文書7 クチナシの祠
それから数日かしたある日、楓が学校から家に帰る道の途中でのこと。
「あれっ? 倒木でもあったっけ?」
ふと立ち止まる。
山との境目辺りの三叉路の一方に真新しい赤の三角コーンと立ち入り禁止の立て札がポツリと置かれていた。
その道を楓が視線でたどると、すぐに森、そして山にぶつかる。
三叉路の真ん中にはこちらに微笑むようにしてお地蔵様が佇んでいた。
残暑の日差しで晴れ晴れとした青空と対照的に、三叉路の先の森は薄暗く静まり返っている。
確か、この道は雑木林を過ぎて、更に誰も踏み入ったことのない山の奥まで続いているらしい。
だが、この道が閉じられるなんて回覧板にも書いていなかった。
こういった道は村全体で管理している。
普通は回覧板ででも断っておくのが筋だ。
「おかしいなぁ……………。」
でもたいしたことではないからいいか、と楓がさらりと流そうとしたとき。
手で日光を遮り、楓は森にじっと目を凝らす。
木々の合間から、確かに見慣れた楓の高校の制服がちらちらと見え隠れしていた。
間違いない、グレイスだ。なんだってこんなところに。
それはどう見たって楓の幼馴染だった。
グレイスは街に住んでるからこんな村の奥まったところを通り過ぎるはずがないのだ。
その後ろ姿はどんどんと森の奥に向かって小さくなり、やがては目に見えなくなった。
……………気がかりだ。
グレイスがなぜここにいるのかも、なぜ山に入っていくのかも。
楓の心の中に
もし、グレイスに何かがあったらどうしよう。
もしや、思い詰めて自殺でも考えているのでは。
不安が渦を巻いて胸をかき乱す。
ごくりと、喉を鳴らす。
楓は意を決して三角コーンを通り過ぎ森の中へと足を踏み入れた。
◆◆◆
道はすぐにアスファルト舗装が剥がれ落ち、細い登山道のようになっていった。
ゴツゴツとした鋭い岩が地中から顔を覗かせている。
制靴はこんな所を歩くようにはできていない。
一歩一歩がひどく
木々の間隔は徐々に狭まり、まるで奥へ奥へと誘われているかのようだった。
何かに急かされるように、楓の足が早まる。
カケスが醜い鳴き声をあげていた。
先へ、ただひたすら先へ。
最早それが自身の意志かすらも分からず進み続ける。
次第に森は暗くなり、
人の手が最後に入ったのはいつなのだろうか、もうすでに道は夏草の間に消えかかっている。
思わず背をピンと伸ばしたくなるような森の冷気が、足元を
さっと視界が開ける。
やがて、楓は一面をクチナシに覆われた広い野原に出た。
何故か周囲には木々が生えておらず、ぽっかりと森に穴が開いているようだ。
雨風に白く風化されてしまった倒木がまるで死んだ獣の骨のように草原に横たわっている。
不自然な森の中の空洞は、不気味な沈黙に晒されていた。
そしてその中心に。
祠があった。
瓦張りの屋根を支える支柱は朽ち果て、もはや倒壊寸前。
辺りには祭壇の残骸が
お供え物の日本酒が注がれていたのだろうお
打ち捨てられ、朽ち果てた祠。
もう誰も祀っていないのは明らかだった。
ふと。
楓はその祠から何かが覗いている気がした。
まるで楓を
引き寄せられる。
視線が釘でも打たれたかのように離れない。
楓の足が勝手に一歩ずつ前へ前へと繰り出されていく。
まるで白昼夢の中にいるかのようにぼんやりとした心地で、楓は茂みをかき分けその祠に近づいていった。
何故だか分からないが、生まれた時からソレと出会うのはとうに定められていた運命なのだと直感していた。
もはや楓は祠に愛おしさすら覚えていた。
はやく、はやくあそこまでいかないと。
頭の中にガンガンと焦燥感が反響する。
ひどい頭痛だ。
視界が歪んでいく。
楓はふらふらと覚束ない足取りで転げそうになりながらも祠に駆け寄ろうとした。
その次の瞬間だった。
ふと、楓の視界におかしなものが写った気がした。
楓がさっと振り向く。
カマキリだ。
鮮やかな黄緑のカマキリがクチナシの深緑の葉の上にポツンと佇んでいた。
いたって普通の、何の変哲もないカマキリだ。
楓はしげしげとそのカマキリを眺めた。
そのうち、自身の胸の内からぐつぐつと苛立ちが沸き上がっていくのを感じる。
なぜこれに違和感を覚えたのだろう。
今は、祠に近づくことが一番大切だろう。
まったく無駄なことでどうしていちいち立ち止まっているんだ。
どうでもいいことにばかり目がいってしまう自分に苛立ちながら、楓はカマキリを無視してただひたすらに祠に近づこうとする。
が、立ち止まった。
いや、気のせいなんかじゃない。
何かが確かにおかしかった。
なんだ、何に自分は違和感を抱いたんだ。
ゆっくりと振り返る。
だが何度見てもそこにいるのはただのカマキリだ。
ほら、いまだって自分のご自慢の鎌を口で丁寧に手入れして、
まて。
あのカマキリに、腕なんてあったか?
そのカマキリは本来なら自身の鎌があったのであろう中空を狂ったように口で繕っていた。
何度も、何度も。
その腕はどこかでもげてしまったのだろうか。
……………いや、よく見ればあのカマキリの口元に何か緑色のジェルが。
その時、楓の全身に鳥肌が立った。
違う。
このカマキリは自身の腕を
背筋がうすら寒いものにすっと撫でまわされた気がした。
自身の手が消えていくのを眺めながら、ただひたすらに舐め続けるなんて。
そんな恐ろしいまね、正気の沙汰じゃない、狂ってる、異常だ。
楓はゾッとした。
思わず、楓はカマキリから目をそらしてしまう。
そのまま眺めているのが怖かったからだ。
しかし、それは全くの無駄だと楓は気がついた。
狂っているのはカマキリに限ったことではなかったのだ。
周囲を見渡すと、この野原全体が狂気に呑まれていることがはっきりとわかった。
もうすでに枯れていることにも気がつかずミツバチは永遠に茶けた花の周囲を飛び回り続ける。
もうすでに死んで白骨となったひな鳥にも気がつかずキビタキは一心不乱に我が子の死体に餌を運んでくる。
まるで時が止まったかのようにこのクチナシの草原は同じ瞬間を何度も何度も繰り返していた。
急激に楓の頭が冷えてくる。
いったいさっきまでの自分は何をしていたのだ。
我に返ると、恐怖が湧き上がってくる。
もしあのままあの祠までたどり着いていたら一体全体自分はどうなってしまっていたのだろう?
もう一度、ちらりとだけ祠を見る。
あれ。
こんな距離まで自分は祠に近づいていただろうか?
気がつくかつかないかギリギリの微妙な変化。
しかし、幸運にも楓は気づけた。
確かにあの祠はこんなに近くはなかったはずだ。
背中に氷水を流し込まれたような身震いが全身を襲う。
間違いない、ここは何もかもがおかしくなっている。
早くここから逃れなければ。
ここに留まっていればいったいどんな目にあうか……。
ふと、楓は視線を感じた。
祠の中から何かがこちらを注意深く覗いている。
あの、誘うような、気味の悪い。
ソレと、目があった。
次の瞬間、楓は本能に任せた全力の逃走を始めた。
◆◆◆
楓は息を切らせながら草木をかき分け森の中を乱暴に駆け抜けた。
森の出口はすぐそこにまで迫っているが、少しも楓は安心できない。
恐怖が未だに楓の全身を支配していた。
その時だった。
「なんでここにいるの?」
聞きなれた声がした。
楓が振り返るとグレイスが木立の合間から険しい顔で楓を見つめている。
楓はホッとした。
無事でいてくれてよかったという思いとようやく安心できる人を見つけられたという思い。
二つが入り混じって涙が出そうだった。
「いや、グレイスが奥に入っていくのを見たから…………。」
楓がそう返すと、グレイスは苦虫を嚙み潰したように唇をきゅっと結んだ。
グレイスがずんずんと楓に向かって歩いて近づいてくる。
「というかさ、グレイスはここで何をしているんだ、危ないじゃないか。いったいどう」
楓の質問を途中で遮り、グレイスが質問を放つ。
「その奥、行った?」
グレイスの驚くほど強い口調に楓はたじろいだ。
「えっ、いや」
グレイスが詰問するように楓にぐっと詰め寄った。
「あのクチナシの群生地まで行ったのかどうか教えてくれるかな。」
グレイスの剣幕に驚いて楓は思わず正直に答えてしまう。
「あ、あの………………うん、いった。」
楓の返答を聞くとグレイスの顔はさらに険しくなった。
腕をぐっと掴まれて道の脇の藪まで連れていかれる。
くるりとこちらに振り向いた彼女は自分の二の腕を両手でがっしりと掴んで目を覗き込んできた。
「ごめんだけど、ここで目にしたこと、ここに私がいたこと、全部忘れて。ここは君みたいな人が来ていい場所じゃない。」
普段の穏やかな雰囲気はどこにもなく、グレイスは真剣極まりない声色でそう告げる。
「今日、ここに君はいなかったし、今後ここに来ることもない。ここのことは森を出たらきれいさっぱり忘れる。そう約束して。」
必死な顔で懇願される。
楓はその様子に面食らった。
「いや、そのあのクチナシの原っぱにはいったい何が、」
「お願い、それ以上は踏み込まないで。あそこは君がいっていいような場所じゃない。」
結局、無理くり言い含められて了承させられた楓は、森から出て別れるまでずっと見張るようなその青い目に突き刺され続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます