夏
8月の中旬、夏休みも残り半分に差し掛かろうという頃、音無さんと水谷さんは何やらスマホを見ながら会話をしていた。
「何見てるの?」
「うんとね、SNSで演奏を載せるアカウントを作ろうと思って」
「へー。アカウント。作って、何するの?」
「演奏依頼を受けます」
「依頼?」
「そう、前も結構来てたの。ぜひ来て弾いてくださいって。それに応えられるように、三人の共同アカウントを作ろうと思って」
「なるほど」
確かにそれなら外での演奏の機会も増やせるし、音無さんの音を広めることにもつながる。現代流の一番効率の良い方法に思えた。
「いろんなところで聴いてもらえるの、楽しみだなあ」
音無さんは既に依頼が来るのを楽しみにしていた。水谷さんが画面に何やら打ち込んでいく様子を見守っている。よく見ると操作をしているのは水谷さんだけだった。
「よし、できた。後はメッセージを待つだけ」
「おお、カレンちゃんありがとう」
やはり音無さんはほぼ水谷さんに任せきりだったようだ。といっても僕もそういう系は疎くて力になれないから強くは言えないのだけど。その後、結局アカウントの管理はSNSをやっていない僕と音無さんにはできず水谷さんの役目になった。依頼はかなりの件数来たらしくそれから二人は僕の練習中に依頼の選定作業を行うようになった。
最初、スケジュールの許す限り全てに行きたいという音無さんと、それは金銭的にも身体的にも厳しいという僕と水谷さんの対立が起こった。結局練習時間も確保しないと再現に支障が出かねないという水谷さんのまっとうな意見で音無さんは納得した。音無さんは夏休みだからという理由で一日一つ、県内県外関係なく依頼を受けようとしていたらしい。そんなことをしたら死んでしまう。
夏休みの残りの間に受ける依頼は5つと決まった。時間とお金を考慮して、それが最大限だった。僕らは気合を入れて一つ一つの依頼に合わせた楽譜と演奏を作った。
どこで誰を相手にしても演奏は大盛況だった。吉原さんの件があってから音無さんは更に意識が高まったようで、より高度で難しい楽譜を作ることが多くなった。僕はそれを必死に練習して再現し、その努力と比例するように聴いた人には感動してもらえた。以前の僕からは考えられないような歓声は毎回僕の心を熱くし、次へのモチベーションになった。水谷さんも毎日練習に来てくれて、SNS用の演奏の撮影とアカウントの管理、そして依頼者との連絡も行ってくれた。他にも僕の練習の録音や食事の買い出しなど、本当にマネージャーのようにサポートをしてくれた。彼女のおかげで僕と音無さんは練習に全力を注ぐことができていたと思う。
夏休みも残り一週間を切り、最後の依頼に向かう日が来た。隣の県の温泉旅館。そこで行われる楽器メーカーの宴会での余興だった。この日はいつもと違い水谷さんがいない。両親の実家に帰省しているらしい。つまり今日は音無さんと二人ということだ。音無さんは大人びているところもあるが抜けているところも人より多い。しかも水谷さんは昨日これ以上ないくらい丁寧に、僕に行先への向かい方を教えてくれた。音無さんには一切教えていなかったのに。そういう面で、僕は二人で依頼に向かうというのがかなり不安だった。
電車に乗り込み中を見回すと、音無さんは既に座っていて、ちょいちょいと控えめに手を振った。夏休みとはいえ平日の昼の電車は空いていて、この車両には僕たちしかいない。
「寝坊しなかった?」
「もう昼過ぎだよ……」
二人しかいないのに隣に座るのもどうかと思い、向かいに座った。
「私、県外とか久しぶりだなあ」
音無さんはいつもよりテンションが高いように見えた。
「県外っていっても隣だし、隣接しているからあんまり県外感ないよ」
「そうかもしれないけど、県外は県外だよ」
「まあそうだけど。でも行ってもピアノ弾いて帰るだけだよ」
「分かってるよ。それでも楽しみなんだよ!」
「ふーん」
電車の中には涼しいというよりは少し寒いくらいの冷房が効いていた。最初はちょうどよく思えていたが段々と身体が冷え始め、止まるたびに入ってくる熱気が愛おしく思えた。田舎の方へ進んでいるだけあって、何駅進んでも僕らの車両にはほとんど人が乗り込んでこなかった。
「次で降りるよ」
「あ、うん」
ウトウトとしていた音無さんに声をかける。ブレーキの甲高い音が鳴り、車両が揺れてドアが開く。愛しい熱気に身体を包まれながら、乗り換えのホームに向かった。スマホを見て、水谷さんのメモと駅の案内板を見比べる。
「音無さん、こっちだよ」
「そっちか」
音無さんは真逆の方向へ向かおうとしていた。なぜだ。
その後再び数駅分電車に揺られ、計2時間かけてようやく旅館のある駅に着いた。改札を抜けて、バス停へと向かう。
「……こっちだよ」
「ありゃ」
音無さんはまたも逆に向かおうとしていた。方向音痴……。水谷さんが昨日口を酸っぱくして場所を教えていたのはこれを知っていたからだろう。ともあれ水谷さんが丁寧に教えてくれたおかげでミスもなくバスに乗ることができた。揺れる山道を上り、穴場と噂の旅館にたどり着く。予定通りに着くことができて一安心だった。
旅館は最近改装工事をしたばかりらしくとても綺麗だった。女将さん?に挨拶を済ませた後、空きの客間に通されて、改めて詳細の説明を受ける。
「お客様が17時ごろにいらっしゃいます。その後入浴を済ませてから18時半よりお食事の予定となっております。余興は食事開始から30分後とのことですので、おおよそ19時くらいからだと思います」
「分かりました」
音無さんが答える。こういう相手方への対応はいつも水谷さんがやってくれていたが、いない時は音無さんが率先して行ってくれる。コミュニケーション全般が苦手な僕としてはとてもありがたかった。
「お時間まではこのお部屋を使ってください。温泉、お食事をご用意しておりますのでご希望でしたらお申し付けください」
「え、いいんですか!!」
「音無さん」
「はっ」
音無さんはバッと机から身を乗り出して、僕の呼びかけで我に返った。ごほんと一つ咳払いをして少しずつ乗り出した上体を引っ込めていく。
「大丈夫ですよ。わざわざ遠くから来てくださったのですから、ぜひおもてなしさせてください」
女将さんは口元を隠しながら優しく言ってくれた。
「すみません、ありがとうございます」
音無さんは下を向いたままお礼を言った。顔が赤くなっているのは見るまでもない。正直、僕も音無さんと同じリアクションをしそうなくらい嬉しかった。
女将さんが浴衣とタオルを用意してくれて、僕たちはそれを持って温泉へ向かった。ホームページに載っていた露天風呂で、僕はこの後演奏が控えていることも忘れて満喫してしまった。僕が部屋に戻ると、音無さんは既に部屋に戻ってきていた。
「随分長湯だったね」
「うん、気持ちよくてつい」
「この後演奏あるんだから、しっかりしてよ?」
「はーい」
窘める音無さんにもあまり覇気がない。きっと自分もリラックスしていたのだろう。
少しのんびりしていると、女将さんが料理を運んできてくれた。
「当旅館の一番人気のメニューです」
豪華絢爛な懐石料理が運ばれてきて、これには二人そろっておー!と声をあげた。女将さんが部屋を出ると、すぐに音無さんは写真を撮り始め、そして終えるとすぐにいただきます、と手を合わせた。
夢中で食べているとあっという間に演奏時間は目前に迫っていた。急いで髪をセットして制服に着替えた。
「……いつもよりお腹出てない?」
「食べた後だから仕方ないよ」
「そんなお腹でちゃんと演奏できるの?」
「……演奏にお腹は関係ないよ」
「ならいいけど」
そう言いつつも僕はベルトをいつもより控えめに絞めた。
宴会場に近づくとその賑わいが聞こえてくる。余興なんてしなくても十分すぎるくらいに盛り上がっていて、こんな中で演奏したら逆に盛り下がるのではないかと思うほどだ。女将さんがそっと中に入り、幹事と思しき人に耳打ちする。中を覗くと、人数は30人ほど。年代は30から40代に見える人が多く、中にはもう少し上の人もいた。そして7割ほどが男性だった。それを見て、音無さんはよしよしと呟いた。
「予想通り予想通り。曲目はあれにして正解だった」
「そうだね」
幹事と思しき人が手を叩いて説明を始める。今日のために僕らが練習してきたのは昭和から平成初期に流行ったポップスだった。依頼者が楽器メーカーということもあり僕はいつも通りのクラシックでいいのではと進言したが、余興で盛り上がらせるならポップスだよ、と譲らなかった。文化祭と同じ感じなのだろう。あれから音無さんはポップスを聴くようになったらしいし、新しく身につけた技術を使いたいのもあるだろう。
「それでは、お願いします」
手招きされて中へと入っていく。拍手と指笛、よっ!なんて調子のいい声も聞こえた。今までで一番騒がしい会場だった。既に顔が真っ赤な人もいて、こんな雰囲気でピアノか、と違和感を覚えた。いつも通り礼をしてピアノに向かった。鍵盤に手を乗せると空気がシンと静まった。なるほど、音楽に携わっている人たちだけあって、いくらアルコールが入っていても音楽への姿勢は揺るがないらしい。聴く雰囲気、というのが一瞬で作られた。水を打ったような静けさの中、僕は指に力を入れる。世代じゃない僕でも耳にしたことがあるようなポップスのピアノアレンジ。アレンジというにはいささかオリジナルが過ぎるくらいだが、最初の一節で上手く観客を引き込めたのが分かった。演奏時間は20分。選りすぐりの有名な曲たちを連続で繰り出していく。恐らく今いる人たちにドンピシャで刺さるような曲たちだ。
演奏が終わると大歓声が巻き起こった。文化祭にも負けないくらい大きな歓声だったと思う。僕の耳はつんざけそうになって、すぐに立ち上がって礼をして狂乱の宴会場を抜け出した。
「すごいです!私感動しました!」
「ありがとうございます」
僕らを案内してくれた女将さんも目をキラキラさせながら感想をくれた。隣の音無さんも満足げな表情だった。とりあえず今回も大成功だ、と思った時だった。
「アンコール!アンコール!」
宴会場の狂乱はいつしかアンコールへと変わっていた。どうしたものかと音無さんを見る。
「行ってきなよ」
「でも何弾く?」
「あのお客さんの感じならクラシックでも絶対盛り上がるよ。大丈夫。期待に応えてきて」
僕はその言葉にうなずいて、再び宴会場へと戻った。入るとより一層声や拍手が大きくなった。まるで自分がスターにでもなった気分だ。僕は思い出せる限りの音無さんの楽譜のレパートリーを弾いた。4月から始めて、おおよそ週に一つのペースで進めていた再現の数は既に20を超えていた。全てを弾けばソロコンサートだって開けるくらいだ。技術とともにスタミナ不足もだいぶ克服して、今では連続でかなりの曲数を弾けるようになってきた。この数か月の全てが活きている。2曲を連続で弾き終えると、熱狂の後、再びアンコールが巻き起こる。体力にまだ余裕のあった僕は音無さんの顔を見る。音無さんは1、と人差し指を立てる。音無さんの言う1というのは、きっと最初に弾いたきらきら星変奏曲のことだろう。そう解釈した僕は再びピアノに向き合い始めた。
観客の熱狂的なアンコールもあっただろう。あるいは宴会場に充満していたアルコールのせいもあるかもしれない。僕は本当にソロコンサートでも行っているような気分になってしまい、20分の予定のところを2時間近く弾いてしまった。最終的に曲と曲のわずかな間に女将さんに止められ、惜しまれつつ僕は会場を去った。
結果、僕らは帰りのバスを逃してしまった。
「何やってるの!」
音無さんは珍しく、というか知りうる限り初めて声を荒げた。僕は汗だくのまま正座で説教をされていた。
「途中、あと1曲ってサイン出したよね?見てなかったの?」
「……一番目の楽譜ってことかと」
「違うよ!全くもう!」
「すみませんでした!」
僕は生まれて初めて土下座をした。隣で見ていた女将さんが気まずそうに口を開いた。
「今日は泊まって行ってください。私ももっと早く止めなきゃとは思っていたんですけど、演奏を聴くとどうしても止められなくて……」
「いえ、女将さんは悪くないです。悪いのは彼です!」
「すみませんでした!」
僕はもう一度頭を下げた。女将さんの厚意で僕たちは再び誰もいない温泉に浸かった。上がると音無さんの怒りは既に治まっていた。温泉効果だろうか。正直ありがたかった。
「本当に申し訳ございません」
「いえ、気にしないでください。私たちは平気ですから」
申し訳なさそうに頭を下げる女将さんに、僕も平気ですと言った。空き部屋の都合上、僕らは同じ部屋で寝ることになったのだ。一応平気だと言ったが、女将さんがいなくなった後布団を端っこに移動させた。
「何でそんな端っこに敷くの?」
「何でって……。仮にも男女だし。音無さんもこっちの方が安心でしょ」
「うーん。私はあんまり気にしないけど。まあ、真白君が気になるなら私も端に敷くよ」
「少しは気にしなよ……」
音無さんは器用に布団を端にスライドさせた。23時を回ったところで、電気を消した。
最初はいつもと違う環境、ましてや異性が同じ部屋にいるとあって、変に意識してしまい全然眠くなかったが、次第に疲れが押し寄せてきて、ウトウトとし始めた時だった。
「起きてる?」
音無さんの控えめな声がした。
「うん」
本当は半分眠っていたのだが、何事もなかったかのように答える。
「今日も大成功だったね」
「うん」
「アンコールもいっぱいしてもらえたもんね」
「悪かったよ」
「ふふ」
静かな笑い声が暗闇から聞こえてくる。あくまでも静かに、眠気を害さない穏やかな声だった。いつもとは違う声に真っ暗な空間。眠くて働かない頭で、僕は普段言わないようなことも、今なら言える気がした。
「ありがとう」
「……何が?」
僕の脈絡のないお礼に、訝しげに聞き返してくる。
「音無さんのおかげで、僕は人の心を動かすことができている」
「……そういうこと。こちらこそ、真白君のおかげで私の理想は叶っているんだから。ありがとう」
「……えっと、どういたしまして?」
暗闇の中で、二人の笑い声だけが聞こえる。
「これからもよろしくね」
「もちろん」
しばらくして、規則的な呼吸が聞こえてきた。僕は反対に目が冴えてしまって、暗闇の中でゆっくりと眠気の再来を待った。今日の演奏から、そして過去へと遡る。音無さんに会う前と後。僕の演奏は180度逆転したと言ってもいい。沢山の声援を、歓声をもらった。そしてそれは音無さんの理想だという。自分の音色でみんなを幸せにすることだと。
では僕の理想は?
眠気は存外早く戻ってきて、まどろんだ意識でその問いの答えにたどり着くことはできなかった。大方の夢がそうであるように、僕はその問いかけも朝にはすっかり忘れていた。
「ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそありがとうございました。お客様もとても喜んでおられました」
「それなら良かったです」
「またいらして下さい」
僕らは旅館を後にした。音無さんは朝が弱いようで、全く起きずに苦労した。今も一筋、アホ毛がぴょこんと飛び出している。
「よし、帰ろうかー」
「そっちじゃないよ」
方向音痴は帰り道でも健在だった。昨日通った道をなぜ忘れるのか。
「次の練習は明日?」
「うーん、とりあえず夏休みはもうおしまいでいいかな。ずっと練習漬けだったし。どうせ宿題もやってないんでしょ」
「……まあ」
「やっぱり。じゃあ次は始業式の日で。ちゃんと宿題やっておきなね」
「はーい」
話が終わったところで、ちょうど僕の最寄りへ着く。
「お疲れ」
「うん、またね」
電車を降りて、家までの道のりを歩いた。一日ぶりだというのに、何だか地元が懐かしく感じる。夏休みはあと3日。あっという間だったなと日々を思い返す。家に着くと、宿題がすべて白紙のままの状態で残っていた。
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