文書2  後見人と幼馴染

食器洗いを終えた後、楓は風呂にとっぷりと首まで浸かった。

極楽の心地でぼんやりと揺蕩たゆたっていると、ふと白い髪が視界に入る。

生まれつき、何故か楓の髪の毛は白い。

そういえば、今は亡き父は妙に納得した風だったが、ついにその訳を聞くことは叶わなかった。


………………父が突然の心臓発作で亡くなってもう7年になる。

もともと母がなぜかいなかった楓は最後の肉親を亡くして天涯てんがい孤独の身の上となってしまった。

ヒルトルート=エデラ―はその後自分の後見人になってくれた父の古い友人だ。

父が神社を引き継いで神主になる前にドイツで出会い、父の生前は交友関係があったらしい。

その縁で楓の世話を引き受けてくれたのだ。


楓はあまり父のことを知らない。

放浪癖のある放蕩ほうとう息子で偏屈へんくつだったらしい父の記憶はほとんど薄れてしまっている。

唯一楓が憶えている記憶は何度も何度も木刀で打ちのめされた修練。

父らしき人影が鬼気迫り血走る目を見開き暗闇で爛々らんらんと光らせていたおぼろげな情景。

それだけだった。


父は何故自分にあんなに無茶な鍛錬を課したのか。

父は何故自分の白い髪に納得したような素振りを見せたのか。

母はいったいどこの誰なのか。

楓に疑問は山ほどある。

だが、父が土の下にかえった今となっては、恐らくその答えがでることは一生ないのだろう。

もやもやとした気持ちを抑え込むように、楓は口元まで湯船に潜った。


父と同じく、いつかは楓もこの神社の神主となる。

そうすれば、父の面影を見つけられるかもしれない。

暫くの間、浴室には軽やかな水のはねる音とブクブクと口元から漏れた空気の泡がはじける音が響いた。


         ◆◆◆


楓が風呂上がりの火照った体を冷やそうと縁側に出ると、先客がいた。

一番風呂をかっさらっていったヒルトルートは気配を察してか、こちらに振り向くとちょいちょいと手招きをしてくる。

呼ばれるままに近くによると、脇をポンポンと叩かれた。

どうやら隣に座れということらしい。

別に逆らうこともないので、脇に腰を下ろす。

ヒルトルートはよろしいといわんばかりに嬉しそうに何度もうんうんと頷いた。


縁側は、リーンリーンと庭の草むらの虫の声がよく聞こえた。

見上げると、地平線の果てまで続く夜空に金剛石が散りばめられている。

月の乳白色の光が二人を明るく照らしていた。


「もうすぐで、大学生なんですね。本当に、時というものはすばしっこい。」


しみじみと、ヒルトルートが語る。

楓は神職専門の学科で学ぶため、大阪の大学に進学することになっていた。

この村からではとても通えないので、下宿暮らしをすることになる。

それを見届けた後、ヒルトルートはドイツに帰るそうだ。


「まだ半年も先ですよ。お婆さんじゃないんですから。」


楓はうんざりして返す。

最近、ヒルトルートはなんだか年寄り染みた話をよくするようになっていた。

今晩もその類だろう。

まともに取り合わず聞いていたからこそ、楓は驚いた。


「そんなの、一瞬ですよ。」


ヒルトルートの声色は、いつにないほど真剣だった。

楓は呆気に取られてその横顔を振り返る。

じっと天上に瞬く北極星を焦がれるように見つめながら、どこか寂しげなヒルトルート。

そこには、楓が今まで見たことのない女性がいた。


「自分が、あなたといられるのも、あともう少しだけです。」


「…………気が早すぎますって。今生の別れってな訳でもありませんし。」


楓は、なんと返せばよいのか分からなかった。

苦し紛れに呟いた言葉が夏の夜を転がり落ちる。

二人の間に沈黙が下りた。


「少し、柄にもない話をしてしまいましたね。」


しばらくして、ヒルトルートがにこっと誤魔化ごまかすように笑うので、楓はようやく肩の力が抜けた。

ヒルトルートがしんみりとした雰囲気を追い払うように話題を転換する。


「野暮用があるので、今晩からしばらく自分は街に行ってきます。

留守は任せましたよ。

………………あれっ、どうしたんですか、そんな神妙な顔して。」


楓はすっと顔を覗き込まれた。

ほとりから眺める澄んだ湖のようにヒルトルートの緑の瞳はいでいる。

目と鼻の先にいきなり現れたヒルトルートの目に驚いて楓はのけぞった。


「ははあ、お別れを想像して寂しくなっちゃったんですか、おこちゃまですねぇ。」


ニヤニヤしながら放たれた言葉にイラっときて楓はデコピンをかましてさしあげた。

いった~いっと額を押さえて悶絶するヒルトルートを横目に晴れ晴れとした気持ちで自分の部屋の布団に潜り込む。

昼間にあれだけ眠ったのにも関わらず、暖かな布団にくるまった途端に楓は深い眠りへと誘われた。


         ◆◆◆


ピピピピピピピ、ピピピピピピピピピピ………。

枕元で騒ぎ立てる目覚まし時計に楓はうすぼんやりと瞼を開けた。


「そういえば、今日は始業式だったっけ………。」


道理でいつもよりもタイマーが鳴るのが早いわけだ。

寝ぼけまなこながらも、楓はゆっくりと体を起こして特大のあくびをこぼした。

ちょうど窓の外では眩い朝日が山際から姿を現している。


居間に移った楓はクリーム色のトースターにトーストを放り込んで適当にダイヤルを回す。

ガー、と文句を言いながらもトースターはしぶしぶ働き始めた。


トーストが焼けるのを待つ間、楓が何の気なしにテレビをつける。

差し迫った日米首脳会談を無機質に知らせるニュースキャスターの声が今に朗々と流れ始めた。


チンと、焼けたのを律儀に報告するトースターから楓は6枚切り食パンを受け取る。

楓がバターナイフでマーガリンを塗り付ける度、カリカリに焦げ目のついたトーストが黄金色に染め上げられていった。


「いただきます。」


楓が食パンを口一杯に頬張る。

暫くの間もごもごと口を動かしていると、居間の梁に無造作に打ち付けられた木製の時計が視界に入った。

古風な長針と短針は共に大きな飾り数字の6を指している。


「あっ」


楓はある用事を思い出して、顔を青ざめさせた。

まずい、あいつとの約束に遅れる!

慌てて口に残りの食パンを詰め込み、頬を膨らませながら制服に着替える。

制鞄に勉強机の上の夏休みの宿題を流し込んで、楓は自宅を飛び出した。


一歩外に踏み出すと、ひんやりとした夏の朝が胸一杯に満ちる。

鎮守の森を通る苔むした緑の石段を駆け降りると、せた朱色の鳥居の向こうに一面の鏡の水田が開ける。

その中を貫くアスファルトが敷かれた車道に出ると、ひたすらに走り続けた。


          ◆◆◆


楓の通う高校は山稜の一部を切り崩し擁壁ようへきでそれを補強した上に立っている。

ようやくたどり着いた校門前の登り坂からはその上の古びた校舎とポールの間に垂れ下がる防球ネットがよく見えた。

あともう少し、楓は気合を入れて一気に坂道を駆け上がる。

玄関ホールの下駄箱に制靴を放り込み下履きに履き替える、楓はその手間すら惜しいといわんばかりの勢いだ。

そのまま階段を駆け上がって右に曲がり、角から2番目の教室を目指す。


教室の建付けが悪い引き戸を楓がガラリと開ける。

はたして、昨晩からのひんやりとした空気が漂う清涼な教室の窓際に彼女は佇んでいた。


こちらを振り返るにつれて、ショートの金髪がふわりと広がる。

綺麗な蒼色の瞳がにこやかに細められた。

瑞々しい薄紅の唇がふんわりと微笑む。

楓の幼馴染、グレイス=オールドマンは、今日も優しい笑みを浮かべていた。


その笑顔を見て、思わず楓の心臓がドキドキと跳ねる。

楓は心臓の動悸を押さえこむように手で胸元をぎゅっと握った。


「おはよう。」


グレイスの柔らかな声に、楓は静かに自分が落ち着いていくのを感じる。

グレイスの言葉には人を安らかにさせる不思議な力があるに違いない、楓は思った。


「おはよう、ごめんちょっと遅れた。」


楓はすこし赤らんだ頬を隠すように息を切らせ手を膝につきながら謝った。

何故かクスリと笑ったグレイスは、爽やかに告げる。


「いいよ、私もそんなに待ってなかったし。じゃあ、行こっか。」

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