文書11 幻想が侵食する現実

気がつくと、楓はいつの間にか鎮守の森に続く畦道あぜみちの途中にいた。

服装は寝間着なのに、なぜか体育用の外靴を履いている。

明らかに外出するにはおかしな服装だ。

時刻は夜。

頭上の真ん丸な満月が青白い光をそっと優しくあたりの山野に振りまいていた。

いったいなぜ自分はここにいるのだろうか。

いくら考えても答えが出なかったので、とりあえず家に帰ることにした。


歩き始めてから、楓はおかしなことに気がついた。

月明りを呑みこんで黒々としている鎮守の森にいつまでたっても近づいているように感じられないのだ。

もうかれこれ半時間は歩いている。

普通ならとっくに家にたどり着いてもおかしくない頃あいだ。


満月が流れる雲にその光を沈める。

銀の月光を浴びて黄金色に輝いていた稲穂はすっかり息を潜めている。

先程まではちらほらと見えた人影はどこかに失せてしまった。

闇の中に揺れる灯篭のように心もとなかった遠くの県道の電灯がいきなりジジジと点滅する。

辺りが決壊したかのように薄暗くなっていく。

気がつくと、ぼんやりとして一寸先も見えない漆黒が楓の周りに纏わりついていた。


ぞわっと身の毛がよだつ。


いつもと逆に吹く風が、逃げるように我先に追い越していく。

背後の明かりが、不自然に点滅し、やがて沈黙していく。


何かが、何かが後ろから楓を追いかけてくる。


そう、根拠もないのに抱いた追われている感覚。

理性がそんなことはないと告げるのに反して、直感が警鐘を鳴らす。


知らず知らず、楓の足が早まり、やがて駆け始めるまでにそうかかりはしなかった。


「はっ、はっ、はっ、はっ!」


息を切らして走り続ける。

しかし、後ろから迫ってくる気配は絶えずぴたりと楓の後ろにつけていた。

いくら走ろうとも関係ない。

その間は広がるばかりか、狭まっていく一方だった。


もうすでに外靴は土と泥で汚れ、ボロボロだ。

寝間着が汗でびっしょりと濡れて体にまとわりつき、気持ちが悪い。

楓の白い髪の毛が汗だくの顔に張り付いている。


さっと雲が晴れて月が顔を出す。

ふと、月光に照らされて目の前にグレイスが立っているのが見えた。

ワインのように深い色合いの藍色の革のジャケットを羽織り、首元がフリルのネイビーブルーのブラウスを着ている。

走る楓を見つめながら、珍しくあまり見たことのない焦った顔つきをしていた。

なぜここにいるのか。

疑問が首をもたげるが、今はとにかく危険を知らせるのが先決だ。

楓が声を上げて注意しようとする。

しかし、グレイスがそっと白魚のような人差し指を口元に持っていく。

そして、まるで楓を呼び寄せるように一方の手をこまねいた。

それに誘われるように口を閉じ、ひたすらに駆ける。


ようやくグレイスのもとまでたどり着くとグレイスは安心したようなほっとした表情を浮かべる。

次の瞬間、その姿が掻き消えた。

楓は驚いて辺りを見渡す。

あの特徴的な輝くような金髪は影も形も見当たらなかった。


視線をさっと横切らせたその時、稲穂の海のただ真ん中に誰かが立っていたような気がして、楓は振り返った。

なぜか日本史の教科書でしか見ないような真っ白の狩衣を着こなしおけさ笠を目深に被っている人間が静かにたたずんでいる。

その顔はよく見えないものの、楓にはなぜかその人が険しい顔つきでこちらを睨んでいる気がした。

その狩衣の人影が手をゆっくりと持ち上げる。


急に、少しも抗えないほど強烈な眠気が襲い掛かってきた。

重い瞼が閉じる瞬間に楓が最後に見たのは夜空に浮かぶ優しげな月だった。


         ◆◆◆


ばっと楓は体を起こした。

なんだか妙な悪夢を見た。

夜中になぜか田んぼのど真ん中に突っ立っていて何かに追いかけられる変な夢。


窓の外を見る。

まだ日が昇っていないようで、真っ暗だった。

二度寝しようにも目が冴えていて出来そうもない。

それに全身が汗まみれで気持ち悪かった。

シャワーでも浴びよう。

そうずるずると緩慢に布団から抜け出す。


ふと、脱衣所で自分の寝間着にポツポツと泥が散っているのに楓は気がついた。

何だ、これは。

両手に持って電灯の下でじっくりと眺める。

こんな染み昨日の夜の段階でついてたっけ?

楓は記憶を手繰り寄せるも、まったく心当たりがなかった。


………まさか昨晩見たのは悪夢じゃなくて現実だったとか。


自分でそう考えるも、楓はブンブンと頭を振って否定する。

なんで自分が夜中にいきなり寝間着で田んぼまで行くんだ?

あまりにも突拍子のない行動だ。


脱いだ寝間着を洗濯機に放り込んでさっさと浴室に入る。

こんな時は冷水のシャワーを浴びてさっさと頭をすっきりさせるのが一番だ。


         ◆◆◆


森を出てすぐに、楓は畦道あぜみちに立ちつくす人影を見つける。

朝日が照らす爽やかな朝とは対照的に、その人影はどんよりとした重苦しい雰囲気を漂わせていた。


「あれ?細見さん、どうかしたんですか?」


近づくにつれ、それが見覚えのある姿であることに楓は気がついた。

細見さんだ。

うちの神社の鎮守の森の周り一帯の田んぼで米作りをしている。

気前のいい人で、この前大きなナスを貰ったばかりだ。

あんなところに突っ立って何をしているんだろうか。

楓は少し心配になって声をかける。


「ん? ああ、神社のこせがれか、いやどうかしたかもこうもとんでもねぇでな。」


声をかけた楓を一瞥したものの、返ってきた言葉はどうもうわの空だった。

声色に途方に暮れたような、絶望の色が見え隠れする。

このまま放っておいたら川に身投げでもするんじゃないかというふうな、それほどに思い詰めた様子だった。


脇に駆け寄る。

近づくとよりその憔悴ぶりがよく伝わった。

全身は弛緩し、目はどんよりと濁っている。

傍にきた自分に細見は何も言わず、田んぼのほうを顎でしゃくった。

その先を目で追った楓は思わず息を飲んだ。


「なんてこと………。」


腹の奥から掠れた声を引き出す。

ほんの昨日まで黄金の稲穂が重たそうにこうべを垂れていたはずなのに、そこには踏み荒らされ泥でぐちゃぐちゃになった見るも無残な光景が延々と向こう側まで続いていた。

泥の中で朝日に照らされてきらきらと輝く穂が虚しさを掻き立てる。


「ははっ、今年の収穫はもう絶望的じゃけ。」


無気力な、皮肉めいた笑いを細見がこぼす。

その随分と小さくなった背中に、なんと声をかければいいのか思いもつかなかった。

農家とは不安定な職業だ。

自然や市場、ありとあらゆるものに翻弄され、なんとかやり繰りしていく。

細見は長年そうして生きてきた。

努力して大切に育てた稲がまったく駄目になるなんて何度もあっただろう。

だからといってこれはあんまりだった。

自分の田んぼだけ、ほぼ全ての稲が収穫間際になって潰れてしまうなんて。


「どこの誰がいったいこんなことを………。」


しかも、あからさまに誰かが意図的に行ったことが明確だった。

あちらこちらに残る何かを引きずったような跡と大きく抉れた穴。

自然に作られるようなものじゃない。

誰がなぜ、どうやってこんなことをしたんだ?

そう考えたところで楓はハッとした。


………そういえば、あの悪夢で自分が走っていたのはこの辺りじゃなかったか?


いや、そんなバカな。

でも。

でも、もしあの悪夢が本当は現実の出来事で、この惨状があの晩自分を追いかけた謎の何かによって作り出されたのだとしたら、


「どこの誰でもええがな、ひっつかまえてコメが戻ってくるわけでもなし。」


楓が少し青ざめた顔をしているのを尻目に、はぁとか細い声で愚痴った細見は深いため息をついた。

そして懐から煙草を取り出し、吸い始める。

禁煙していたはずの細見が吐く煙が憎たらしいほど真っ青に気持ちのいい青空に伸びていった。

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