文書10 日常への回帰
「はあっ、はあっ、はあっ………。」
乱れた息を整える。
汗が滝のように体を伝って流れていく。
しばらくそうして楓が膝に手をあてて休んでいると、学校のほうから生徒が一人歩いてくるのが見えた。
初月だ。
初月も楓に気がついたようで見る見るうちに嫌悪をあらわにした。
「なんであなたがここにいるんですか。」
まるで犯罪者に向けるかのように鋭い言葉遣いだった。
夕日の淡い光に照らされてもその瞳にこめられた憎しみは隠しきれていない。
本当にどうして自分はこんなに初月に嫌われているのだろうか。
楓はやるせなかった。
「いえ、ただ帰宅途中なだけです。」
今の楓には初月の言葉の棘を相手するだけの余裕はなかった。
さっさと通り過ぎてくれ、その思いをこめて当たり障りのない返答を返す。
だが、その願いは叶えられはしなかった。
すうっと目を細めた初月は楓の目の前でその歩みを止める。
「さっさと帰れと、そう僕が申し上げてから随分と経っています。どこで道草食ってたんですか?」
初月がチクチクと嫌味を突き刺してくる。
うんざりした楓は顔を上げてなけなしの力で反論を試みようとする。
「………いいえ、別に寄り道してたわけじゃ、」
そうだ、楓はB級ホラー映画も真っ青な怪奇現象に巻き込まれていたのだ。
あんなもの、誰が好き好んで体験しようとするか………。
あれ?
そういえば初月は自分と階段で出くわした時、さらに上の三階へと姿を消していったはずだ。
そして今こうして後から学校を出てきたということは、
「そういえば、室長。何か変なことに出くわしませんでしたか? その、実は自分、なんだか妙なことに巻き込まれまして。」
あの異常に出会ったはずでは?
そのふと思い浮かんだ疑問をぶつける。
「はい? 変なこととは? ………ああ、確かに今変な生徒に絡まれてはいますね。」
が、すぐさま表情に嫌悪が戻り、楓を睨みつけながらまた嫌味を言い始めた。
「いえ、そういうことじゃなくて怪奇現象とかオカルトとかそういった類の………。
いや、もういいです。なんでもありません。」
本当に嫌われているのだと実感して悲しくなったが、この分だとそういうことには巻き込まれていなさそうだった。
ほっとして楓は別れを告げる。
被害にあったのは今のところ自分だけのようでよかった。
そうして楓が踵を返そうとしたとき、飛び込んできた言葉に耳を疑った。
「………あなたが、悪いんですよ。僕のいうことを聞かないから。」
ばっと後ろを振り向く。
初月はそのまま真顔で続けた。
「そんな目にあったんです。」
「………それは、どういう意味ですか。」
たまらず問いただす。
この言い方だとまるであの現象を知っているような口ぶりじゃないか。
もしそうだとしたら、
「幻覚ですよ、幻覚。疲れたからって家庭科室で幻覚でも見たんでしょう。怪談だなんてそんな非科学的なこと、まったく貧弱極まりない。」
なんだ、いつもの嫌味か。
さすがに飽き飽きして、後ろから飛んできた罵詈雑言を無視して家路につくことにする。
………あれ?
何か、室長の言葉に微妙に違和感があった気がしたがそれも無視した。
今度こそ楓は歩みを止めはしなかった。
◆◆◆
黄金の稲穂は、沈みゆく夕日に微笑まれてほんのりと赤らんでいる。
あたかも
黄玉のきらめきを放つ稲穂の海の真ん中に、ぽつんと光を呑んで黒々とした鎮守の森が取り残されている。
ひぐらしの鳴き声が古びて朽ちた祠と楓を優しく包み込む。
朱が随分と禿げた鳥居をくぐると、無数の苔むした石灯籠が両端を守る石段が静かに迎え入れてくれる。
過去が擦り減らして丸みを帯びた石段を一段一段しっかり踏みしめ、本堂の裏に回る。
ほんのりと淡い温かな光を漏らす玄関のすりガラス。
それを見ると楓の恐怖に疲れた心に安堵感が染み渡っていく。
ガラリと開けて家の中に入る。
「あれ? 今日は遅かったですね。どうしたんですか?」
居間ではヒルトルートがちょうど割烹着姿でゆっくりと小さな文庫本を読んでいた。
オレンジの電灯に照らされた表紙の挿絵と『こころ』というタイトルからするに古い小説らしい。
脇に置いていた押し花の栞を挟み、ぱたんと本を両手で閉じると、こちらに向き直る。
「もう、お腹ペコペコですよ~。今週は夜ご飯作ってくれるって約束しましたよねぇ!」
ブーブーと不満をぶつけてくる。
まだ6時なのに、食い意地が張ってるなぁ、と楓は呆れた。
適当に返事してみる。
「はいはい、今作りますから待っててください。」
ヒルトルートはその言葉に含まれた投げやりな抑揚を見逃さなかった。
「あっ! その口調、自分のこと今面倒だと思いましたね! 言っておきますけど、自分今怒ってるんですからね!」
年甲斐もなく頬を膨らませてあからさまな自分怒ってますアピールをしてくる。
………下手に見た目が整っているからまだ様になるけれど、もう少し歳をとったらきつくなるだろうな、これ。
楓はかなり失礼なことを考えつつ、台所に向かう。
「いい年した大人はそんな子供っぽいことしませんよ。もう少し節度を保ちましょう。」
「嫌ですね! いつまでも自分は現役の子供のままです!
結構なことじゃないですか、子供の純真さそのままだなんて。」
ガルル、とヒルトルートが唸っている。
いいことを聞いた。この間採れたての大きなナスをお隣から頂いたのだ。
「じゃあ、子供はお酒を飲んではいけないのでこの
「えっ! そ、そんな殺生な!
分かりました、大人しくしておきます………。」
ヒルトルートは大のお酒好きだから、こうして日本酒を人質にとるとある程度は制御が出来るのだ。
完全にヒルトルートをやりこめた楓は晴れ晴れとした気分で料理を始めた。
「う~、この人でなし。どうしてこんな子に育っちゃったんでしょうか。」
なんだか恨みがましそうなヒルトルートの視線を背中に受けながら、楓は夕食の支度にとりかかる。
楓は野菜を包丁で切りながら自分のすさんだ心が次第に安らいでいくのを感じた。
いつも通りの日常が心を落ち着かせ、頭を冷やしてくれる。
ヒルトルートとの会話にはそういったある種の安らぎがあった。
面と向かって言うのは癪だが、ヒルトルートさんには本当に感謝すべきだなぁ、そうしみじみと感じ入っていた。
◆◆◆
夕食と入浴を終え、暗い自室の布団に潜り込む。
ぼんやりと天井を眺めていると記憶の奥底に押し込めていた今日の出来事がまざまざと楓の心の中に蘇ってきた。
今日の出来事をまざまざと思い出してしまう。
この前の祠の一件といい今日の家庭科室の一件といいどうにもオカルト的な出来事に巻き込まれがちだ。
祟られでもしているのだろうか、神社の跡継ぎなのに?
医者の不養生なんていう言葉が似合う現状に思わず苦笑が漏れ出る。
しかし、本当に何か幽霊にでも執着されているのだとしたら。
ブルリと楓の全身を嫌な悪寒が駆け巡る。
実のところ、楓はそういったホラー物が大の苦手なのだ。
自分の手をじっと見る。
幽霊とかお化けに木刀や異能は聞くのだろうか。
暫くの間思索の渦に呑まれる。
しかし、考えても仕方のないものは仕方がないのだ。
もういいや、今晩はゆっくりと寝て明日ゆっくりと考えよう。
将来の自分に悩み事を全部丸投げにして楓は心地よい眠りに落ちることにした。
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