待って」

 話し始めようとした代々木さんを、水谷さんが静止した。

「あかりちゃんが話すこと、奏ちゃんはいいって言ってるの?」

 それは確かに確認するべきことだ。音無さんの話したくないことを、勝手に聞くのは申し訳ない。

「一応さっき連絡して奏に許可は取った。いずれは話すつもりだったからいいって」

「そっか……。ありがとう。じゃあ、聞かせて?」

 僕と水谷さんは代々木さんと対面するように椅子を配置して座った。肌寒い音楽室の中で代々木さんは語り始めた。僕らの知らない、音無さんの過去を。

「奏がピアノを始めたのは4歳の頃。私と同じ日にピアノ教室に入会したの。そして奏は数か月後には、天才少女として有名になった」

それは容易に想像できる。音無さんの音色はただの単音ですら人々を魅了することができる。技術がなくても十分すぎるくらいの魅力を持っているということだ。

「そのまま少しずつ技術なんかも習得して、コンクールにも出場し始めた。もちろんすべて優勝して帰ってきた。……本当にすごかった。私も何度も聴いて、その度に奏の音色に魅了された。けど、小学校最後のコンクールで奏は失格になった」

「失格?」

「うん。演奏を途中で止めちゃったの。私見に行ってたんだけど、急に弦が切れたみたいにピタッと止まって。最初はピアノが壊れたのかと思った。でも違ったみたい。奏はそのまま舞台から逃げ出して戻ってこなかった。

……心配して次の日学校で話したら、楽譜をど忘れしちゃったって笑うから、なんだそうだったのか良かったってホッとしたの。それで放課後、いつも通り奏と一緒にピアノ教室に行って演奏を聴いていたの。そしたらまた昨日みたいにピタって、不自然に奏の演奏が止まった。それで奏の様子を見に行ったら、指が震えてた。片手じゃなくて両手とも。奏もすごくショックを受けたみたいな顔をしていて、声をかけようとしたら走って教室から出て行っちゃったの。コンクールの時と同じように。その後多分先生が話をしたんだろうけど、次の日奏は指に包帯を巻いて来た。大丈夫?って聞いたら、大丈夫。すぐ治るよって、いつも通り笑って答えた。

 それから二週間くらい経って、奏がピアノ教室に復帰するって言ったから、私また着いて行ったの。少し前から包帯も取れてたし、奏はきっと治ったんだって思った。だけど」

「弾けなかったの?」

「うん。しかも前よりも早く演奏が止まった。奏は震えている自分の手を見て泣き出して。すぐに奏のお母さんが迎えに来たんだけど、奏はいやだ、弾けるまで帰らないって、泣きながら震える手でピアノを弾こうとしていた。

で、病院で色々診てもらったらしいの。指とか手だけじゃなくて、脳とかも。でも何も異常は見つからない。なのに、奏は弾けないままだった。それで、先生が言うにはイップスじゃないかって。イップス、知ってる?」

「何となく」

 僕は聞いたことがあった。水谷さんは首を振った。

「イップスっていうのはスポーツ選手とかが突然その動作ができなくなる病気なの。野球選手がボールを投げられなくなるとか。でも原因は今も解明されてなくて、精神性なのか脳の異常なのかもよく分からないの」

「そんな病気があるんだ……」

 水谷さんが驚いたように言うと、代々木さんはうんと頷いた。

「奏もそれだろうって」

「じゃあ今も音無さんがピアノを弾けないのは」

「うん。その頃発症したイップスがまだ治ってないから」

「そうだったんだ……」

 病気、という音無さんの言葉は決して間違っていなかった。だが僕が想像していたのは肘や手首の故障で、そんな原因不明の病だなんて思ってもいなかった。僕も水谷さんも、かなりのショックを受けていた。少し間を置いてから、代々木さんは話を再開した。

「……それから少しして、私たちはこっちに引っ越してきた。元々父親同士が同じ会社に勤めていて、こっちに支社を作るための転勤がきっかけでほぼ同時期にね。それで、こっちでピアノはやるの?って聞いたの。そしたらもちろんやるよって。奏はその頃まだピアノを弾くことを諦めてなかった。私はそれが嬉しくて、応援するねって言ったの。そしたら奏はよろしくねって笑った。事情が事情だったから、奏は教室には通わずに家でずっと練習してた。私も毎日奏の家に行って、それを聴いていた。でも毎回奏の演奏は途中で止まる。その度に奏は泣きそうになって、手を抑えたり振ったりして震えが治まるのを待った。そして治まったらまた弾き始める。でもまたすぐに弾けなくなる。何度も何度もそれを繰り返した。でも一向に弾けるようにはならなくて、逆に弾ける時間は短くなっていった。夏くらいだったかな。発症したばっかりの頃は1分半くらい弾けていたのに、その頃には30秒も弾けなくなって。…ついに奏が泣き出しちゃったの。もう心身ともに限界だったんだと思う。私ももう辛そうな奏が見ていられなくて、つい言っちゃった。もういいんじゃない?って。そしたら奏はもっと泣き出して。……それ以降、奏はピアノを弾かなくなった」

 代々木さんの目は潤んでいた。その時のことを思い出しているのだろう。

「それから少しして、奏は楽譜を書き始めた」

「今真白君に書いているみたいに?」

「そう。奏は自分で弾くのをやめて、誰かに自分の音を託すことにしたみたい。私はそれが、自分のせいだと思ってる」

「何で?あかりちゃんのせいじゃないよ」

 水谷さんの言う通りだ。代々木さんのせいではない。……誰のせいでもない。

「ううん。あの時、私が止めずに奏の背中を押していたら。もしかしたら奏はイップスを克服できていたかもしれない。私がもういいなんて言ったから、奏はもう立ち向かうことすらしなくなってしまった」

 代々木さんは自責するように強い口調で言った。そして溢れそうになっている涙を拭った。

「私は今でも後悔している。あれ以来、奏の音を聴けなくなったから」

 代々木さんの、代々木さんと音無さんの話はそんな暗い独白で終わった。重い話なのは分かっていた。覚悟も相応にしていたと思う。が、いざ聞くとそれを受け止めきれない。話が終わっても、僕も水谷さんも何も言えなかった。

「私が二人に話したのは、二人にも協力してほしいと思ったから」

「協力?」

代々木さんの言葉に、僕たちは顔を見合わせて困惑した。

「うん。私は奏を救いたい。そして、二人と一緒ならそれができるかもしれない」

「私達に……」

 水谷さんは困ったような表情を浮かべる。僕も同じような表情をしていたと思う。救うと言っても、原因不明の病を相手に具体的に何をどうすればいいのか分からない。それに。

「もちろん、私も真白君のことは分かっているつもり。奏が復活したら真白君にとってはその、困るかもしれない」

「いや…」

 そんなことはない、と言えなかった。音無さんの代わり、というのが僕のピアノの唯一の存在意義だったから。もし音無さんが弾けたなら僕の音は。僕の存在意義はなくなってしまう。

「だから無理に協力してほしいとは言わない。だけど私は、誰が何と言おうと奏を救うつもりだから」

 代々木さんの潤んだ目の奥には揺るがない覚悟が備わっていた。その目は僕を睨むように見つめる。敵対することも厭わない、という視線だった。彼女はきっと僕らが音無さんと出会う前からずっと、彼女を救うことを考えていたのだろう。

「あかりちゃんは、どうすればいいか考えているの?」

「うん、一応。でもそれで奏が弾けるようになるかは分からないから」

 から、僕らにも協力してほしいということなのだろう。

「すぐに答えを出してとは言わない。もし良ければでいいから」

 代々木さんは涙を拭って、努めて明るく言った。

「それじゃ部活あるから。また」

「あ、うん。ありがとう。またね」

 代々木さんは静かに笑ってドアを閉めた。残された僕と水谷さんは、しばらく動かなかった。


 翌日も音無さんは学校に来なかった。何でも本当に風邪をひいているらしく、LINEで「この前のことは気にしないで」という文章が送られてきた。僕と水谷さんは二人、練習もせずに考え込んでいた。

 僕はどうすればいいのだろう。

 その問いが何度も頭の中で繰り返される。

 当然音無さんが復帰するのは喜ばしいことだ。本当にそう思う。でも、その時の自分を想像すると、その応援や協力を進んでする気にはなれなかった。……自分でも性格が悪いなと思う。僕は自分の為だけに、音無さんの復帰を望めないでいる。でもそれがエゴだと分かっていても、元の自分に戻るのは怖かった。出口のない暗闇。少し前までいたその場所は、今いる明るい場所に比べると死地のように思えた。

 皮肉なことだ。一度音無さんの音色を知ってしまったことで、僕はその暗闇の暗さをより理解してしまったのだ。

 そんなに嫌ならピアノをやめればいい。

 心の中でそんな声もする。けど、それは無理だ。僕は音無さんの演奏を通してピアノの輝かしさも知ってしまっている。沢山の人を喜ばせることのできる、素晴らしいものだということを。だからきっと僕はやめることもできない。

音無さんに出会わなければ、なんて思ってはいけないのに思ってしまう。あのままピアノから距離を置いていれば。あのきらきら星を弾かなければ。聴こえても音楽室に行かなければ。僕はこんなに悩むこともなかったのにと。

けれど音無さんに出会わなければ、あんな喜びにも出会えなかったのだ。

 堂々巡りの思考は以前の暗闇を彷彿させて気持ちが悪かった。けれど思考は止まらない。それはどうしようもなく僕がピアノのことを考えていて、ピアノを愛しているからだった。


 冬休みに入ると、僕は久しぶりに音無さんの楽譜を使わずに自分の演奏をした。相変わらずの無機質な演奏は僕をあっという間に自己嫌悪に陥らせた。音無さんの音色がなければ僕はこんな演奏しかできない。けれど必死に弾き続けた。大晦日も、元旦も、僕はピアノに向き合い続けた。しかし一向に僕の音色は純白の白で、何度聴いても、誰の感情も動かすことはできなそうだった。

 

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