真白創真と沢渡優②


 僕はそれから毎日平日の放課後に2時間の指導を開始した。

 沢渡さんはとても飲み込みが早かった。元々コンクールで賞をとるほどの実力者だ。教えた技術をスポンジのように吸収していく。

「え、沢渡さん先生いないの?」

「はい。母が昔ピアノをやっていて、昔は母に教わっていました。けどここ数年は独学というか、弾きたい曲を弾いて、みたいな感じですね」

「それであれだけの成績を……」

 沢渡さんは僕が思っていたよりも天才なのかもしれない。でも、それなら技術の拙さも合点がいく。表現力はあれだけ優れているのに、技術とのアンバランスさが気になっていた。それは師匠がいないことによるものだったのだ。逆に言えば、技術を教えられえる指導者さえいれば彼女はもっとぐんと伸びるということでもある。

「今回真白さんが来てくれてよかったです。私の知らない技術ばかりでどんどん成長していくのが分かって楽しいです」

 沢渡さんは笑顔で言う。この素直さも、彼女の表現力を際立てている要素の一つかもしれない。

「あ、そうだ。真白さん、あの演奏聴かせてくださいよ!」

「あの演奏って?」

「真白さんの演奏ですよ!」

 沢渡さんの言う僕の演奏、というのは音無さんの演奏のことだろう。最近は指導ばかりで弾いていない。それに、弾くとより手放しづらくなる気がしてしまう。

「嫌ですか?」

 きっとそういう表情が出ていたのだろう。沢渡さんは気まずそうに身を縮める。

「いや、そういうわけじゃないんだ。いいよ、弾くよ」

「本当ですか!ぜひお願いします!」

 沢渡さんは目をキラキラさせて僕を見つめる。そんな顔されると、僕は彼女を騙している気分になってしまう。……音無さんはずっとこんな気持ちだったのかもしれない。僕は余計な考えを振り払い、久しぶりに音無さんの音色を奏でた。


「すごい!ほんっとうにすごいです!」

 大きな拍手が防音室の中に響いた。

「ありがとう。でも実はこれ……」

 不思議そうな顔をする沢渡さんに僕は自分と、音無さんのことを話した。もちろん現状については話さず、あくまで少し前までの僕らの関係についてだけど。

「そうだったんですね…」

「うん、ごめんね。本当はその音無さんも来るはずだったんだけどちょっと色々あって……」

「いえ、大丈夫です!私は真白さんの指導のおかげで成長できていますから!」

 沢渡さんは指をうねうねと動かす。以前に比べてその動きはしなやかになっている。僕が教えた指のストレッチを継続してくれているのだろう。

「ありがとう。それじゃ続きやろうか」

「はい!」

 沢渡さんは僕を信じてくれている。僕は指導でその気持ちに答えなくては。いつの間にかそんな気持ちが芽生えていた。

 沢渡さんはコンクールを控えていた。全国的なコンクールの本選だ。そのコンクールの直前の最終調整として、彼女は僕らに指導を依頼した。コンクールまであと少し、という熱意もあるのだろう。沢渡さんはたった1週間でも見違えるほどにめきめきと成長していき、その技術は徐々に彼女の表現力に追いついていった。


「すごい!最初に聴いた演奏もすごかったけど、もっとすごくなってる!」

 1週間ぶりに来た水谷さんは子供のように感動していた。気持ちは分かる。彼女の成長速度は異常だ。ポテンシャルの高さも伺える。

「これならコンクールも優勝だね。ね、真白君?」

「うん。こんなすごい演奏ができるなら絶対勝てるよ」

 僕が言うと、沢渡さんの顔がパーッと晴れた。

「ありがとうございます」

 沢渡さんは屈託なく笑った。


 その後も順調に指導は進んでいった。沢渡さんの演奏はそこからも更に精度を上げていき、表現も技術も高いレベルで完成されていた。


しかし、コンクール前日に事件が起きた。

 思えばその日、沢渡さんはいつもより元気がなかったような気がする。学校から帰ってきた彼女の音はどこかブレて、浮ついていた。コンクールの緊張からだろうかと思っていたところ、演奏が急に止まり、彼女は鍵盤に顔をつけた。不協和音が鈍く響く。

「沢渡さん?」

 呼びかけても返事はない。

「沢渡さん!」

 息が荒く、顔は真っ赤だった。

 急いで沢渡さんのお母さんに声をかけ救急車を呼んでもらった。沢渡さんはそのまま近くの病院へ運ばれ、お母さんは救急車へ同乗し、僕は水谷さん、代々木さんに連絡した後に搬送された病院へ自転車を走らせた。

「過労による発熱ですって。最近夜中まで弾いていたみたいだから……」

 説明してくれる沢渡さんのお母さんもぐったりとしていた。が、とりあえず重症でなくてよかった。

「沢渡さん、大丈夫?」

「あ、真白さん。すみません、ご迷惑をおかけして」

「気にしないで。無事でよかったよ」

「…ありがとうございます。最近成長が楽しすぎて、ついやり過ぎちゃいました」

 沢渡さんはそう言って苦笑する。腕には点滴が刺さっている。沢渡さんの異常な成長速度は、彼女の才能だけでなく並外れた努力量もあってこそのことだったのだ。それを見抜けず僕はハイペースで色々なことを教え過ぎた。……僕の指導者としての経験の浅さも、要因の一つだろう。

「ごめんね」

「何で真白さんが謝るんですか」

「僕のせいで、明日のコンクールに出られなくなって…」

「私、明日のコンクール出ますよ」

 沢渡さんは天井を見つめたまま言った。

「え?でも数日は安静って」

「聞きました。でも、出ます」

佐渡さんの声色は先ほどまでとちがい、力強い芯のようなものがある。

「そんな無理はしなくても。今だって熱あるんでしょ?」

「はい、正直キツイです。でも出ます」

「いや、無理だって!」

 僕が必死に説得しようとすると、沢渡さんはふいとそっぽを向いて眠ってしまった。どうすれば説得できるかを考えたが、答えは出なかった。


「私は、沢渡さんが出たいなら出ていいと思う」

 駆けつけてくれた代々木さんは迷わずにそう言った。

「そんな、もし何かあったら」

「もし出て何かあっても彼女はきっと後悔しない。でもここで辞退したら彼女は後悔し続けるよ」

きっと代々木さんはら沢渡さんと音無さんを重ねているのだろう。そう言われると、僕も正解が分からなくなってしまった。

 翌日、沢渡さんのお母さんから娘が病院を脱走したと連絡があった。僕は昨日の話を思い出し、急いでコンクール会場に向かった。


「沢渡さん!」

 沢渡さんはやはりコンクール会場にいた。本当なら部外者は立ち入り禁止だが、沢渡さんの指導者、ということで何とか控室に入ることができた。

「真白さん」

 真紅のドレスに身を包んだ沢渡さんの顔はドレスと同じくらい真っ赤だ。一体いつ家から持ち出したのだろうか。そんな熱で一人電車に乗ったのだろうか。色々な思考がぐらぐらと巡る。沢渡さんは僕を見るとフラフラと立ち上がる。

「私、やりますよ。真白さんのおかげもあって、最近もっともっと演奏が楽しくなってきました。でも、私は楽しいだけじゃなくて、上手くなりたい。そして私がもっと進化するためには、この舞台が必要だって、何となく分かるんです」

 沢渡さんは息を荒くしながら言う。しかし目はギラギラと獣のように輝いていた。熱のせいなのか、それとも意気込みのせいなのかは分からない。出番はもうすぐだが、とても説得ができる状態には見えなかった。

「私、思うんです。限界を超えるためにはまず限界にいないとって。だから私は、こんな形でも、限界にいられて、ラッキーです」

 こんなコンディションを、いつ倒れてもおかしくない体調を、この子はラッキーだと言い切るのか。満面の笑みを浮かべる沢渡さんに僕は狂気さえ感じた。舞台に向かう彼女を、僕はもう、同じピアニストとして、止めることはできなかった。

 沢渡優の名前が呼ばれる。彼女は凛々しく、堂々とピアノに向かって行った。さっきまでフラフラだったのに、なんて強いのだろう。僕は観客席に戻り彼女を見守る。今に倒れるのではないかと不安な気持ちでいたが、その心配は、彼女の一音を聴いた瞬間にどこかへ吹き飛んだ。

 演奏の世界に、引き込まれる。

 彼女の持つふんわりとした、居心地の良い演奏に、今日はどこか刺々しさが加わっていた。それを、彼女の持ち味が損なわれたと感じる人もいるかもしれない。けれどその刺々しさのおかげで、演奏に変化が生まれた。スパイスのような心地よいものだ。彼女の演奏は元々繊細で素晴らしかったが、繊細過ぎる故にどこか物足りなさもあった。それは長時間の演奏になると顕著に慣れ、そして飽きへとつながっていた。けれどそれが、その刺々しさのおかげで消えていく。これは先ほど感じた狂気、ピアノへの執念だろうか。たまに入る鋭い棘が、その繊細さを引き立たせている。繊細な美しさと棘。


 彼女の演奏は薔薇を彷彿させる。


 指が際限なく動き続ける。以前のような焦りはもう微塵もない。難所もすらすらと弾きこなしていく。彼女はただ、表現だけに集中していた。間違いなく、これまで聴いた中で最高の演奏だった。自身の課題を完全に克服し、今、彼女は逆境をさえ喰らって限界を超えたのだ。新しいピアニストの誕生を、僕は垣間見た気がした。


 素晴らしい演奏だった。演奏が終わると僕は手を叩きながら泣いていた。彼女の演奏、そして限界を超えた彼女の姿に心を打たれたのだ。


 演奏が終わるとすぐに沢渡さんの元へと向かった。

「すごい演奏だったよ」

「ありがとうございます。でも、結果を聞いたらすぐ病院に戻らないといけなそうです」

 沢渡さんは足取りも覚束ない。こんな状態でよくあんな演奏ができたものだ。肩を貸すと沢渡さんは力が抜けたのか、その細い身体が僕に乗った。非力な僕は一歩ずつ、ゆっくりと足を運ぶ。

「次は真白さんの番ですよ」

「え?」

 沢渡さんは出し抜けに耳元で囁いた。

「真白さんも、限界を超えるんです」

 優しく、促すような声だった。暖房の効いた暖かい控室に着くと、沢渡さんはすぐに上着を着て眠ってしまった。エアコンだけが低く唸る控室で、彼女の声が響く。

 僕も、限界を超える。

 彼女の言葉は確かに僕の心に届いていた。


 コンクールは沢渡さんの優勝で幕を下ろした。彼女は授賞式後すぐに母親とともに病院へ向かった。当然こっぴどく叱られながら。

僕は一人、コンクール会場の外で星を眺めていた。


 沢渡さんは限界を超えた。そして次は僕だと言った。

 限界を超える。

 僕にとってその言葉が意味するところは、一つしかなかった。

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