水谷カレン
「すごい!これならお姉ちゃんたち絶対喜ぶ!」
初めて演奏を聴いた理子は飛び跳ねながら感動していた。その気持ちはすごく理解できる。
「とりあえず完璧だね」
本番を翌日に控えた金曜日、真白君はようやく奏ちゃんからのお墨付きをもらえた。真白君と一緒に、私もホッと胸を撫で下ろす。
「明日が楽しみだね」
私が言うと三人が大きく頷く。きっと三人とも、私と同じ、大歓声を思い浮かべているだろうと思った。
帰り道、中学以来に理子と一緒に帰った。理子は終始上機嫌で、明日のことで頭がいっぱいのようだった。
「あー、ほんと楽しみ」
「もう、何回言うのそれ」
「ごめんごめん。でもあんな演奏聴いたら楽しみにしちゃうって」
「そうだね」
以前と変わらないようなやり取り。けど何だか理子は以前と少し違うような気がする。何ていうか、明日のことを差し引いても楽しそうだ。
「彼氏でもできた?」
「え?できてないよ?何で?」
理子はあっさりと否定した。
「いや、何か理子、楽しそうだから」
「あー。部活のおかげじゃないかな」
「部活?そういえば何部にしたの?テニス?」
理子と私は同じテニス部だった。理子は私と違い熱心に部活に取り組み、部長兼エースとしてシングルスでは県ベスト8まで行った。
「いや、野球部のマネージャー」
「え、マネージャー?」
驚いて思わず聞き返す。
「うん」
「運動できるんだから何かやれば良かったのに」
理子はテニスに限らずスポーツ万能だ。率直に勿体ないと思った。
「うーん、私もそう思ってたんだけどね。でも、自分がやりたいことに気付いたんだ」
やりたいこと、という言葉に私はドキリとする。
「私、自分で何かするより誰かを応援したり手伝ったりする方が好きみたいなんだ。テニスやってるときも、自分が勝つより応援してる仲間が勝った方が嬉しかったし」
「誰かを手伝うのが好き、か」
何の気なしに繰り返す。その考えは私にはあまりないもので新鮮だった。
「カレンもそうなんじゃない?」
「え?私?」
「うん。だからあの二人と一緒にいるんじゃないの?」
「いや、そういうわけじゃない、と思う」
言われるまで考えもしなかった。
「ふーん、そうなんだ。それならカレンも早くやりたいこと、見つかるといいね」
「うん…」
ちょうど理子と分かれるT字路に差し掛かる。夕焼けの中、私たちは「また明日」と手を振った。
「誰かを手伝うのが好き、か…」
私は半ば無意識に、けれど刷り込むようにもう一度理子の言葉を呟いた。
翌日、すっきりと晴れた空の下、私たちは電車で式場の最寄り駅へと向かった。私は珍しく、というか入学式以来に制服をキッチリと着ていた。奏ちゃんはまあ着崩さないからいつも通りだけど、真白君は珍しく髪を上げて整えていた。いつもは目にかかりそうなくらいの前髪が無秩序に暴れているだけなので、少しキッチリするだけでもだいぶ印象が変わって見えた。
「普段から髪上げとけばいいのに」
奏ちゃんも同じことを思ったようだった。
「面倒だから嫌だよ。こういう日かコンクールくらいじゃないとやる気にならない」
「ふーん、もったいない」
それきり会話がなくなった。電車の音がいやに大きくて、自分が緊張していることに気づいた。
式場に到着するとすぐに控室に通された。受付からは大勢の参列者の足音や歓談の声が聞こえてくる。どの声も色めきだっていて、幸せが漂っているようだった。
コンコンとノックの音がした。奏ちゃんがはい!と答えると、ばっちり化粧をした理子がドアを開けた。
「理子!すごく綺麗!」
普段より大人っぽい理子の姿は綺麗という言葉が最適だった。
「ありがとう。結婚式なんて初めてだから、気合入っちゃって」
照れるように笑うといつもの理子が戻ってくるようだった。
「三人とも、ありがとうね。きっとお姉ちゃんもびっくりすると思う。私も楽しみにしてるから」
理子はそう言ってドアを閉めた。奏ちゃんと二人でその姿を見送る。
「だってさ、真白君」
「……うん」
真白君を見ると、顔が青白くなっているような気がした。もしやと思い奏ちゃんと目を見合わせる。
「真白君、緊張してる?」
「そうかも」
真白君は俯いたまま動かない。これはまずいと思い急いで水を押し付けた。
「はい、飲んで。人の字書いていっぱい入れといたから」
奏ちゃんは半ば無理やり水を飲ませた。飲み終えると真白君は大きなため息をついた。
「今更何を緊張するの。昨日あんなにいい演奏できてたから大丈夫だよ」
「いや、何だろう。自分でもすごい手応えがあったから、余計に音無さんの音色をしっかり再現しなきゃって感じてるのかもしれない」
真白君は微かに震える手を見ながら言った。
もしあの演奏の感動が奏ちゃんにより作られたものなのだとしたら、それを正確に再現するというのは相当なプレッシャーなのかもしれない。誰かに何かを任されるというのは、時に抱えきれないくらいの重荷だろう。
「なんだ、そんなこと?」
しかし奏ちゃんは、あっさりとそれを「そんなこと」と言い切った。顔を上げた真白君と同じくらい、私も驚いた。
「私は音色を再現することは頼んだけど、ミスしないでなんて言ってないよ。ミスしてもいいよ。それも含めて私の、いや、私たちの音色だから。それに、私達の音はミスくらいじゃ色褪せないよ。そうでしょ?」
真白君はしばらく無言だったけど、その言葉で何かに気づいたように目を見開いた。
「……ありがとう。何か勘違いしていたみたいだ」
天井を見上げて微笑む真白君は、普段通り、というか普段よりも良い目をしていた。
「分かったならよろしい。そろそろ時間だし、袖に行こう」
「うん」
真白君は力強く拳を握って舞台へと歩き出す。私と奏ちゃんはその後ろ姿を見てホッと息をついた。
「すごい人だね。私、結婚式って初めて」
奏ちゃんは舞台袖から身を乗り出しそうな勢いで会場を見ていた。私も結婚式なんて赤ん坊の頃以来だ。奏ちゃんの後ろから覗き込むと、確かに人の数は想像以上だった。100は超えているだろう。公民館とは比べ物にならない。真白君はとチラ見すると、大丈夫そうだった。しっかり集中しているようで、目を瞑りながら指を動かしていた。
少し経って、一つ前の余興が終わった。司会の人が真白君の名前を呼ぶ。みんなポカンとしていて拍手もまばらだ。理子の拍手だけが大きく聞こえる。きっと理子のお姉さんも、真白君が何者か分かっていない。真白君はそんなアウェーな空気の中でも臆せずに舞台へ上がって行った。
「何だか私が緊張してきた……」
胸を抑えて言うと、奏ちゃんは大丈夫、と舞台を見つめたまま言った。私に言い聞かせるというよりは、成功を確信しているような強い意志を感じた。
真白君が鍵盤に指を乗せる。来る、と私は心の揺れに備えた。
それでも、ガクンと心が動く。精神の芯ともいうべき場所に訴えかけてくる演奏は、練習の時よりも数段クオリティが上がっているように感じた。
空気が変わっていく。会場の全員が一瞬驚き、すぐに全霊で演奏を聴く姿勢を作る。
会場中の心を吸い寄せた演奏は色鮮やかに進んでいく。
奏ちゃんの考えたメドレーはどんどん、あっという間に曲が変わっていく。理子のお姉さんの好み、旦那さんの好み、そして奏ちゃんがチョイスしたクラシック。単純な喜びだけではない、喜怒哀楽の全てを詰め込んだメドレーは、ジェットコースターのように緩急のある刺激を与える。このメドレーの名前は「結婚」。これまでに辿ってきた道、そしてこれから歩む道には色々な感情があるだろうという意味を込めたものらしい。既存の曲を組み合わせることで、全く別次元の効果をもたらしていた。奏ちゃんの思惑は見事に成功している。聴衆は曲が変わるごとにその表情を変え、時に喜び、時に悲しみ、演奏の中の人生を歩んで行った。……演奏の終わりはゴールではない。新たなスタートを感じさせる、そんな春のような音色だった。
演奏が終わると、真白君の入場時とは全く別物の、大きな拍手が巻き起こった。中には泣きながら手を叩いている人もいる。理子のお姉さんも泣いていて、旦那さんも目を擦りながらその肩を抱いている。真白君が戻ってきた。会場から真白君の姿が見えなくなっても、拍手は会場中に響き渡っていた。
「お疲れ!」
「お疲れ様!」
「うん、ありがとう」
拍手を背に戻ってくる真白君に声をかける。演奏を終えた真白君の姿はすごくすっきりしているように見えた。
「すごい。練習以上のクオリティだったね」
「うん、何かすごく集中できた」
「あんなに緊張していたのが嘘みたい」
三人で笑い合う。
「きっとみんな喜んでくれたよ」
「うん……」
奏ちゃんの言葉に、真白君は感慨深そうに微笑んだ。幸せそうだった。
コンコン、とノックの後、控え室のドアを開けたのは理子だった。
「ありがとう。お姉ちゃんたち、すごく喜んでたよ」
そう言う理子も目に涙を浮かべていた。
「それなら良かったよ。私たちも、こんな大勢の前で演奏できてよかった。ありがとう」
奏ちゃんが頭を下げて、私と真白君も慌てて後に続く。理子は鼻を啜った。
「ちょっとやめてよ!奏ちゃん。お礼を言うのは私だから。今度改めて家族でお礼するから。今日は本当にありがとう」
式はまだ続いている。理子はわざわざ抜け出してきてくれたのだろう。手を振ってドアに手をかける。
「あ、そうだ、カレン」
「何?」
「やりたいこと、見つかったでしょ」
理子は笑顔でそう言い残してドアを閉めた。コツコツと、ヒールが床を蹴る音が響く。
「やりたいことって?」
「あ、ううん、何でもない」
奏ちゃんの問いかけに慌てて返事をする。昨日の理子の言葉を思い出す。「誰かを手伝うのが好き」。確かにそうかもしれない。
私は胸の中にある確かな喜びを大事に抱き締めた。
会場を出て電車に乗り込んだ。今日の演奏について何やかやと話していると、あっという間に奏ちゃんの最寄りに着いた。
「じゃあ、またね」
「うん、また」
真白君と二人になる。次の次が私の最寄り、その次が真白君の最寄りだ。
「今日、大成功だったね」
「うん。あんな大人数に喜んでもらったのは初めてだ」
「初めて?」
「うん。公民館では弾いたことあったけど、あんな大舞台で、あんなに沢山の人を感動させられたのは初めてだよ」
「そうなんだ」
私は、今なら気になっていたことを聞けると思った。
「二人はどういう関係なの?」
聞いてから、変な質問の仕方をしてしまったと思った。真白君が怪訝な顔で私を見ている。慌てて補足をする。
「ほら、その、どうやって出会ったのかな、とかどうして今みたいな関係になったのかな、とか気になって」
「あー……」
真白君は私が聞きたいことを理解してくれたみたいだった。だけど答えずに、少し考えた。
「話していいのかな。音無さんに聞いてみてもいい?」
「あ、いや、話しにくいことなら話さなくていいよ」
私はまた慌ててしまった。何か複雑な事情でもあるのだろうか。真白君は私の言葉を気にせず、スマホを取り出して操作し始める。
「いいって」
奏ちゃんの許可が下りたようで、真白君は話を始めた。二人の出会い、奏ちゃんが病気で弾けないこと、そして真白君が人を感動させることのできないピアニストだったことを知った。
「僕の方は別に隠すことじゃないけどね」
そう言って笑う真白君だけど、やっぱり表情には苦いものがあった。
「ずっと、人を感動させる音が弾きたかった。だから音無さんに会えたことは本当にラッキーだったと思う。いくら感謝しても足りないよ」
「そっか……」
何て言えばいいのか分からない、不思議な感覚だった。真白君や奏ちゃんはずっと天才で、苦労もなくここまで進んできたのだと勝手に思い込んでいた。彼らも苦悩するなんて当たり前のことを、私は初めて認識した気がした。
電車が止まる。私の降りる駅だ。
「じゃあまた、音楽室行くから」
「うん。またね」
遠ざかっていく電車を眺めながら、私はさっきの光景を思い返していた。真白君の演奏で感動している沢山の人たち。その光景の一端に、ほんの少しでも自分が関われていたことに誇らしさを感じた。そして、理子が言っていたように、これが自分のやりたいことなのかもしれないという微かな思いも。
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