文書29 敗走

グレイスは決断した。

もうこれ以上は耐えられない。

そうとうな犠牲を払ってでもここから逃げ出さなければ二人ともやられてしまう。


ゆらりと目の前のおけさ笠の怪人が薙刀を上段に構える。

それを脇目にグレイスは異能を発動した。



次の瞬間。

グレイスと楓は左に高速で吹き飛ばされた。

地面に擦りつけられる様にしながら二人は森の中を左方向に飛んで行く。


「グレイス!?」


混乱した楓の声を尻目に、グレイスはありったけの妨害工作を退却路に仕込んでいく。


💣💣💣


無数の爆弾が森の中で連鎖的に爆発していく。


「なっ!」


■■■■■■楓は目の前に■■■■■■■■■迫る木に気がつかず、■■■■■出来の悪い■■■■■■標本のように■■■■■■■圧し潰された。

楓は背筋を凍らせた。

後一瞬でも異能が遅れていれば、楓はあの木の幹に正面衝突して死んでいただろう。


「グレイス! いくら何でも早すぎる!」


死んでしまったら元も子もない。

楓は声を張り上げた。


「逃げるにはっ! これぐらいっ! 速度がいるっ!」



グレイスはぶつかりそうになった木を右に退かしながら怒鳴り返した。


《楓》位置■■■■■■■おけさ笠の怪人


「危なっ!」


すんでの所で楓がおけさ笠の怪人の移動を阻止する。


「楓は相手の妨害に集中して!」


グレイスが出した指示に楓は従わざるを得なかった。


グレイスと楓はどんどんと山の奥へと足を踏み入れていった。

夕日は木々に遮られてほとんど見えず、辺りはどんどんと薄暗くなっていく。

太陽が山際に姿を消した頃には、森はトップリと暗くなっていた。


「どうして村に向かわないんだ!」


楓はもはやどこにいるのかもわからないグレイスに向けて叫んだ。

ややあって、どっぺりとした闇の中から返答が返ってくる。


「一旦宣戦布告めいた攻撃を仕掛けたんだから、もう村に行ったって相手は容赦なく襲撃してくるよ!他の異能者の仲間がいる町まで出ない限り安全じゃなくなったんだ!」


「っ!」


楓は納得するしかなかった。

覚悟を決め、目の前の木々を睨む。

こんな高速で衝突したらとんでもないことになる。


暗がりの中からぬっと現れ出た木に正面■■衝突する。

ギリギリ異能が間に合った。

じわじわとした恐怖が楓を襲った。

疲労のせいか、異能の切れが段々落ちていっている。

ただでさえ暗闇の中で視界はほぼ絶望的だっていうのに。

果たして、自分は生きて町までたどり着けるのだろうか?


冷気が二人を包み込み始めた。

もう10月。

特に夜の山は冷える。

二人とも戦闘を考慮して防寒具を持ってきていなかったのが災いした。

楓はかじかむ手でぎゅっと刀を握る。


暫くの間、ガサガサと二人が下草を揺らす音のほかは、静寂が森を支配する。

太陽が沈み、街の明かりも山で遮られている中では三日月のか細い光だけが唯一の光源だ。

しかし、それも鬱蒼と茂った木々の前ではほとんど無意味で、一寸先も見通せない漆黒が楓を包んでいた。


「おい! グレイス、大丈夫か!」


先程からの静寂に不安になって楓はグレイスに声をかけた。

暫くの間、返答を待つ。

が、何も帰ってこない。


「お、おい。グレイス………?」


恐る恐る再びかけた声に返答したのは、得体の知れない獣の鳴き声だけだ。

暫くの間、胸を締め付けられるような沈黙が森を駆け巡る。


「グレイス! 返事、返事をしてくれ!」


喉が裂けるかというほどの声を何度も出す。

が、ついぞグレイスからの返事は無かった。


グレイスの異能が働いている以上、グレイスは死んでいないはずだ。

そうとは理解できるものの、なぜ返事をしないのか楓は恐ろしくてならなかった。


次第に空が明るくなってきた。

街の明かりだろうか。

気がつけば、進路も下り坂になっている。


あともう少し。

もう少しの辛抱だ。


木々が段々とまばらになり、次第に家々の明かりが見えてくる。

そうしてついに二人は山を越え、街にまでたどり着いた。


「ガッ!」


冷たいアスファルトの上に投げ出される。

人気のない住宅街の中に二人は投げ出された。


楓はほっと安心する。

どうやらグレイスもなんとか山を無事に超えられたようだった。


「よかったな、グレイス。町に何とかつ…い………た………。」


街灯の冷ややかな灯の下、初めて楓はグレイスの姿を捉えた。


ダラダラと血を流し、ぐったりと倒れ伏しているその姿を。


「おい、グレイス!?」


体のどこにこんなに力が残っていたんだと自分でも驚くほど素早くグレイスの下に駆け寄る。

そこで、楓はふと気がついた。

自分が自由に体を動かせていることに。

つまりそれは、グレイスが意識不明の重体であることを指していた。


グレイスに近づき、その傷の状態を見るにつれ、楓の顔からさーっと血の気が引いていった。


喉元に木の枝が刺さっていたのだ。


声を出せないのも当然だ。

喉がやられてしまっていたんだから。

そんな中でもグレイスは必死に異能だけは維持し続けたのだろう。

楓は自分を思いっきり殴り殺してやりたくなった。

グレイスがとんでもない重傷を負っている中、自分は夜の闇を子供みたいに不安がっていたのだ。

いったい何をしている!?


しかし、自責するのは後回しだ。

楓はどうすればいいのか焦りながら頭を必死に回した。

誰か、頼りになる人間は………ッ!


シャマシュさんだ!


楓は震える手で携帯のシャマシュの連絡先を押した。


「もしもし、シャマシュだが………。」


こんな真夜中に電話を掛けられるとは思っていなかったのだろうか、訝し気なシャマシュの声が携帯越しに聞こえた。


「シャマシュさん! 今、グレイスが大怪我をして死にかけてるんです!

場所は、市の森との境界当たりの住宅地です! ええと住所は………。」


少しも時間を無駄にできないとばかりに楓は食い気味で捲し立てる。


「分かった、すぐ向かう。」


シャマシュはすぐに真剣な声色になった。


「えっ?」


住所を告げる間もなくシャマシュは電話を切った。

慌てて楓は掛けなおす。

ゴウッと風の音がして、


「えっ?」



「………これは、まずいな。

少年、この未熟者はすぐさま少女を知り合いの異能者に見せに行く。

少年はここで待っておけ。知り合いの異能者を寄越す。」


次の瞬間、シャマシュはグレイスを丁寧に抱えてつい先ほどと同様、突風と共に姿を消した。

そうして、閑静な住宅地にはポツリと楓だけが取り残された。

先程までの異変は、大地に残る血痕だけが物語っていた。


暗闇の中、楓は白い息を吐きながらアスファルトの上に立ち尽くしていた。

頭の中からはぐったりと力なく倒れ伏したグレイスの姿が染みついて離れない。


自分に力がなかったからだ、楓はじっと切り傷まみれの自分の手を見つめた。

自分に力がなかったから………っ!

グレイスの足手まといになった!


血が出るほどきつく拳を握りしめる。

死ぬほど自分の弱さが不甲斐なかった。


ズズ……と、その時森の中で闇が蠢いた。

何かが、楓を見ていた。

例のアレだ、と楓は理解した。

祠で、家庭科室で、かつて楓が出くわしたものだ。


楓は虚ろな眼でそれを眺めた。

シナリオの影法師。

………これを倒せば罪滅ぼしになるだろうか?


すっと足が前に出た。

森の中の闇に近づく。

………これを倒せばもうグレイスは傷つかないだろうか?


だんだんと楓は自分が狂気に呑まれて行っていることに気がついていた。

本能ではアレには自分など到底かなわないなんてこと、理解していた。

………これを倒せばこんなに苦しい思いをしなくて済むだろうか?


しかし、もうどうでもよかった。

楓は湧き上がる狂乱のままに身を委ね………。


「馬鹿者がっ!」


頭をぶん殴られた。

薄れゆく視界の中で楓が最後に見たものは、窮屈そうに軍服の中に納まる、角刈りの背の低い軍人だった。

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