音無奏と


「ほんとに?協力してくれるの?」

「うん。決めたんだ。代奏をやめるって」

「…そっか。うん、ありがとう。……沢渡さんのおかげ?」

「うん。言われたんだ。次は真白さんの番です、って」

 僕が言うと、代々木さんは優しく微笑んだ。

「そしたら奏と話そうか。真白君さえ良ければすぐにでもやろうと思ってたから」

「やるって、何を?」

 思えば代々木さんがどうやって音無さんのイップスを治そうとしているのか、音無さんを復活させようとしているのか聞いていなかった。

「演奏で、奏をピアノに引き戻す」

 代々木さんは拳を握ってそう言った。


 その日の放課後、代々木さんは音無さんにメッセージを送った。音楽室に来てというシンプルなメッセージだ。

「どっちが先に話す?」

「僕から言うよ」

「そっか。じゃあ、よろしくね」

「うん」

 音無さんはほどなくしてやってきた。水谷さんも一緒だった。

「何だか久しぶりだね」

 音楽室に音無さんがいるのが、懐かしく感じた。

「そうだね」

 音無さんは気まずそうに笑う。

「それであかり、今日は何?」

 音無さんは訝しげに代々木さんを見る。怯えているようにも見えた。

「うん、ちょっと奏に私の演奏を聴いてほしくて。それより先に、真白君から話があるって」

 代々木さんに促され、僕は一歩前に出た。

「音無さん。……僕、君の代奏をやめるよ」

 僕が言うと、音無さんは一瞬ピクリと震えた。そして、みるみる落ち込んでいくのが分かった。

「……どうして?」

「自分の音色を探したくなった。自分の音で、限界を超えたいって思ったんだ」

 音無さんは僕の目を、その奥を確かめるようにジッと見つめて、諦めたように目線を逸らした。

「…そっか。それなら仕方ないね。他の人を探すよ」

 音無さんは足元を見てそう言った。

「音無さんはそれでいいの?」

 僕が言うと、彼女はまた震えた。

「いいの。私は自分では弾けないから。誰かに弾いてもらうしかないの」

 今にも泣き出しそうな、震えそうな声。以前の天真爛漫な音無さんは見る影もない。精神的にかなり落ち込んでいるのが見て取れる。けど、ここは音無さんのためにも言わなくては。

「音無さんも限界を超えようよ。分かっていたんじゃない?だから、イップスになっても弾き続けたんじゃないの?」

 沢渡さんがコンクールでの自身の進化を予感したように。音無さんもきっとその先に何かがあると思ったから弾き続けたのだろう。けれど音無さんは何も言わない。下を向いたまま、ただ鞄を両手でぎゅっと握っていた。

「奏ちゃん」

水谷さんが、優しい声とともに音無さんと向き合う。

「奏ちゃんの本当にやりたいことって何?」

「私は、誰かに弾いてもらって」

「違うでしょ?自分で、自分の音色を弾くことでしょ!」

 そう言われて、音無さんの肩が震える。

「そんなこと……」

「私、知ってるよ!奏ちゃんが時々、羨ましそうに真白君のこと見ていたの」

 音無さんはその言葉に息をのむ。そして、水谷さんを見ずに必死に声を絞り出す。

「みんなには分からないよ。私の怖さは……。自分の身体が言うことを聞かない感覚。原因不明の震えが止まらない恐怖。大好きなピアノに拒絶される悲しさは……。分からないよ……」

音無さんは涙を流して膝から崩れ落ちた。確かに、僕らにその恐怖は計り知れない。僕も水谷さんも何も言えなかった。それを見て、代々木さんは音無さんに向かって歩み出す。そしてそっと、強張っている肩を抱いた。

「奏、私の音を聴いて?」

 優しく諭すようにそう言うと代々木さんはピアノに向かった。

 てっきりトランペットを吹くのかと思っていたから驚いた。ピアノを昔やっていたことは聞いた。けど、今も弾けるのだろうか。


 代々木さんは音色を奏で始めた。いつも聴いていた音色のように思える。けれど、聴いたことのない音色にも感じた。これは間違いなく音無さんの音色だ。けれど、何か違う。これまで僕が再現してきたものとは違う、とても純粋な音だった。

「綺麗……」

 水谷さんは演奏する代々木さんに釘付けになりながらそんな言葉を口にする。まるで美しい自然を前にした時のような感想。純粋。故に美しい。それはきっと、音無さんの原点の演奏だったのだと思う。誰かのためではない。ただ、純粋に楽しさだけでピアノを弾いていた頃の音無さんの音色だ。そして同時に思う。これは、僕たちに向けられた演奏ではない。現に、すごいとは思うけど僕たちはその世界に入ることはできていない。これはきっと、音無さんの為だけの演奏だ。万人への80点ではなく、一人への120点。私的な、けれど抜群に効果的な演奏だ。


 代々木さんは一体、この演奏にどんな想いを込めているのだろうか。





 私はずっと、奏に戻ってきてほしかった。イップスにかかる前の奏にじゃない。本当に最初の、ただピアノを楽しんでいた頃の奏に戻ってきてほしかった。あの頃の、神々しいほどに真っすぐに音楽を楽しんでいた奏に。

 そのためにはイップスより先に、奏をピアノに向かわせる必要がある。奏の中の恐怖を払い、音楽の喜びを思い出してもらうそのために。何年もかけて準備してきた。

 色々な楽器に挑戦したのは音楽の喜びをもっと知るためだ。あの頃の奏に近づくため。私は奏とは違うから、もっと深く音楽の良さを知らないと奏の演奏には近づけなかった。そして今、私はあの頃の奏と同じくらい純粋な気持ちで音楽を愛して、演奏をすることに喜びを抱いている。そしてそれを、ピアノを通して表現することができるようになった。

 ……奏がピアノに向かわなくなったのは私のせいだ。私が諦めさせてしまった。奏を、ピアノから引き離してしまった。だから私が奏をピアノに引っ張り戻す。音楽の楽しさを思い出させて、そして、もう一度。一緒にイップスに立ち向かおう!

 そして私は、奏のために、奏への想いを一度捨てる。奏に楽しさを伝えるために、そんな思いは邪念だと分かったから。

 これは私が楽しむためだけの演奏だ。

 音楽の喜びを奏に伝えるとか、そんなことは考えない。ただピアノに全神経を注いで、音を鳴らす喜びを全身で味わい続ける。




 演奏が終わると真っ先に音無さんを見た。彼女は代々木さんを見たまま立ち尽くしていた。心の中で何かが渦巻いているのが見て取れる。今音無さんは、葛藤している。

 はあ、と小さい息が漏れ、同時に涙が頬を伝う。音無さんは崩れ落ちて、顔を抑えて泣き出した。

「…ごめん、あかり……」

 その言葉に、空気が一気に重くなる。代々木さんの演奏は素晴らしかった。意図も理解できた。あんなに思いのこもった演奏は聴いたことがないくらいだった。それでも、音無さんの心を動かすことはできなかったのだろうか。

「奏…」

 代々木さんも悲痛な表情を浮かべる。今にも泣き出しそうだ。

 しかし、音無さんは涙を拭って立ち上がった。彼女の一挙手一投足に注目した。彼女の足は少しずつ、ピアノに向かって行った。ふらつきながら。けれど導かれるように着実に一歩ずつ。代々木さんは立って席を譲ろうとする。それを、音無さんは袖を握って制止した。そしてゆっくりと、確かめるように、代々木さんの隣に座った。音無さんは再び涙を拭って、真っ赤な目を開いて鍵盤を確かめるように触った。最初に会った時とは違う、全ての指を、しっかりと鍵盤に乗せて。

 たーん、と和音が響く。その音は、最初に聴いたきらきら星とも、僕が再現してきた音色とも違った。稚拙で、けれど鮮やかな景色を映し出す可能性の秘められた音色だった。

「はは、全然だめだ。思うような音色が出せない。もっと、もっと、もっと練習しなきゃ」

 音無さんは鼻を啜りながら、あふれる涙を拭いながら鍵盤を叩き続ける。一音一音、確かめるように。

「あかり、協力してくれる?」

 その言葉を聞いて、代々木さんも我慢していた涙が一気に溢れ出したようだった。

「うん。うん。絶対、協力する。応援する」

 代々木さんは言いながら、音無さんを抱き締めた。音無さんは苦しそうに身をよじりながら笑った。

 夕闇の音楽室、二人の少女の悩みが消えた。お互いを思う故に、きっとずっと苦しんできたのだろう。彼女達の涙はしばらく止まらず、夕日に照らされ眩しく輝き続けていた。


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