文書30 一夜明けて
静かに目を開ける。
楓は清潔な真っ白いシーツのベットに寝かされていた。
病院特有の薬品臭い匂いが漂っている。
寝転んだまま横を向くと、窓越しにごみごみとした街並みと青い空が見える。
楓は未だ全身に残る鈍痛をこらえながら起き上がった。
ふと、足が重い気がして目をやると、ヒルトルートが楓の足にもたれかかってすぅすぅと静かな吐息で眠りに落ちていた。
その横顔は不安と焦燥で満ちていて、眉に皴が寄っている。
寝起きのぼんやりとした頭で周囲を見渡す。
どうやら楓はあの逃避行の後、街の病院に搬送でもされたらしい。
その時、ちょうど病室に一人の小男が入ってきた。
礼服と思しき軍服をビシリと着こなしブラウンの髪を角刈りで決めた、実に厳格そうな容姿だった。
楓が起き上がっているのを見ると、眉を持ち上げて足早に歩み寄ってくる。
「失礼、レディ。お子様がお目覚めです。」
その男性はヒルトルートの肩を紳士的にトントンと叩いて起こした。
ヒルトルートはしばらくの間パチパチと目を瞬かせていた。
「あれ、自分はどれほど寝ていたんでしょう………?」
そう、不思議そうに自問したところで楓と目が合った。
次の瞬間、楓の視界一杯に小豆色が広がる。
楓はそれがヒルトルートの着ている割烹着の布地だと気がつくのに暫く時を要した。
ヒルトルートがぎゅっと楓を抱きしめる腕に力を込める。
「良かったっ………! 無事でっ………!」
ヒルトルートが声を震わせる。
涙ぐんでただ自身の無事を喜ぶその姿に楓は何も言えなかった。
◆◆◆
ヒルトルートが落ち着きを取り戻すのにはさらにもう数分必要だった。
「ごめんなさい、いきなり取り乱してしまって………。」
ヒルトルートが消え入りそうな声で呟く。
黒髪に覗く耳が真っ赤になっているところから、相当に恥ずかしがっているようだった。
脇に立つ軍人がゴホンッと咳払いをした。
「事情を説明してよろしいですかな。
まずは、本官の紹介から。
名はグレイソン・P・グティレスと申します。
本官はアメリカ合衆国の統合参謀本部に勤務しておりますが、具体的な所属は軍機によりお伝え出来ません。これから執り行われる日米首脳会談に先立ちまして来日しました。
本官が邑神楓氏を保護したのは昨日の夜、場所は市町2ー24ー2。
知人を訪問した帰り道でのことでした。
発見した時には楓氏、グレイス氏は既に倒れており、意識も不明でありました。
事態を重く見た本官はすぐさま救急車を呼び、二人の救助活動を開始しました。」
グレイス!
グレイソンの話に出てきた幼馴染の名に楓は飛び上がらんばかりに驚いた。
どうして今の今まで忘れていたのだろう!
楓は全身が不安に包まれた。
「グレイソンさん、グレイスは無事なんですか!?」
思わずグレイソンの話を遮って安否を尋ねてしまう。
しかし、グレイソンは気分を害することはなく質問に答えてくれた。
「グレイス氏は無事です。
かなりの重症でしたが命に別状はありませんし、回復に時間はかかるでしょうが後遺症は残らないと聞いています。
ただ、ここではなく別の病院に搬送されましたが。」
グレイソンの心地よい低音の声が病室に響き渡る。
良かった、グレイスは無事だったんだ。
楓はそっと胸を撫でおろした。
そんな楓を横目にグレイソンはゴホンッと再び咳払いをした。
「話を続けてもよろしいかな?
………ここから先は本官の推測となりますが。
楓氏とグレイス氏は昨日、放課後に山に立ち寄った。
山で遭難し彷徨い歩いた後、幸運にも山越えに成功し市にまで到着した。
違いますか?」
茶色の眼光が鋭く楓を貫いた。
一瞬の間をおいて楓がその意図を察する。
つまり、口裏合わせだ。
シャマシュが寄越すといった迎えが目の前のグレイソンと名乗った軍人のことならば、グレイソンもまた異能者かそれに準ずる存在であるに違いなかった。
異能は基本的に世間に秘されている。
グレイソンは異能者として今回の事態の表向きの説明を楓に伝えたのだ。
「は、はい。その通りです。」
楓は慌てて話を合わせる。
グレイソンの眼光が緩まった。
どうやら正解だったようだ。
楓はヒルトルートに気がつかれないようそっと安堵の息を吐いた。
気がつけて良かった。
「やはり、本官の推測どおりでしたか。」
グレイソンは満足げに頷く振りをする。
恐らく、これがカバーストーリーとなるのだ。
楓は理解した。
二人が異能者で、襲撃を受けたなんてことはあってはならないのだ。
楓もグレイスも放課後に若気の至りか無謀にも山で遭難しかかった。
そう、ヒルトルートやグレイスの両親、警察に説明されるのだろう。
「本当に、ありがとうございました。グレイソンさん、
このお礼は如何様にでも………。」
楓の視界の端ではヒルトルートが立ち上がり、グレイソンに深々と頭を下げていた。
◆◆◆
ヒルトルートは家に帰っていった。
検査次第では楓は明日にでも退院できるらしく、また明日に迎えに来てくれるらしい。
グレイソンも用事があるらしく、帰り支度をし始めた。
革の高級なバックに書類やタブレットをしまい込んでいる。
「あの、グレイソンさん。ありがとうございました。」
その背中に思い切って楓は礼を言う。
グレイソンはゆっくりと振り返って眉を持ち上げた。
「本官は、何も礼を言われるようなことなどしていない。
楓氏の救助を要請したのはシャマシュ氏であって、本官に恩義を負うのはシャマシュ氏となる。」
「いいえ、そのことではなくて………。
自暴自棄になって無謀にもシナリオの影法師に挑もうとした自分を止めてくださったのはグレイソンさんですよね?」
あの夜。
楓はどこかおかしかった。
グレイスが生死に関わるような重傷を負ったのに自分だけが無事でいたことへの罪悪感。
協力すると言っておきながら肝心なところで足手まといになったのではないかという自己嫌悪。
それらに圧し潰されそうで、やけになっていた。
恐らく、グレイソンが止めてくれなかったら楓は死んでいた。
グレイソンは、そんなことでといった顔つきで楓を見た。
「本官は楓氏の心身の安全を担保するように頼まれた。
ならばそれも本官の任務の一つだ。」
なんでもないことのように語るグレイソン。
しかし、楓は深々と頭を下げた。
「それでも、自分の命を助けてくださいました。
………ありがとうございます。」
「あ、ああ。」
グレイソンは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしながら、病室を後にしていった。
◆◆◆
病院の四人部屋にはほかに一人も入院者はおらず、楓は一人きりだった。
楓はきつく手を握りしめた。
グレイスが大怪我をした。
自分のせいだ。
自分が弱かった、からだ。
グレイスはこれでもうしばらくは動けないだろう。
おけさ笠の怪人や、奇妙な装束の不審者の思う壺だ。
恐らく、敵はこれを狙っていたのだろう。
おけさ笠の怪人が一人でおとりとなり、人目のない山の奥に誘い込んで始末ないし怪我を負わせる。
完全に二人は敵の掌の上で転がされていたのだ。
しかし、もし楓がちゃんと一人前に戦えていれば、それでも不利な状況には陥らなかったはずだ。
なにしろ2対2。数の上では同等だったのだから。
自分が引き起こした事態だ。
ならば、と楓は天井を見上げた。
蛍光灯を睨む楓の瞳はどこか光がなかった。
するべきことは決まっている。
どんな代償を払ってでも今回の一件のけじめをつける、それだけだ。
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