真白創真と音無奏


 6月の終わり。その日は訪れた。空は朝からうんざりするくらいの快晴で、一歩家を出ると暑苦しい空気が身体にまとわりついてくる。鞄の楽譜をもう一度確認し、アスファルトを蹴る。

 閑散とした朝の音楽室で鍵盤を叩く。一音ずつ丁寧に、初心者の練習用メニューを、感情だけを意識して弾く。今日の演奏に込めるものは既に決めている。それらを、他の曲でも再現できるように、ひたすらに鳴らし続ける。

「真白君、早いね」

「おはよう。気合入ってるね」

 水谷さんと代々木さんはずっと僕に協力してくれた。今日の演奏は、三人の音色と言っていいものだ。


 


 春が終わった。梅雨が明ければ、また暑い夏が来る。私は家のピアノの前で、震える手を見ながら、自分に言い聞かせる。大丈夫。

 2年前の2月。幼馴染のあかりの演奏を聴いて、私は音楽の楽しさ、演奏の喜びを思い出すことができた。そうだ、私は楽しいからピアノを弾いていたのだと、再確認させてもらえた。

 ……未だに長時間弾くことはできない。あかりに私の中の恐怖を払ってもらっても、イップスは治らなかった。きっと、何か別の要因があるのだと思う。自分でも分からない何かが。

 私が変わってから、真白君も変わった。これまでの真っ白な演奏から、少しずつだけど彼の演奏は色が付き始めた。もう今の彼では私の再現はできないだろう。けど、それでいい。私の代わりなんて、いなくていいんだ。私は、自分で演奏すると決めたのだから。





 演劇部が華々しく活躍する舞台を僕は袖から眺めていた。緊張はない。むしろ後ろの二人の方が緊張していた。

「去年の真白君の演奏のことを思い出すと、今でも血の気が引くの」

 青白い顔の水谷さんが口を押えそう言うと、代々木さんも共感するように頷いた。僕はそれを見て笑った。

 これは、二年前の沢渡さんと同じだ。この舞台が、僕を成長させてくれると分かるやつ。これは確かに止まることはできないなと、今更ながらあの時の沢渡さんの気持ちを理解した。


 演劇部が撤収を始める。……いよいよ本番だ。先生たちが数人がかりでピアノを動かす。司会の陽気な女子が演劇部の感想を言ってから僕の演奏の前振りを始める。一昨年、そして去年という言葉が聞こえると二人の肩が震えた。その様子に、僕はまた笑ってしまう。

「じゃあ、行ってくるよ」

「頑張ってね!」

「奏を超えてね!」

 二人の声援に頷いて、僕はステージに向かった。





 私たちの高校最後の文化祭で、真白君は再び舞台に上がる。一昨年は大成功、去年は大失敗。そんな対極の結果を残している真白君の演奏が、怖いと同時に楽しみでもあった。

 まばらな拍手。皆去年の演奏の印象が残っているから、あまり期待していないのだろう。彼が鍵盤に指を置く。ざわつきがなくなり、一瞬の静寂が生まれる。そして、彼の音が会場に風を起こす。

 最初の一音から、それが私に向けられた演奏だと理解した。前回聴いた時よりも濃くなった音色。もう2年前のような白さは微塵もない。濃密な旋律は彼の成長を感じさせる。

 元々技術は抜群にあった。プロ顔負けの程に。ただそれを、表現に活かす術を知らなかっただけ。だからもし真白君が表現することを知ってしまったら。身につけてしまったら。技術を駆使してどんな感情でも、情景でも映し出せるピアニストになれる。

 音の中にあかりやカレンちゃんの気配を感じる。二人も一緒に作った音色なんだ。なんて綺麗で、強い意志のこもった音。

 私はそれを、プレゼントを開けるように大事に聴いていく。

 一音一音に思い出が宿っている。私の知らない幼い頃の真白君。そして真白君が師匠と慕う虹村さんとの光景。そして私との出会い、カレンちゃんとの出会い。依頼で色々な場所に出向いて演奏する日々。結婚式。文化祭。吉原さんの家。旅館での演奏。音楽教室。そして私との決別。その後の試行錯誤の日々。真白君の思い出が、そのまま音の変遷となって流れ込んでくる。

 ……すごい。

 真白君のことを舐めていたわけじゃない。ただ、人の音色をそのまま映し出せるレベルに真っ白な演奏しかできなかった彼が、この短期間でここまで表現できるようになるなんて思ってもいなかった。このままだと私の音色すら…。私の音色すら、何?

 私は気づく。私はいつから自分が追い抜かれる側だと、ひいては特別だと勘違いしていたのだろう。沢山褒められて、天才だと言われて、私はいつからか自分が本当に天才だと思い込んでいたのではないだろうか。

 自分がピアノを弾くことを、天才としての使命だと思い込んでいたのではないか。

 真白君はたった二年でここまで成長した。会場中の皆の心を動かし、そして私に明確なメッセージを伝えられるほどに。努力で、自分でその力を手に入れた。そうだ。音色は天才だけのものじゃない。誰だって等しく持っているものだ。音色はその人の人生なのだから。私はたまたまそれを表現する力に長けていた。ただそれだけ。決して、天才なんかじゃない。私は特別じゃない。だから。

 こんな重い気持ち、持たなくてもいい。

 いつからかうぬぼれていたんだ。

 私がやらなくても、きっと真白君や、私の知らない誰かがピアノを、音色を使って色々な人の心を動かしていく。

……そうだ、私は別に、無理にピアノを弾かなくてもいいんだ。

 一曲目が終わる。会場は熱を帯び、曲と曲のわずかな隙間を歓声が埋める。真白君はそれを意に介さず次の曲に移る。皆最初の一音を聴くとすぐに声を潜めた。

 途端に肩が軽くなった気がした。自分で気づかない間に、何か大きな荷物を背負っていたみたいだ。きっと私なんかでは抱えきれない重荷を。


 今なら弾ける。


 そう思った。けど、私が弾く理由はない。誰かが私の代わりに、いや、私以上の感動を、求めている人に与えてくれるだろう。

 でも、ピアノが弾きたい。

 あかりが思い出させてくれた音楽の楽しさは、理由なんて必要としないものだ。私はただ好きだから、楽しいからピアノを弾くのだ。純粋な楽しさ。幼い頃の感覚が湧き上がってくる。とても我慢なんてできなかった。

 動き出す。すし詰め状態の会場を、演奏に夢中な人達をかき分けて進む。目指すのはあの場所。

 演奏時間はまだ残っている。最後の曲に入るまでに、私もそこに。


「奏ちゃん!」

「奏!」

 カレンちゃんとあかりが驚いたように私を見る。その奥、明るい舞台上で、真白君がちらりとこちらを見たのが分かった。

 彼は驚いていない。

 分かってたんだ。

 私がここに来るって。

 私は舞台に向かって歩き続ける。

「ちょっと!」

「待ってください!」

 文化祭実行委員の制止を二人が止めてくれる。

ありがとう。

心からお礼を言って、私は舞台に上がった。

 ちょうど2曲目が終わった。次がラストの曲だ。真白君は黙って横にずれて、一人分のスペースを空けてくれた。真白君と連弾なんてしたことない。そもそも私が最後まで弾き切れるのかも分からない。こんな大舞台で、最高の舞台を私が盛り下げてしまうかもしれない。けど、ピアノを弾きたいという気持ちが抑えきれない。心が、全身が疼く。空いたスペースに座ると、真白君は、今までにないくらい嬉しそうに笑った。

「おかえり」

真白君は鍵盤に手を置いてそう言った。

「ただいま」

 私はそう言って、鍵盤に手をかける。呼吸は合わせるまでもない。お互いに知り尽くしている。


 幸せだった。私はただピアノを弾く喜びを、皆への感謝を、全霊で弾き続けた。




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