文書38 吹っ切れる
あの日、初月に散々貶されてから、楓は奇妙に気が軽かった。
今まで楓を苦しめていた罪悪感が吹き飛んで、心は澄んだ小川のようだ。
ヒルトルートとの修練も上手くいっている気がする。
何もかもが好転しているように感じられた。
楓はその訳を知らない。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
◆◆◆
冬の夜空は、息を飲むほど美しい。
寒々とした森の木々の合間から見える満天の星々は、冷たく光を放っている。
そんな百万ドルの冬空の下で、楓は白い息を吐いていた。
霜柱を踏むシャリシャリという音が冬の田に響く。
楓はいつも通り村を見回っていた。
時刻は深夜と早朝の合間、午前三時ほど。
未だ日が昇る気配はなく、星々と月の青白い明かりが霜の降りた田園を照らしていた。
楓の心は凪いだ湖面のように落ち着いていた。
今なら、何が起こっても冷静でいられる気分だった。
事実、狩衣姿のあのおけさ笠の怪人が目の前の田の中に佇んでいても、楓の心は静かだった。
二人して、静まり返る。
冬の田は稲がすっかり刈り取られ、寂しげな面持ちだった。
《自身》
おけさ笠の怪人がその手に長大な薙刀を握る。
白銀の刃が誇らしげに月光を跳ね返して煌いた。
楓もすぅーっと佩いていた刀を腰から抜く。
じりじりとおけさ笠の怪人が距離を詰めてくる。
その時に至っても未だ楓は案山子のように立ち尽くしていた。
怪人が薙刀を脅すように中段に構える。
次の瞬間、怪人の視界が黄金色に遮られる。
足元の稲わらが舞い上げられたと怪人が気がついた頃には、低く、静かに楓が怪人の懐に潜り込んでいた。
まったく無防備な怪人は、楓に足を払われて体勢を崩す。
地面が見る見るうちに近づいてきたかと思うと、怪人の顔面に激痛が走った。
顔を蹴り飛ばされた怪人は視界の端に白銀の軌跡を認める。
その軌道は喉元の頸動脈を目掛けてひた走っていた。
《隣の田の稲わら》
間一髪怪人が隣の田に逃れる。
一瞬でも遅れていればおけさ笠の怪人は首から血を噴き出しながら無防備な姿を楓に晒していただろう。
怪人は間近にまで迫った死の恐怖に震えた。
おけさ笠の怪人がはあはあと粗い息をこぼす。
対照的に楓は静かにゆっくりと怪人のほうを振り向いた。
深い、目だ。
見る者を奥に引きこんでいくような、光の欠けた、暗い目だ。
今から家庭科の調理実習をするのだと言われても納得してしまいそうな自然体で楓は怪人を見つめていた。
おけさ笠の怪人が総毛たつ。
今、怪人の目の前にいるのは異能力者になりたての未熟な雛ではない。
あれは、今にも怪人の喉を裂かんと哀れな獲物の様子を伺う猛禽の類だ。
ぐちょり。
怪人の履く下駄が音を立てる。
この田は水が張られていて、泥が怪人の狩衣に跳ねていた。
「っ!」
一瞬怖気づいてしまった自身に腹立つ。
再び己の内の憎悪を掻き立て、楓を睨みつけた。
《自身》
静かに虚空に現れた野太刀を両手で握りこむ。
そのままゆっくりと持ち上げて八相の構えをとる。
長大な刃が天を衝いて鈍く輝いた。
楓がひたひたと歩いてくる。
初めはのんびりとしたその足取りが次第に早まっていく。
手に握る刀を先駆けに、一条の矢となって駆ける。
畝を超えておけさ笠の怪人の間合いに突っ込んできた。
怪人は躊躇わない。
長大な大太刀を勢いよく振り下ろす。
直撃すれば人間一人を唐竹割りしてもなお余る威力を秘めて、黒く光る刃が楓に襲い掛かった。
楓は動じない。
眼前に濃密な死の使者が迫るのにも関わらず、普段通りの気軽さで楓はすっと少し横に踏み出した。
それだけで、楓の体は怪人の渾身の一振りを避けてみせる。
怪人の技量は楓に既に十分に見切られていた。
怪人の扱う大太刀の軌道はもはや自明も同然である。
《縦方向》
怪人はほくそ笑んだ。
異能者同士の戦いを決するのは、とどのつまり異能である。
異能の媒体としての異能者自身の力量など付随要素でしかない。
野太刀が常識では考えられない直角の軌跡を描いて進路を曲げる。
それはちょうど楓のガラ空きの脇腹に吸い込まれていく。
そうして、
バカなっ!
怪人が自らの策を打ち破られたことに目を見開くのと、楓が怪人の間合いの内側に入り込むのはほとんど同時だった。
鋭い刃が薄い狩衣の生地を引き裂き、その下の守られた柔肌に沈み込んでいく。
《楓》
異能による抵抗も虚しく、怪人の血が冬空に飛び散った。
◆◆◆
ポタ、ポタと真っ赤に染まった狩衣の袖から滴る血が水田の水面を汚していく。
真紅の鮮血が冷たい冬の農業用水と混ざっていった。
《自身》
既に勝敗は決している。
怪人がこの場から退こうと繰り出す異能は全て楓に完封されていた。
そうこうして時間が経つにつれて、冬の夜の厳しい冷気と甚だしい失血が怪人から体力を奪っていく。
楓の太刀は見事に怪人を切り上げて肩から腰にかけて深い刀傷を残していた。
致命傷だ。
怪人は胸元を手で抑え、傷口からの出血を防ごうと無駄な努力に躍起になっている。
しかし、その呼吸もか細く、今にも途絶えそうだ。
そんな怪人を楓は先程までと同じ、底冷えするような暗い瞳で観察していた。
楓がもうこれ以上手を出す必要はなかった。
何もしなくとも、怪人は弱ってゆき、最後には死ぬだろう。
最後に一矢報いようと怪人が捨て身の攻撃をしてきてものらりくらりと躱せばよい。
血の気がひいていく怪人の垣間見える肌を見つめながら楓は冷酷なまでにそう結論していた。
パシャリ。
ついに怪人が泥中に片膝をついた。
楓が刀を上段に構え直す。
首でも切り落として止めを刺しにいこう。
楓が怪人ににじり寄る。
怪人は楓の接近に気がついていないのか、ピクリとも動かなくなっていた。
「誰だっ!」
次の瞬間、怒声が夜空に響いた。
楓の注意が一瞬そちらに向く。
おけさ笠の怪人は意識を飛ばしかけながらも、その隙にすがった。
《自身》
最後の力を振り絞った怪人の異能は楓が気がついた時には完成していた。
おけさ笠の怪人の姿が楓の視界から消える。
「くそっ!」
楓は周囲を憚らず大声で悪態をついた。
苛立ちを抑えきれず上段に構えた刀を田に突き刺されて残ったままだった大太刀に振るう。
キンッと澄んだ金属音が辺りに響き渡り、太刀は真っ二つに割れて飛び散った。
「やっぱり誰かいるな! 誰だ、姿を現せ!」
パッと眩い懐中電灯の明かりが灯される。
そうして自身の田の異常に気がついて飛び起きた老人は
「おかしいな、さっきまで近くで物音がしていたんだが?」
小首を傾げる老人の脇を楓は通り過ぎていく。
むしゃくしゃした気持ちで歯をきつく食いしばり、手を握りしめる。
「なっ、なんだこの血は!
………それに、これは刀!? なんだってこんなところに!」
背後から聞こえてくる驚きの声も今の楓の耳には入ってこなかった。
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