文書39 ぎこちなさ
「ふむ、それで取り逃した、というわけか。まあ、そう殺気立つな少年。
終わったことを嘆いても何も始まらん。」
町の場末にある喫茶店。
薄暗い照明とゆっくりと回るシーリングファン。
その下で楓はシャマシュに近況報告を行っていた。
「少なくとも、一定程度異変の進行を遅らせられたわけだから、目標は達成できたも同然だろう。
そんな顔をするな、グレイス少女が不安がるぞ?」
あの夜からさらに数週間が経って、今日はグレイスの退院日だった。
退院してからもしばらくの間は学校を休んで自宅で療養に励むそうだが、難局は脱している。
シャマシュがちらりと錆の浮いている古めかしい懐中時計を取り出して、眺める。
と、やおらに荷物をまとめ始めた。
「少年、そろそろ行くぞ。時刻だ。」
楓がノロノロと立ち上がる。
腰が重かった。
シャマシュに突然呼び出されたと思ったらグレイスの退院の挨拶についてくるよう言われたのはつい先ほどのことだ。
あまりにも藪から棒で、楓はまだ心の準備もできていない。
グレイスにこれから会うことに楓は気が進まなかった。
「待ってください、シャマシュさん。
どうやって東京まで行くっていうんですか?」
今はちょうど昼過ぎだ。
今から新幹線に乗って東京に行って……なんて暇があるはずがない。
しかし、シャマシュは振り返って不思議そうに首を傾げた。
「少年はあの日この未熟者が車やら電車やらでグレイス少女を東京の病院まで運んだと思っているのかね?
この未熟者は最強の異能者だぞ?
この未熟者が少年を小脇に抱えてちょっとジャンプすれば東京まで一分でつくだろう。」
そうだ、この目の前の人に常識なんてものは通用しないのをすっかり忘れていた。
楓はシャマシュに気付かれないように静かにため息をついた。
◆◆◆
本郷にある国立大学付属病院、そこにグレイスは入院している。
グレイスの病室は病院の上階、特別室だ。
ぎゅうぎゅう詰めのエレベーターに乗って目指す。
白衣を身に纏い忙しなく行き交う医師たちの数は階を経るごとにどんどんと減っていった。
はたして、そのフロアは雰囲気が違った。
廊下の装飾もどこか豪勢だ。
ふかふかのマットの上を歩いていく。
長い廊下、そのつきあたりにグレイスの病室はあった。
木目の美しい扉の前でシャマシュが立ち止まり、コンコンとノックをする。
しばらくして、室内から聞きなれたグレイスの声がした。
ガラリと扉を開け、堂々とシャマシュが入っていく後ろに続いて楓も病室に足を踏み入れる。
室内にはスーツを着こなした背の高い壮年の男性、それに白衣の医師たちが詰めていた。
楓とシャマシュを認めた医師たちは最後に会釈をして病室から去っていく。
ばたんと音を立てて後ろで扉が閉まった。
グレイスは病室のベットの上で身を起こしていた。
さらりと短く切り揃えられた金髪が宙に舞う。
首には包帯がぐるぐる巻きにされていた。
楓の姿を見て、ぱぁっと顔を綻ばせた。
「楓、よかった………! 無事だったんだね!」
楓は何と答えてよいのかわからず、ぎこちない笑みを浮かべるので精いっぱいだった。
次の瞬間、怒声が響く。
「グレイス! まずはきちんと謝りなさい、お前が山に無理やり誘ったんだろう!」
あの壮年の男性が顔を真っ赤にしてグレイスの頭を下げさせ、自分も深々と頭を下げる。
一瞬楓は何が起きたのか理解できなかった。
しばらくしてようやくその言葉の意味をかみ砕く。
そうしてこの目の前のグレイスの父親と思しき男性は真相を知らず、隠蔽された話を信じているのだと分かった。
「楓さん、私の愚娘が多大なる迷惑をお掛けしまして、今回は誠に申し訳ございませんでした。」
白髪交じりの頭を前にして楓は何かが胸からこみ上げるのをこらえきれなくなりそうだった。
謝らなければいけないのはグレイスではない、楓だ。
あの日、あの場所で足手纏いとなったのは楓だ。
切実な罪悪感に駆られて思わず口を開きかける。
それを制止するようにポンと肩を叩かれる。
脇でシャマシュが
「ああ、シャマシュさんも。娘を助けて頂き誠にありがとうございました。」
男性はシャマシュに向かってもう一度深々と頭を下げる。
その光景をなぜか楓は直視できなかった。
◆◆◆
グレイスの両親とシャマシュが病院の受付で手続きを済ませている間、楓とグレイスは病院の前にあるちょっとしたロータリーで二人きりとなった。
二人の間を沈黙が閉ざす。
楓はちらりと脇に佇むグレイスを覗き見た。
喉に包帯をぐるぐる巻きにしたグレイスの姿は痛ましい。
楓はなんと話しかければよいのか分からなかった。
暫くの間、頭の中を無数の言葉が駆け巡る。
その逡巡の後、楓は覚悟を決めて、絞り出すようにして言葉を口にした。
「あのさ、ごめん。」
グレイスがキョトンとした顔をして楓の方を振り向いた。
「いや、別に楓が謝る必要はないよ。
今回の一件は相手の実力を過小評価した私が完全に悪いんだし。
こっちこそごめんね、君を危険な目にあわせちゃった。」
血色の良いグレイスの肌に真っ白な包帯が痛々しい。
楓は静かに俯いた。
グレイスへの負い目がずしりと両肩にのしかかるのを感じる。
楓はじっと自身の手のひらを見つめた。
それから、楓とグレイスの間の会話は喉元に小骨が刺さったようになにかつっかえるものがあった。
あたかも戦艦同士が相手への距離を見図りかねているように、互いに相手へかける言葉を選びかねる。
遠くでグレイスの父がグレイスを呼んだ。
「じゃ、私行くね。」
グレイスはすこし気まずそうな笑みを浮かべて少し離れた両親のもとへと歩いていった。
楓はロータリーに立ち尽くして、グレイスの姿が遠ざかっていくのを眺めていた。
からくり仕掛けの北極星 ー邑神楓と森吉村の異能事変ー 雨雲ばいう @amagumo_baiu
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