文書17 極限到達

「それで、来ないのかね? それならば、」


たとえ相手が拳銃ですら傷ひとつつかない化け物だとしても、人に真剣を向けるなんて誰だって躊躇ちゅうちょしてしまうだろう。

楓がなかなか真剣を抜く気になれずにいると、シャマシュが静かに呟いた。

瞬間、ゴウという風の音が響く。


「こちらから行くとしようか。」


耳元でささやかれる。

シャマシュがいつの間にか楓のすぐ隣にがかがみこんで耳元に口を近づけていた。


「なっ!」


いつの間にここまで!?

油断はひとかけらもしていないし、目を一瞬たりとも離さなかったはずなのに。

驚く楓の視界にやけにスローモーションで近づくシャマシュの蹴りが写った。


「安心したまえ、手加減は嫌というほど徹底しておく。」


蹴られた瞬間、肺から一斉に空気が抜ける。

全身にビリビリとした鈍い刺激が伝播でんぱしていく。

そのまま、きれいに振りぬかれた足に向かいの壁にまで楓は吹き飛ばされていった。


「ガハッ!」


壁に叩きつけられた瞬間、心臓が一瞬止まってしまうんじゃないかというほどの衝撃に襲われた。

ジンジンと背中がうずく。

痛みにもがく楓に大きな影が差す。


「次、いくぞ。」


自然体なのに、すさまじい威力の拳打を放ってくる。

皮一枚でなんとか避けたその拳がすれ違いざまに楓の頬に浅くない切り傷をつけていく。

ゾッとする。

こんな一撃まともに喰らったらその瞬間病院送りじゃないか。

生存本能から生まれたそんな恐怖に身を任せ、真剣を鞘から抜き放つ。

偶然か必然か、それは完璧にシャマシュの隙を捉えていた。

拳撃後でガラ空きになったシャマシュの胸元へ切り上げがきれいに吸い込まれていく。


が、シャマシュの鍛え上げられた肉体はその刃を全く通すことはなかった。


まあ、そりゃそうだよなぁ、拳銃でも傷がつけられないのにたかが人間の力でダメージが与えられるわけがないよなぁ。

再び蹴りで宙を舞いながら楓はぼんやりと悟る。


「カエデ少年、このままでは埒が明かんのは分かるだろう?

この未熟者は威力、技量、経験、ありとあらゆる観点で少年に優越しておる。

上手く、異能を目覚めさせなんだらこのまま甚振いたぶられるだけぞ!」


カラカラとシャマシュが朗らかに笑う。

その快活さとは対照的に攻撃は熾烈しれつを極めていた。

一撃一撃がこちらをノックアウトするに十分過ぎる威力を秘めた連打が襲う。

今なんとかかわすことができていたのは偶然でも、ましてや楓の実力でもない。

ここで終わらせては意味がないというシャマシュの配慮だ。


「っ!」


何とか隙を作らなければ反撃すら許されない。

容赦のない拳の雨あられの中で楓は必死に頭をまわす。

ほんの一瞬、僅かな合間を縫って仕掛けるしかない。

覚悟を決めた楓はわざと足を滑らせた。

身体が自らの制御下を離れ傾いていくのに慌てる表情を精一杯に作る。

そうして意図的に作られたガラ空きの胴を、はたして彼女は見逃さなかった。

獅子が哀れな獲物を見定めたがごとき素早い身のこなしで拳打が迫る。

その固く■■■■握り込まれた■■■■■■拳骨が胴に■■■■■めり込んでいった■■■■■■■■


「えっ」


途端腹部にれるような痛みが走る。

大きく後ろによろめきながらも、楓の心は重い衝撃に揺れていた。

なぜ、異能がうまく働かなかったのだ?

仮にも発動したなら、今まで一度でも結果をひっくり返せなかったことはない。

現に同じような異能を持っているだろうあのおけさ笠の不審者にもちゃんと効いたではないか。

どうして………………?


「カエデ少年よ、自身の異能が打ち消されたのが不可解かね?

何、理由は単純だとも。

この未熟者と楓少年の異能がかちあってしまったのだ。

結果、カエデ少年の異能がこの未熟者の異能に打ち負けた、ただそれだけのことだ。」


大きく体勢を崩した楓を追撃せずに、シャマシュがからくりを明かした。


「異能の大小はその当事者達の意志の強さで決まる。カエデ少年よりもこの未熟者のほうがより強くそう在れと思念したということよ。」


それは、自分の異能は相手に通用しないが、相手の異能は自分に通用するという最悪の事態を示していた。


         ◆◆◆


あれから、どれほどの時が経ったのだろうか。

相変わらず楓は酷く打ちのめされ続けていた。

疲労困憊こんぱいの楓を気にかけることなく、シャマシュは容赦ない殴打を放ってくる。


今だってほら。

楓は吹き飛ばされ、道場の壁に背中を強打した。

全身に走る激痛ももはや慣れたもの。

流れるように真剣を構え、シャマシュの出方を探る。

すっかり体に染みこんでしまった動作だ。


そうして、散々な目にあわされていると、楓の胸中から一つの強烈な感情が沸き立ってくる。

怒りだ。

どうして、自分がこんなに酷い目にあわなければいけないんだ?

別に自分は何か落ち度でもあっただろうか?

ぼんやりとかすんだ思考が段々とシャマシュの理不尽への怒りに呑まれていく。

その怒りは、狂気というよりはむしろ冷静を楓にもたらした。


なぜかすーっと頭が冷えてきた。

楓が今考えていることはただ一つ、目の前シャマシュが浮かべる憎たらしい笑みをひっくり返してやるにはどうすればいいのかということ、それだけである。

絶対にあっと言わせてやる。

どこか癇癪かんしゃくを起こした子供の様な思考回路で、楓は執念深くシャマシュを観察していた。


楓の異能は相手の異能に阻まれ、そして相手の異能は楓の異能を貫通する。

最早異能が使い物にならないというのならば、相手が異能を使う隙も与えずに手痛い一撃を食らわせてやるほかない。


集中しろ。

集中しろ、楓。

相手の一挙手一投足、全てを見逃さず隙を見計らうのだ。


楓が自らを極限の集中に置く。

五感を通して感じ取る情報全てを漏らさない。

世界が、情報を秘した無数の文字、記号で表されているかのように楓は感じた。

黒い文字の虫が列を成してあちらこちらを這いずり回る。

知らず知らずのうちに青白い蒸気が楓の体から立ち上り始めた。


シャマシュは楓の変化を感じとった。

そっと驚いたように眉をあげる。

予想以上の成長だ。

微かにシャマシュが感嘆とも驚嘆ともつかない思いを抱いたその瞬間、かすかにシャマシュの姿勢が揺らいだ。


楓は見逃さない。


「やぁっ!」


神速。

そうとしか形容できない速度。

戦国の剣豪もかくやというほどに研ぎ澄まされた突き。

心得がある者ならば誰もが目を見張ったであろう一撃。

それが、人体の最大の急所の一角、喉元に向け放たれる。


楓は確信した。

取った、と。

そうして、次の瞬間。


「よくぞ、ここまで。」


そこには笑みを引っ込めたシャマシュが腰だめに拳を構えていた。


「だが、まだまだ未熟。ここはひとまず眠っておけ。」


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