文書4 偏屈な室長
「おっし、お前ら夏休み明けだからつって面倒な真似すんなよ。今日はこれで終わり、帰りの挨拶は省略する。」
教壇の上の集められた夏休みの課題の山の横にぐでっと伏せながらラディムが終礼を終える。
担任になってこの方、この先生がまともに礼をやったことなどない。
「この後は………。部活の指導か、面倒くせえぇぇ。」
何やら愚痴っているラディムを蚊帳の外にして、一気に教室の中が騒がしくなる。
あちらこちらで夏休みの間の思い出でも語らっているのだろうか、大きな笑い声が時折教室を駆け回った。
「お~い、室長、これ運んどいてくれないか。」
教壇の上ではラディムが一人の女学生を呼び止めて小間使いを頼んでいた。
紫がかった髪から想像するにあれはクラスの室長だろう。
どうやら教卓の上の小高い宿題の山を運ばせるつもりらしい。
………いやいやいくら何でもこのクラスの室長にはクラス30人弱の量は多すぎる。
楓が心の中でツッコミを入れた。
彼女は特段運動したり体を鍛えたりしているわけでもないのにあのノートの重量は殺人的だ。
楓は呆れたようにため息をついた。
楓が代わりを申し出ようと教卓に向かう途中、キュッと半袖シャツの端を引っ張られる。
振り返ると、グレイスが楓の制服の袖をつまんでいた。
その可愛らしげな上目遣いの仕草に心がノックアウトされそうになるのを楓はぐっとこらえる。
「あのさ、この後暇かな? 少し話があるんだ。」
グレイスの後ろを颯爽とラディムが通り過ぎ、開けっ放しの引き戸をくぐって教室を後にするのが見えた。
普段だったら喜び勇んでどんな予定があろうともここで頷くのだが。
楓は後ろ髪惹かれる気持ちにそっと蓋をした。
「ちょっとごめん、今立て込んでて。後じゃだめ?」
断腸の思いで楓はかぶりを振る。
グレイスはすこし申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「えっと、私このすぐ後に進路について先生に呼び出されてて………………。」
そうこうしているうちにも、視界の端で
「その話が終わるまでこの教室で待つよ、ごめんだけどそれじゃだめかな?」
あのノートの高さだと室長前見えないんじゃないか。
そう楓が抱いた懸念はどうやら正しいようで室長はフラフラと頼りなさげに突拍子もない方向に千鳥足で
楓はハラハラドキドキしながら見守る。
「え、でもたぶん昼過ぎぐらいまでかかるよ。」
とうとう遂には教壇の段差に足を取られてよろけていた。
危なっかしすぎる。
楓はもう居ても立っても居られなかった。
「全然いいよ。今ちょっと急いでるんだ、ごめん!」
グレイスとの会話を強引に振り切り、楓は教卓へと向かった。
背後からグレイスが驚いて楓を呼び止める声が聞こえる。
後でちゃんと話を聞かないとグレイスに申し訳ないな、と心苦しくなりながらも今は室長のほうが楓は心配でたまらなかった。
「部活してないし暇だから代わりに持っていくよ、室長はほかにも用事があって忙しいでしょ?」
脇からさっと課題の山をかっさらい、驚いた顔の室長に声をかけると、楓は返事を待たずに職員室に向かっている廊下のラディム目掛けて駆け出した。
ゆっくりと歩くラディムの横に追いつき、歩幅をあわせる。
「…………
こちらをちらりと
「室長にこの宿題の量はかわいそうだと思ったので代わりました。
いくら何でもこの量は室長には多すぎますって、結構体力ある自分でも重く感じるのに。」
楓が言外にちょっぴり非難を
「あ~、そういうことな、把握した。………ま、以後気をつけるわ。」
ボサボサの頭をボリボリと搔きむしりながら、ラディムは途端に歩みを早める。
「ちょっと待ってくださいよ、こっちこんなに重たいもの持ってるんですよ!」
慌てて、楓が追いかける。
「ハハハッ、可愛い教え子に荷物を持たせて自分は手ぶらっつうのは随分と気分が晴れるもんだな。大丈夫、お前ならこんくらいへいちゃらさ。担任のこの俺が保証してやる。」
◆◆◆
窓のアルミサッシの向こうでアブラゼミが大騒ぎしている。
日光が明るく降り注ぎ緑が眩しい外と比べ、教室は薄暗く静まり切っていた。
年月を経て反り返った木板の上に佇んでいる机達はどこか名残惜し気だ。
楓が夏休みの宿題を職員室まで運び終わってから随分と経っていて、同級生はもう帰ったり部活に精を出していたりしている。
真昼間なのに教室に自分だけしかいないんだ、そう思った楓はちょっぴり新鮮でなんだか楽しくなってきた。
今にも床が抜けそうな教壇に飛び上がってみると、そっと黒板に指を這わせる。
先輩の先輩、そのまた先輩、とずっと書き込まれては消されてを繰り返して、もう完全にチョークの粉を落とすことは出来なくなったのだろう、楓の指先がちょっと白くなる。
クルリと一回転して教卓の前に立つと、教室がずっとよく見渡せた。
おかしいなぁ、もう進路も決まってるグレイスならもう先生との話くらい終わっていてもおかしくないのに。
もしや待ちぼうけを喰らわされているのではなかろうか。
いやいやグレイスに限ってそんなことはない、もう少し三十分ほど待ってみよう。
そんな風に楓が徒然に暇を嚙み殺していた時、がらりと音を立てて引き戸が開かれた。
教室を
つややかなすみれ色の髪を黒の
同級生でこのクラスの室長を務める優等生、
先程先生に無理難題を押し付けられていた張本人である。
小学校6年ほどにこの田舎の学校に転校してきた彼女は品行方正、文武両道、才色兼備という非の打ち所がない完璧な生徒だ。
誰にでも分け隔てなく平等に接する初月はしかしずっと楓を避けていた。
今日も、何の気なしに教室に入って教卓のこちらに目をやった瞬間に顔を歪ませる。
静かで、でもなぜか優しさを覚える三日月みたいな眼差しがこちらを突き刺した。
が、気を取り直したのか、楓は完全に無視することにしたらしい。
一直線に窓際の自身の席に向かう初月を尻目にポケットの携帯がブルブルと震える。
楓が慣れない手つきでポケットから携帯を取り出すと、その光る画面にはグレイスの名前。
形態を開いてメールボックスを見てみるとグレイスから一通の連絡が来ていた。
どうやら、楓と待ち合わせをしていたことをすっかり忘れて、先に帰ってしまったらしい。
小さくため息をつく。
メールの文面から、土下座しそうな勢いで謝っている幼馴染の姿を思い浮かべる。
やはり、グレイスにはこうしたおっちょこちょいな一面があった。
その間にも初月は自らの支度を終え、教室を後にしようとしていた。
艶やかな菫色が、窓から飛び込む眩しい日光を吸い込んで煌びやかに輝く。
どうしてか、その後ろ姿に声をかけなければいけないと、運命めいた何かが楓の胸の奥からこみ上げてきた。
「あ、あの……………さ。」
初月の歩みがぴたりと止まり、しばらくの間をおいてこちらにゆっくりと振り返る。
平静をよそよう初月の瞳の奥がひどく戸惑いに揺れているように見えた。
◆◆◆
「はぁ。」
楓は家路につきながら、深く後悔する。
声をかけたからといって特に用があった訳ではない。
なぜか、あのまま別れてはいけないと、根拠のない強迫観念に背中を押されてあんな突拍子もない言動を取ってしまったのだ。
結果、何も話すことが無くて気まずい沈黙が広がっただけに終わったが。
今になって思い返すとただの
それならまだしも宿題を代わりに運んだのも下心あってのことだと思われると、なんか嫌だ。
本当にどうしてあんなことをしてしまったのだろうか。
その心の靄を振り切らんばかり、楓は学校の正門からのなだらかな下り坂を駆け降りた。
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